第671話:君たちみんなを幸せに

「できたみたいなんです、だんなさま」


 リトリィの微笑みに、俺は一瞬「何が?」と問いそうになって、必死で、全力で、自分の口を封印した。


 妻が、夫に、「できたみたい」と報告するシチュエーションなんて、俺には一つしか思い浮かばない! そしてフェルミならともかく、リトリィは俺に、冗談の一つも言わない女性なのだ!


「きゃっ……だ、だんなさま? その……くるしい、です……」

「やったなリトリィ! 俺……俺、信じてたよっ!」


 彼女を抱きしめ──本当はお姫様抱っこをしたかったけれどやっぱり俺ではリトリィを持ち上げるのは無理だった──キスの雨を降らせ、そして、


「なんだ、おっちゃん。今さら知ったのか? もうみんな知ってるぞ?」


 ニューの冷めた言葉に、冷や水をぶっかけられたような気分になる。自分がいかに仕事に追い立てられていたかということを、あらためて思い知らされた。




茄子オバゥギナをいただいたわたしをいっぱい愛してくださったのは、もう、ひと月以上も前ですよ?」


 一日を終えて、ベッドでくつろごうとしたとき、リトリィに言われて、俺は衝撃のあまり飛び起きた。


「なんだって⁉ そ、そうか、言われてみればそうだよな……?」

「はい」


 微笑むリトリィ。言われてから気づいていては夫失格だろう。ということは、その次の藍月の夜は、とっくに過ぎていたことになる。俺は頭を抱えた。


 あの、茄子を食べたリトリィに散々搾り取られた夜って、考えてみれば、もう一カ月以上も前のことなんだ。おまけに先日の藍月の夜も、俺、気づいていなかった。多分、一度くらいは愛し合ったと思うんだけど、結局、そのまま寝てしまっていたのだろう。夫婦の絆を深める大切な夜を、俺は全く気付かずにスルーしてしまったことになる。


「終わってるっスねー、ご主人」

「おいフェルミ、勝手に終わらせるな。俺の人生はこれからなんだっての」

「お姉さまのこと、なーんにも気づいていなかったっていうのにですか?」

「誠に申し訳ございませんマイセル様」


 二人にいじられながら、俺はベッドに顔をうずめた。最愛の妻のことを理解していなかった、それがとてもいたたまれない。


「だんなさま。わたしは、きにしておりませんから」


 そういう健気な言葉が一番胸に来るんだよ、ごめんなさいリトリィ。

 そんな彼女は、彼女の定位置──俺の左脇にぴったりと張り付くように寄り添って、しっぽを揺らしながら、ずっと俺の耳の下あたりでふんふんと鼻を鳴らし続けている。時々、首筋やあごの下あたりをぺろりと舐めたりしながら。


 くすぐったくてたまらないのだが、彼女はそこのにおいが「俺らしさ」を一番感じるとかなんとかで、ことのほかお気に入りらしい。とりあえず彼女が望むのだから、したいようにさせておく。


「そうやってお姉さまの愛情に甘えるばかりで、お姉さまのことを見てあげないようだと、そのうち本当にお姉さまにも愛想を尽かされますよ」

「そうそう。女の愛だって、無限じゃないんスからね」

「そ、そんなつもりじゃなくてだな!」

「じゃあ、どんなつもりだったんですか?」


 マイセルが、ぐいっと距離を詰めてくる。


「このひと月、確かに忙しかったのは分かります。分かりますけど、シシィのおむつを替えてくれたこと、何回ありましたか?」


 ぐっ……反論できない!

 いや、もちろん俺だって育児にはちゃんと参加しているつもりだったんだけど、回数を問われると……多分、両手で足りてしまうんじゃないだろうか。


「ヒスイなんて、おむつ、替えてもらったこともないですもんねー。さっすが私のご主人さま」


 ふぐぅっ……! いやフェルミ、俺は別に、おむつを替えたくないとかじゃなくてですね、その……交換の機会がなかっただけだと、思う次第でございまして……!


「それだけ、おうちに居てくれなかったんですよねー。ヒスイちゃん、あなたのお父さまは、おうちにも帰ってこないくらい、とーっても忙しい、偉ーいおかたなんですよー」


 いや、「帰ってこない」んじゃなくて、「帰りたくてもなかなか帰れない」のほうではないかと愚考する次第でございましてっ!


「そんな言い訳はいいんですよ、ムラタさん」


 マイセルが、さらに間を詰めてくる。思わず背筋を伸ばす形で気圧される俺。


「お姉さまは本当に、ずっとムラタさんのことを大事に思ってるから、抱いてほしいなんて言わなかったんです。いつも帰って来て、お食事をとったらすぐに寝てしまって……。そんなムラタさんが忙しいって分かってるから、お姉さまはずっと我慢してきたんです」

「ま、マイセルちゃん、そんなことはいいですから……」


 頬を染めて恥じらうリトリィに、マイセルは首を横に振った。


「いいえ。今日はせっかく、日が暮れる前に帰ってきてくださったんです。今夜ばかりは、ムラタさんの愛を取り戻さないと! 街の屋根なんかに、妻の矜持を取られてばかりでたまるもんですか!」


 マイセルが、何やら背後に噴き上げる炎を背負うかのように、こぶしを握り締めて天井に向かって突き上げた。


「い、いや、お前も大工なら分かるだろ?」

「分かりますけど分かりません!」


 天井に振り上げていた拳を振り下ろし、俺の鼻先にビシッと指を突きつける。


「ムラタさん! 私は大工ですけど、それ以上にムラタさんの妻なんです! ムラタさんだって、建築士である以前に私たちの夫なんです! これは戦いです! 妻として譲れない戦いなんです! 家の屋根おしごとなんかに夫の愛を奪われてばかりで、黙っていられるもんですか!」

