第319話:リトリィを求める者

「みなさん、そろそろお茶にしませんか?」


 炊き出しに集まるひとたちの波に一区切りがついたところで、ナリクァンさんがお茶を準備してくれた。ありがたくいただく。


 カップから立ち上る湯気が心地よい。お茶請けには、マイセルが焼いてくれた、クッキーのような焼き菓子。練り込まれたナッツの香ばしさとお茶の心地よい苦みとが絡まって、なかなか美味しい。


 しかし奥様方の追求は厳しい、マイセルが作ったと知るや、たちまちマイセルの周りに人だかりが出来て、あーすると良い、こうするともっと美味しくなる、などなど、たちまちレシピ公開合戦が始まった。


 でもってマイセルが、それにいちいち笑顔で元気よく反応するものだから、奥様方の黄色い歓声が賑わしい。本当に俺のお嫁さん達は愛されていると思う。ありがたいことだ。


「さあさ、もうひと踏ん張りですよ」


 しばらくして発せられたナリクァンさんの台詞に、皆はぱっと立ち上がると、楽しそうに持ち場についていく。フットワークの軽いご婦人方だ。




 その日の配給がもうすぐ終わろうとしていた頃だった。


「これはこれはナリクァン夫人。お久しゅうございます」


 家の前に止まった、やたらと豪華な馬車。

 そこから出てきたのは、物言わずとも自身を貴族か何かだと自己主張して歩いているかのような青年だった。


 その両脇を、屈強そうな兵士が二人、挟むように立っている。おそらくこの二人は護衛なのだろう。護衛を雇う余裕、それを見せつけているようにも見えるのは、俺のひがみだろうか。


 深みのある赤の生地に、いくつも並んだトグルボタン。金糸銀糸の装飾がイヤミでない程度に仰々しい上着。

 右肩には金糸の飾緒しょくしょがぶら下がっていて、彼が軍人であることがわかる。


 下は白のパンツルックで、比較的ピッタリとしているが、タイツというほどでもない。ただ、チャラチャラとした細い金鎖が、なんのためだか幾重にも重なって腰からぶら下がっている。


 金髪のストレートヘアをなびかせ、金色がかった灰色の瞳をもつ、非常に印象的な青年だった。


「あらお久しゅう。いつ以来だったかしらね」


 ナリクァンさんがが微笑む。なるほど、ナリクァンさんにとっても知人というわけか。


「年をとると、時が移るのを早く感じるようになっていけないですわね。あの無礼な少年が、成りだけはこんな立派な青年になるのですから」


 ……知人ではあるが、のっけからジャブをかます程度の相手ではあるらしい。


「……そう言っていただけると、恐縮です」


 貴族らしき青年は、ほんの一瞬だけ顔を歪めるが、すぐに爽やかな笑顔を取り戻し、右手を挙げてみせた。ナリクァンさんは、申し訳程度に右手を上げる。


「それで? この引退した老人に、今日は何の用かしら?」

「まだこのようなことを続けているのだと、驚きましてね」


 青年は、庭でスープを食べている人たちを軽く見回して、そして笑った。


「銅貨一枚程度の利益でも、決して見逃さずに回収を命じるあなたが、こんな利益にもならないことを、どうして続けているのかと」

「あら、お偉い軍人さんの頭の固さでは、そんなことも分からないのかしらね?」


 やり返したつもりだったらしい青年だったが、ナリクァンさんに涼しい顔で即座に返され、苦笑いを浮かべた。


「はは、相変わらず手厳しいお言葉ですね」

「ええ。なにせ私ども庶民は、あなた方のように何でも切り捨てるような力など持っておりませぬゆえ。言葉くらいしか、振るうものがないのですよ」

「……あなたが庶民を名乗りますか。あなたのような庶民がいますか?」


 ナリクァンさん、ごめんなさい。あなたの今の言葉はさすがに俺も目が点になりました。

 あなたは決して庶民ではないと思います、そこの青年に対して全力でうなずいてしまいました。


「それで? フェクター様、お忙しいあなたのこと、こんな冷やかしだけにいらしたわけではないのでしょう?」

「さすがは夫人、おっしゃる通り」


 フェクターと呼ばれた青年は、もったいぶった仕草で手を差し伸べた。


 ――リトリィに。


「……え?」


 戸惑うリトリィに、そいつは実に爽やかな笑みを手向けた。


「あの凱旋式で貴女あなたを見つけた。貴女は、実に興味深い女性だ。この地上に舞い降りた天使というものがいたならば、あのような姿だったに違いない。

 我が屋敷に来たまえ、そのような下女の真似事などせずともよい暮らしを保証する」


 絵画を見るような――悔しいが実に絵になる二人の姿と、歯が浮くようなキザな台詞。


 そのせいだろうか、奴の言っていることが、なぜか頭にすんなりとは入ってこなかった。

 言われている内容は分かるが、頭が理解を拒否したかのようだった。


「……ちょっと、何をおっしゃっているのかが分かりませんが?」


 ナリクァンさんの言葉に、やっと、俺の疑問が正しかったことに気づくくらいに。


 しかし貴族野郎はリトリィにさらに一歩近づくと、その手を取って、これまた腹の立つくらいに爽やかに笑ってみせた。

 歯から光がこぼれるとは、まさにあんな顔のことを言うんだろう。


「貴女の、その太陽の雫のごとき黄金きんの毛並みは、私の知る限りにおいて見たことのない高貴さだ。藍晶石らんしょうせきのように澄み切った瞳も、私の心を捕えて離さない。

