第289話:君が見出してくれたから

 ハナちゃんの背中から下りたとき、揺れない地面のありがたさを本当に実感した。ああ、ひとは正しく地面の申し子だ。間違っても、裸の背中の狼に乗る生き物なんかじゃない。二度と乗るものか。


『ひととの久しぶりの食事、楽しかったぞ。礼を言う』


 命があることを、地面にはいつくばってはらはらと涙を流さんばかりに感謝している俺に変わって、リトリィとマイセルが、実に名残惜し気に、狼母娘との別れを告げる。

 さすがに今度ばかりは幻滅されたかと思ったが、リトリィ曰く、


「ふふ、ムラタさん、弱音を吐くことはあっても、怖がる姿ってあまり見せないですから。なんだか、可愛らしかったです」


 ――君、ブレないね! どんな俺からも長所を見出すそのタフな精神力、俺も見習わないとな!




 青い光がものすごい勢いで遠ざかっていくのを見送った俺たちは、青い月が中天に差し掛かる前に、家にたどり着いた。


 体を拭くのもおっくうで、そのままみんなで、ベッドに倒れ込む。狼の背中でゆすられる道は、きわめて速かったけれど、そのぶん、しがみついているのに体力を必要とした。

 もう一度言う、二度と乗るものか。


 既に寝息を立てているマイセルなど、歩きながらうつらうつらしていて、家のドアを開けたらそのままくずおれてしまったものだから、俺がなんとか担いで二階まで上がったのだ。

 リトリィが見かねて「わたしがおんぶしますから……」と言ってくれたんだけど、自分の婚約者くらい、自分で担がなきゃな。


 マイセルの可愛らしい寝息を聞きながら、窓から月を見上げる。

 三つの月が昇っている様子が、狭い窓枠から見える。


「……ムラタさん」


 リトリィがゆっくりと体を起こして、俺に話しかけてきた。


「もうすぐ、ですね……」


 もうすぐ。

 ――そうだ。もうすぐだ。


 もうすぐ、俺たちは、永久とわの契りを結ぶ。

 満開のシェクラの下で、永遠の愛を誓い合うのだ。ああ、楽しみだ。


「ごめんなさい、遅くなってしまって。わたしのわがままで……」


 言いかけた彼女の唇を、そっと塞ぐ。

 原初のプリム・獣人族ベスティリングとされたがゆえに、一人の女の子としてのいろいろなことを、我慢し、諦めてきたリトリィ。


 いつも優しく、穏やかで、働き者で。

 特に山にいたころは、あまり自分のしたいことというものを、表に出すようなことがなかったように思う。


 それが、俺と愛し合うようになって、自分の希望を言うようになったり、俺に忠告をくれたりするようになった。


 シェクラの花の下で結婚式を挙げたい、というのも、最初はナリクァンさんたちの他愛ない話からだったが、彼女自身が望むようになった。


 彼女が言い出したふた月前には、そんなに待たなきゃだめなのか、と思ってしまったりもした。

 けれどもうすぐだとなると、あっという間だったように感じるから、人間の感覚なんていい加減なものだ。


 考えてみれば出会ってから半年も経たずに結婚。

 いや、避妊どころか積極的に子作りをしている仲なのだから、さっさと結婚すべきだと思っていたけれど、なかなか早いテンポで関係が進んでいたことに、今さら気づく。


 万年童貞、死ぬまで独身と思っていたのに、そんな俺が、結婚! ああ、式の日が本当に楽しみだ!


