第288話:久しぶりの温かい食事
ハナちゃんがごろんと放り投げた猪に、俺は歓声を上げ、マイセルは悲鳴を上げ、そしてリトリィが驚愕する。
きゃあきゃあとマイセルが騒ぐのは分かる。だが、リトリィがひどく驚いていたことをいぶかしんで聞いてみたら、魔狼の規格外ぶりに驚いた。
「あの、ムラタさん。お肉をつくるために、血抜きをしますよね?」
血抜き――動物を仕留め、肉として活用する前に、まずしなきゃならないことだよな。それをせずにすぐ食べようとすると、生臭くて食べづらい肉になるらしい。
山の館でも、リトリィが畑に紛れ込んできた鹿を仕留めたあと、逆さまにして喉を切り、血抜きしたのは覚えてるぞ。
「わざわざ血抜きをする狼さんって、いると思いますか?」
言われて、リトリィが驚愕した理由を理解したわけだ。
なるほど、確かにそうだ。テレビの動物紹介番組で肉食獣が獲物を得たとき、血抜きをするなんて見たことがない。
『シルゥに教えてもらったのさね。仕留めた獲物はすぐに血抜きをするんだとね。わたしが初めてライトに与えた獲物は、あまり食べてもらえなかったからねえ』
なるほど、ハナちゃんの行動は、ライトの様子から学んだか。
リトリィと作業をしたときは、鹿の足を縛り、木に逆さづりにしてから喉を切って流せるだけ血を流したあと、冷やすために谷川に沈めておいた。
この魔狼、仕留めた獲物の喉をかみ切ると、脚をくわえて振り回し、その場で血抜きをしたんだとか。
今転がした猪も、『少し待ってるんだよ』と言って、体感時間で十分も経たないうちにもってきたものなんだが、……何というワイルドな作法。巨大すぎる魔狼だからこそできる芸当だな、まったく!
『人の仔にものを食わせるのは、面倒くさくっていけないね。この上さらに、火を通さなきゃ食わないのだから』
面倒くさくっていけない、などと言いながら、しかし口で言うほど面倒がっているようには見えない。というか、むしろ尻尾をゆらゆらと振っているところから、楽しんでいるようにすら見える。
それにしてもだ。
肉を焼いてくれと言って、猪を一頭丸ごと持ってくる魔狼も魔狼だ。お前ら、野生の生き物なんだから生肉をかじっているものじゃないのか。
『普段はそうしている。ただ、せっかく我を見ても逃げない人間がいるのだからね。人間は、血の味とは違う味を付けて食べるのが、興味深くていいのさ』
興味深いって、お前らなあ……。ほらみろ、リトリィなんかさっそく腕まくりして皮を剥ぎにかかってるし。いやいやマイセルが怖がって……ないな。嬉々として枯れ枝を拾い集め始めてるよ。
なんで俺の周りの女性って、こんなにパワフルなんだ。いや、この世界の女性はみんなこうなのか? パワフルでなきゃ生きていけないってことなのか? それとも、単に俺がヘタレすぎだから、相対的にパワフルに見えるのか?
「ムラタさん、剥いだ皮を洗っておいてくださいな。“ハナちゃん”さんが上手に仕留めてくださっていますから、街に戻ったら、きっとそれなりの値段で売れると思いますよ。それとも、なめして何かに使いますか?」
はいはい分かりました。やりますよ洗います。
ただ、最低限の処理をしたら、さっさと売ろう。
『これだこれ、こういうのがいいのだよ』
人間をひと噛みで両断できるほどの巨大な狼が、切り分けたイノシシの肉をちんまりと舌にのせて、実に嬉しそうにしている。
「オオカミさんが獲ってきたお肉ですから、いっぱい食べてくださいね。わたし達だけでは、食べきれませんから」
リトリィの言葉を聞いて、一回り小さな――といっても十分に巨大なのだが――娘狼の方も、あんぐりと口を開ける。
昔読んだ『狼と七匹の子山羊』とか『赤ずきん』とかの童話であったように、本当にひと口で呑まれそうな大きさだ。
とりあえず、焼けた肉を切り分けて口の中に放り込んでやると、少ないぞと文句を言いながら口を閉じる。不満げではあるが、意外におとなしく口をもぐもぐやっているところは、なんだか可愛げがあっておかしい。
たしかに、彼らの口のサイズからしたら、食べた気にもなれない大きさではあるだろう。俺たちから見れば、とても自分の口には入りそうにないほどの大きさに切ってやっても、だ。
「少ないって言われてもな……。そのでかい口だと、まるごと放り込んでも満足してくれそうにないように見える」
俺の言葉に、ハナちゃんが申し訳なさそうに頭を下げて、ついでに娘の頭を踏みつける。
『だから、みっともない真似をおしでないよ。本当に、あの人に似て食べることが好きなんだから』