 しかし貴女の痛ましい手は、貴女の美しさにふさわしくない。きっと、無用な苦労を重ねてきたのだろう。さあ、どうぞこちらへ」


 よどみなくすらすらと口説き文句が垂れ流せるあたり、相当に女性の扱いが上手いのだろう。つい感心してしまい――慌てて首を振る。


「おい、ちょっと待て! リトリィから手を離せ!」


 俺は貴族野郎の手を離させようとし――両隣にいた男たちに、不用意に突き出した腕をつかまれ、捻り上げられ、そしてテーブルに押さえつけられる!


「いっ……ぐあっ!?」


 派手な音、無様なうめき声、湧き起こる周囲の悲鳴。


 テーブルに二人がかりで押さえつけられた俺は、リトリィの方を見ることすら叶わぬように固められてしまった。

 けれど貴族野郎はそんな些事など耳にも入らぬといった様子で、実に全く見事に無視して話を進めているようだった。 


「リトリィ――陽光にまつわる名前なのだね。まさに貴女のその容姿にふさわしい、美しい名だ。ますます気に入った」


 俺が腕をひねり上げられテーブルに押し付けられているその横で、平然とひとの妻を口説きやがって! こっちは新婚なんだぞ! くそっ、離せ、おい……!!


 ――パン!


 石に押さえつけられているように身じろぎひとつできなかった俺の耳に、小気味よい破裂音が響く。


「お放しください。わたしは、そこでいまおさえつけられている方の妻です。あなたのものには、死んでもなりません」


 一瞬、何が起こったのか、理解が追いつかなかった。

 そして、理解したときには、笑いがこみ上げてきた。


 リトリィが引っ叩いたのだ、やつの横面を。

 この妙なが、間抜けづらを晒している奴を想像させる。

 押さえつけられてそっちを見ることもできない情けない俺だが、それでも、リトリィがやらかしたことに胸のすく思いだった。


「この……下賤のけだもの風情が!」


 やや遅れて、俺を押さえつけていた二人のうちの一人がリトリィを取り押さえようとする。俺はその隙に必死で顔をリトリィの方に向けたが、また押さえつけられてしまった。


 しかし、おかげで目にできたのだ。

 護衛の手を振り払うリトリィを。

 もう一度つかみかかろうとする護衛などものともせず、貴族野郎を真っ直ぐ見据えて、凛として言い放つ彼女の姿を。


「では、その下賤なケダモノを夫の手から奪おうとしているあなたがたは、なんなのですか? わたしは怒っているんです、今すぐ夫を放してください」


 珍しく、怒りに燃えた、その鋭い視線。


 相手が貴族だろうと、胸を張り、一歩も引かない姿。

 ああ、たぶんあの横顔を、ひとはこう評価するのだ。


 ――かっこいい、と。


 リトリィの言葉に、クソ貴族はわずかに顔をゆがめると、護衛達に命じた。

 下がれ、と。




「当の本人から嫌われては、進む話も進まないですわね」

「……誤解をしないでいただきたい」


 クソ貴族は、皮肉げな笑みを浮かべたナリクァンさんに苦笑すると、リトリィに向き直った。


「私は貴女あなたをケダモノなどとは言っていませんし、欠片も思っていませんよ?」

「そうでしょうか? 使用人のありかたは、そのまま主人のありかたでなくて?」


 リトリィは相変わらず辛辣だ。というかクソ貴族野郎、ひとの妻をいまだ堂々と口説こうとするな。


「フェクター様、貴族のたしなみは我々庶民と違う、それはけれども、いち庶民の、それも新婚のお嫁さんに手を出す貴族は、恨まれますよ?」


 ナリクァンさんの笑顔が怖い怖い。

 そりゃそうだな、なにせナリクァンさんのお気に入りであるリトリィの、(俺が言うのも何だけど)その幸せの正反対のことをやらかそうって言うんだ。怒って当たり前だ。


「……それはひどい誤解だな、新婚夫婦の仲を引き裂くように、私が手を下すとでも?」

「ええ、そうでしょうね? あなたが手を下すわけではないでしょうとも」


 ナリクァンさんの言葉に、俺はぞっとする。まさか、手下を使ってリトリィをさらう? それとも俺を……殺す!?


 あの、毒塗りの短剣を持った刺客に襲われた、あのときのことを思い出す――!


「……やれやれ、あらぬ誤解を解きたいところだが、今は何を言っても無駄か。今日のところは退散することにしよう」


 クソ貴族は、肩をすくめると護衛を下がらせ、そしてもう一度リトリィの手を取ろうとする。

 ――が、もちろん今度ばかりは触れさせるはずもなく、彼女はさらりと身をかわすと、俺のそばに身を寄せた。


「では、また会いましょう。陽光の貴婦人よ」


 そしてこちらの返答を待つこともなく、やっぱり歯からきらりと光りをこぼしながら、クソ貴族野郎は馬車に消えた。

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