「ムラタさん、ひとつ、きいていいですか?」


 リトリィが、小さな寝息を立てているマイセルを見つめながら、ポツリと言う。


「なんだい?」

「……マイセルちゃんとわたし、おなじときに出会っていたら……」


 その先は、聞かれなかった。

 彼女は言いかけた言葉を飲み込むように、そのまま押し黙ってしまった。

 だが、その先は言われなくとも分かる。

 というより、分からないはずがない。


『もし、同じ時に出会ったら、どちらを選んだのか』


 彼女の胸に飲み込まれた問いに、俺は、冷や水を浴びせられた思いだった。

 同時に、聞かなければ表向き、波風など立たなかっただろうに、それでも聞いてみたくてならなかった彼女の心中を察し、胸が痛くなった。


 制度としては一応、認められている多夫多妻。けれど、それを活用する家庭は少ないんだっけか。


 当然だろうな。夫が複数ならともかく、妻が複数いれば、当然生まれてくる子供の数も単純計算で倍になる。

 扶養家族が多ければ、経済的な負担も大きくなる。


 なにより、愛の偏りがいさかいを生むに決まっている。

 たとえ平等に接したとしても、それを受け取るほうがどう感じるかが問題になるのだから。


 ましてリトリィは、瀧井さん曰くの「情の深い」獣人族ベスティリング。俺のことを一途に慕ってくれていたところに、俺は――。


「ご、ごめんなさい。忘れてください、わたし、その……」


 目をそらし、か細い声でそう言った彼女の肩を、そっと抱き寄せる。


「正直に言っていいかい?」


 びくりと肩を震わせる彼女に、俺は、少し間を開けて、そして伝えた。


「たぶん、俺が選ぶどころか、そもそも君もマイセルも、俺なんて眼中になかったと思うよ?」

「……え?」


 目をぱちくりとさせるリトリィに、俺は笑ってみせた。


「その前提だと、俺は、この街にいることになるし、リトリィはこの街に、たまたま仕入れかなにかで立ち寄っただけってことになる。

 ということは、俺はリトリィに温められて目覚める、なんてことにはなってないということだし、当然、そうしたらリトリィと出会うこともなかっただろう」


 リトリィが、頭上に疑問符を浮かべているのをあえてそのままに、俺はつづけた。


「そうすると、君に自信をつけてもらってマイセルに好かれることになった、そんな俺も存在しなくなる。

 つまり俺は、リトリィにも、マイセルにも好かれることなく、この街の片隅でひっそりと生きていただけ――いや、野垂れ死んでいたかもしれない、そんな奴で終わっていたことになると思うよ」

「そ、そんなこと、あるはずが……」

「俺がどれだけ面倒くさい人間だったか――まあ、今もだけど――リトリィも知ってるだろう?」


 俺の言葉に、目が泳ぐリトリィ。うん、ごまかせないひとだ。納得しただろう?


「そ、そんなこと、ないです! わたしは絶対に、ムラタさんのことを好きに――」


 取り乱しながらも言い張る彼女を、力いっぱい抱きしめる。


「だったら、それでいいじゃないか。俺も君と出会って、そして君に惚れた。君に、ひとりの男としての自信をつけてもらったんだ。

 今の俺は、君に育ててもらったようなものなんだよ。それで、納得できないかな」

「そ、そんな、その……わたしは……」


 リトリィはしばらく、戸惑いを隠せない様子で、うつむいていた。


「どんな世界で君に出会っていたとしても、俺から君に声をかけるなんて勇気、絶対に持てなかっただろう。……現に、そうだったんじゃないかな? ほら、初めて水汲みをして、君に渡そうとしていた時の俺を、思い出してみてよ」


 彼女の肩を抱いていた両手を、頬にスライドさせる。

 まっすぐ、俺の顔を見つめさせるように。


「あ……む」


 目をそらそうとした彼女の唇を、まっすぐ塞ぐ。


「――君が俺を見出してくれたから、俺は君に惚れたんだ。どんな世界で出会ったとしても、出会いが同じだったなら、きっと、君に惚れていた。君がいてこその、俺なんだ」


 頬が熱くなり、胸の鼓動がリトリィにも聞こえてしまいそうなくらいに、激しく高鳴る。

 緊張のあまり過呼吸気味になっているのか、びりびりと指先が震え、自分でも、何を言っているか分からなくなってきていたが、かろうじて言い切った。


 分かってくれ、リトリィ、俺は――。


 リトリィはしばらく、口を震わせていた。

 彼女の青紫の瞳に、みるみるうちに涙があふれかえる。


 ま、またやっちまった!? また俺は、彼女を悲しませてしまったのか!?

 ――ああ、くそっ!


 胸の中で毒づく。自分の言葉の拙さに、その情けなさに。

 俺の思いは、また、リトリィに届かなかったのか。鋼鉄の事務員、御室おむろ女史さえも「おーむろん!」と呼んで苦笑いさせていた三洋や京瀬らの口のうまさが、本当にうらやましい!


「ごめん……わけが分からなかったかもしれない。でも、分かってほしいんだ。俺を支えてくれて、俺に自信をくれた君が好きで、だから君が一番、大切で……!」


 ぼろぼろと涙をこぼす彼女を見ていられなくて、再び彼女を抱きしめる。

 どう言えば彼女に伝わるのか――もう、本当に、何を伝えたら。


「……ちがうんです、ムラタさん、ちがうんです」


 リトリィが、おずおず手を伸ばし、俺の背中に手を回す。


「……ちがうんです、わたし……う、うれし、くて……!」


 嗚咽交じりに、彼女は、俺の耳元で。

 こんなにも自分を愛してくれている人に、どうして自分は、試すようなことを言ってしまったのかと。

 そう言って、彼女は、「ごめんなさい」を繰り返した。


 違うんだ。

 そうのが、俺なんだ。

 彼女が、本当に愛されていると実感していて、その思いに自信を持てていれば、あんなこと、聞くはずがなかったのに。


 やっぱり俺のせいで、彼女は泣いた――俺が、泣かせてしまった。

 何度同じことを、繰り返してしまうんだろう。

 そう思って謝ったら、さらに泣かれた。


「ちがうの……わたしが、わたしがわるいの、ムラタさん……!」


 ……結局、俺たちは、また、二人で抱き合って泣いた。

 それは悲しかったからじゃない。

 どうしようもなく、お互いが好きで、愛おしくてたまらないからこその、涙。

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