「ま、マイセル……?」


 ……なんか、マイセルの愛読書の一つに、そんなようなセリフが出てくる、一人の令嬢を巡って貴族の青年たちが争う小説があったような無かったような……。


「というわけでムラタさん! いますぐお姉さまを抱いてあげてください!」

「唐突すぎるぞ、おい!」


 俺がおもわず言い返すと、隣で俺の首筋に鼻面をこすりつけていたリトリィが、顔を上げた。


「だんなさま……今夜は、かわいがってくださるおつもりではなかったのですか? それとも……」


 そして寂しげな顔で、目を伏せながら続ける。


「──それともだんなさまは、おなかに仔ができた女と『えっち』をなさる気には、なれませんか……?」


 消え入りそうなその声に、俺は彼女を抱きしめる!


「もちろん愛し合うつもりだよ! 今夜は久しぶりに、あふれるくらいにたっぷりと!」

「いやそれいつもの『えっち』と変わんないっスよね?」


 ずっと俺たちの様子を、うつぶせになって両手で頬杖を突き、足を揺らしながら見ていたフェルミが、にやーっと微笑む。


「そんなに私たちに搾り取られたいんスか? いえ、私はいいんスよ? たとえ種が空になっても、なお搾り取ってあげますんで。ねえ、ご主人?」


 そう言って手を伸ばし、俺の太ももを下から上に、つうっ……と指先を這わせる。


「……あ、いや、その、えっと……」

「ムラタさん、私のことはいいですから、お姉さまを可愛がってあげてください。お姉さま、ここ最近、ほんとに寂しがってたんですから!」


 やたらと熱心に詰め寄ってくるマイセルに、俺が「抱く」宣言をしたためか、妙に嬉しそうなリトリィが手を伸ばして誘いかける。


「そんなこと言わずに、マイセルちゃんもいっしょに、だんなさまに愛していただきましょう? マイセルちゃんだって、昨晩、お休みのムラタさんのとなりでわたしと愛し合ったとき、さびしいって泣いていたじゃないですか」

「え? い、いえ、私はその……」


 急に顔を真っ赤にして身をのけぞらせ、わたわたと慌てふためくマイセルに、娘を可愛がってやってほしいというマレットさんの言葉を思い出す。

 ああもう、分かった! 今夜は久しぶりに干からびてやるよっ! 好きなだけ搾り取ってくれ、今までのお詫びだ!

 君たちみんなを幸せにする──それが俺の、結婚式の誓いなんだ。やってやるさ!




「だんなさま! どうしたの、元気ないよ?」

「……ああ、リノ。お前は本当に、可愛いなあ……」

「えへへ、そう? だんなさまに可愛いって言ってもらえて、ボク、とってもうれしい! だんなさま、だーい好きっ!」


 頭からかぶった水を朝日できらめかせながら、リノの白い裸身が飛びついてくる。


 俺のもとに来たときには、あばら骨が浮き出るほど痩せていたリノ。けれど今では同世代と見比べてもふっくらとした、やわらかくしなやかで、健康的な体つきになった。にもかかわらず、羞恥心など無いかのように甘えてくる。


 ああ、本当にリノは、無欲で無邪気で愛らしい。恥じらいもなく裸身を押し付けられるのは少々対応に困るけれど、それだけ俺という人間を信頼してくれているのだろう。その純粋な想いに、心が洗われる気分だ。


「だんなさま! リトリィお姉ちゃんにも赤ちゃんができたんでしょ? じゃあ、次は約束通り、ボクの番だね!」

「……え⁉ あ、えっと、それはだな……」

「うれしいなあ! お姉ちゃんの赤ちゃん、早く産まれないかな。そしたらボクも、赤ちゃん産んでいいんでしょ?」


 しっぽをぴこぴこ振りながら甘えてくる少女に、俺は急激に背筋が冷える思いだった。今だって三人がかりで搾り取られて干からびてるのに、これでリノまで加わったら、俺、本当に腎虚で死ぬ。間違いない。

 全員同じ夜に、じゃなくて、今のうちに、愛し合う順番の日替わりローテーションを提案しなければ、この先生きのこることができないかもしれない。


 ……でも、絶対にリトリィは毎晩いっしょに寝ることを要求してくるだろうし、ああもう、一体どうすればいいんだっ!


「んう? だんなさま、どうしたの?」


 くりくりの目で首をかしげる彼女に、俺は自分の笑顔が引きつっている自覚をしつつ、頭をなでてやる。


「……なんでもないよ。リノはいっぱい食って、俺と一緒に働いて仕事を覚えて、そして早く大きくなれば、それでいいんだ」

「えへへ、だんなさま……!」


 目を細めて、俺の腹に顔をこすりつけてくる。彼女たちチビ三人を拾ったときの、あのすさんだ目、憎まれ口を叩く姿に、俺は彼女たちの将来を憂えたものだった。あのときは、リノがこんなにも愛らしい少女に成長するとは思っていなかった。


 そうだ。俺のことはさておき、こいつらを幸せにしてやるのが、俺の、拾い主としての責任だ。彼女が俺を望んでくれるというのなら、未来に責任を持って、ずっと寄り添って生きるだけだ。君たちみんなを、幸せにするために。


 ……夜だけは、ローテーション確定で。



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