口ではみっともない、などと言うハナちゃんだが、でもなんだか嬉しそうに見えるのは、俺の気のせいではないだろう。たぶん。
それにしても、猪の肉を切り分け、巨大な狼と分け合って食べるなんて! しかもその狼が、実に満足そうに喉を鳴らして
リトリィの顔で見慣れたからなのか、狼が、確かに笑っていると分かるのである。
おまけに、本来は翻訳首輪があっても、動物と話をすることなんてできないらしいのに、目の前にいるこいつらは突然変異とでもいうのか、どこでもいいから体に触れてさえいれば、会話が通じてしまうのである。
そのため、今、俺たちは彼らの尻尾のなかに埋まっている。まるで毛布かなにかのようにして尻尾の毛の中に潜り込み、夕食を食べているのだ。
そもそも、それを提案したのが狼のほうだというのだから、もう何と言ったらいいのか。
『いいさね。あの頃は、そうやってみんなで食事をとっていたし、そうやって寝ていたものでね。気にするでないよ』
俺など、踏みつけたり汚したりして無礼があってはいけないと、ビクビクしながら尻尾の中に納まったというのに。
それなのにマイセルときたら、「わあい、ふかふか! 上等な毛布みたい!」と、いの一番に飛び込んで、ハナちゃんの尻尾の中で転げまわっていた。
で、そうやって尻尾の毛のなかで大はしゃぎしているマイセルを、何やら楽しそうに見守っている魔狼。怖いって、どういう概念だったっけ?
ていうかだな、あんなに最初、おびえていたというのにだ! 子供扱いをしたらむくれるんだろうけれど、子供って、なんであんなに適応能力が高いんだ!
でもって、マイセルが「はい、あ~ん!」と、小枝から切り出した即席の串に猪の肉を挿して差し出せば、巨狼たちも心得たもので、その小さな肉片を、ぱくりと食らうのである。母狼と娘狼のそれぞれに、餌付けするように肉を与えるマイセルと、交互に食らう狼たち。
……シュールだ。
「メイちゃん、どう?」
『……うまい』
「ハナちゃん、美味しいですか?」
『ああ、うまいよ。ひとの作る温かいものを、ひとと一緒に食べる――本当に久しぶりなことさね』
ハナちゃんの言葉は、なにやら、噛み締めるものでもあるかのようで。
『……うまいよ。ああ、久しぶりさね。……温かくて、うまい』
笑っている。
無表情で食っている娘狼――メイちゃんというらしい――に比べて、母狼の表情の豊かなことといったら。
やっぱり確かに、この巨狼、笑って食っている。
まったく、こんなにシュールな夕食、体験したことがない!
楽しい食事のひと時も過ぎ、デザートのドライフルーツを食べて実に満足そうに礼を言った母狼が、ちろちろと燃える焚火を見ながら述べた提案になど、乗るんじゃなかった。
「ムラタさん! 私、メイちゃんの背中でいいですか!」
提案を聞いて、やたらと乗り気なマイセルのきらきらした瞳を曇らせたくなかったのと、まあ、夜陰にまぎれて目立たないなら、こんなモンスターが街道のそばを走ったって大して問題にはならないだろう――そう考えたときの俺の口を、縫ってでも黙らせておきたい。
「ひやあああああっ!!」
狼の背中にしがみついて移動!
どんなジェットコースターより恐ろしいことだけは分かる!
なにせ、背中の青く光るたてがみを、万が一手離してしまったら、安全バーもなにもないこの状況! 直ちに墜落死は免れない!
激しく上下するしなやかな背中の上で、リトリィに後ろから覆われるように支えられながら、俺は母狼の背中で揺さぶられていた。情けない悲鳴を上げて。
「メイちゃんすごい!
マイセルなど、娘狼の背中に一人で乗って大はしゃぎだ。リトリィも、背中から俺を支えながら、ささやくのだ。
「むりに背中にくっついていようとするのではなくて、姿勢を低くたもつようにしてみてくださいな。ほら、“ハナちゃん”さんの動きに合わせて。なれてくれば、楽しいですよ?」
だめだ、この三人の中で、俺が一番情けない!
だけど狼の背中がうねるたびに、体が浮き上がるような感覚を覚えるたびに、背中がぞわっとくるんだよ! あの、車に乗っていて、急に坂道を下った瞬間のあれ!
殴りつけるような空気抵抗に感じる浮遊感、疾走感は、慣れてくれば確かに爽快に感じられるようになるのかもしれない!
でも、それ以上に、落下の恐怖が!
怖いんだってほんとに! 頼むからもう下ろしてくれ、俺一人ででも歩いて帰るからっ!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます