第44話:くさび(3/7)

「じゃあ……おやすみ」

「はい、ゆっくりとおやすみなさいませ」


 挙げた俺の右手に、リトリィがそっと左手を添え……重ねる。


「リトリィは、手を、重ねるんだな」

「はい。……お気に召しませんか?」


 顔を曇らせた彼女に、心臓が跳ねる。

 フラフィーは言っていた。

 手を触れさせるのは、特別な相手だと。


「……親方たちにも重ねているのか? その、家族だし」

「いいえ?」


 即答。

 不思議なことを言う、といった表情だ。

 ますます気になって、聞いてしまう。


「じゃあ、なんで俺には……?」

「……だって、ムラタさん……だから――」


 言いつつも視線を落とし、目を伏せる。

 尻尾が揺れているのは、彼女が言いよどんだその先を、きっと表しているのだろう。


 ああもう、なんで俺はこんな女性を、いとも簡単に泣かせてきてしまったのだろう。

 彼女とあえて距離を置いた日々が本当にもったいなかった。


 ああ、今日ももう終わりだ。

 ……リトリィと共に過ごしたこの一日も。


 俺は当然一人で寝るつもりだったし、だから家の玄関で彼女に丁重に謝罪をし、礼を述べ、一人で階段を下り始めたはずだったのだが。


「一人で寝ていると、きっとまた、いろいろと考えちゃうと思いますから」


 そう言って、 彼女は部屋まで一緒についてくると、狭いシングルベッドにもぞもぞと入り込み、「ムラタさんがお休みするまで、見ててあげますね」と微笑んだのだ。


「本当に、見てるだけ……ですからね?」


 俺の左腕に、左半身に、全身で絡みつくようにして。


 ――これは天国なのか。それとも、地獄なのか。


 かえって劣情をそそりかねない、例のショールはサイドテーブルに畳まれている。

 しかし今、彼女は腰の帯しか身に着けていない。


 そう。

 今、彼女は腰に巻き付けた、幅の広い帯以外、例の黒猫くろねこふんどし状の下着――片結びTバック紐パンのアレ――さえ身に着けていないのだ。


 あの帯、一体何のために身に着けているのだろう。裸体を隠す役目を、ほぼ果たしていない。おまじない、あるいはお守りみたいなものなのだろうか。


 その彼女が、俺の左腕に絡みつき――というか、俺の左半身に絡みつくように――眠っている。

 ふわふわの体毛が、極上の毛布のように温かい。多少、顔にかかるのがくすぐったくはあるが。


「俺が寝るまで、見ているだけだったんじゃなかったのか?」


 そっと、頭の上にぴょこんと生えている三角形の耳元にささやきかけると、その耳がピクリと動き、もぞもぞと、むしろより体を密着させるようにしがみついてきて、目を覚ま――さない。


 ただ――


 ただ、左手が、彼女の腰下の、三角地帯のさらに奥に、挟み込まれたという、この恐ろしい状況!

 もぞもぞとももをすり合わせられ、艶っぽいため息のようなものと一緒にしがみついてこられて、理性を保てる男は、果たしてこの世に何人いるのだろう。


 指先を動かしてみたくてたまらないが、そんなことをしたら今度こそ言い訳が効かなさそうで、恐ろしくてできない。

 痴漢行為をする連中がそんなことをできるのは、二度と会わないという前提があるからだろう。明日も明後日も共に生活していく、怖いオトコが三人も背後に立つ女性に、破廉恥なことを仕掛ける度胸などあるものか!


 と、同時に、俺の良心がうそぶく。

 ――嫌うようなら、そもそも男のベッドに下着もつけずに潜り込んできて、こんな風に絡みついてこない。つまりこれは、据え膳食わぬは男の恥というやつだ

 どうせ、八つも年下のこの娘の胸に縋りついて泣きじゃくったあげくに襲いかけて怖気づくという、無様な姿をさんざん見せたあとだ、怖いものなんて何もない。行け押せムラタ!


 ――だめだだめだ!


 二十七年間に出会ってきたその他大勢の人間はともかく、リトリィにだけは嫌われたくない。彼女の過去がどうあれ、今の彼女は、慈愛に満ちた天使なのだ。

 しっかりしろ、俺! 良心は仕事しろ。


 いや……いやいや、しかし正直、俺のムスコはギンギンに跳ね上がってるんですが!


 待て、いや待て急いては事をし損ずる。

 経験ゼロの人間が、お互いの同意もなしにまともに行為を完遂できるとは思えない。というか、突入すらできるとも思えない。試行錯誤の末に暴発して終了、なんてことになったら、夜這いに失敗した笑い者にはなれても、その後のリトリィとのチャンスは永遠のゼロになるに決まっている!


『じゃあ、私より八つ年上の赤ちゃんですね』


 俺のほうが年上。俺のほうが大人。たとえ経験が無くとも、大人として彼女をエスコートすべきだ。耐エロ俺!


 彼女は言った、一人になるといろいろ考えてしまうと。

 彼女は、俺が不安で押しつぶされそうになっていたのを、救おうとしてくれているのだ。だから添い寝を申し出たのだ、強引に。

 こうして隣で眠ってくれるほど、彼女は俺に対して警戒心を持たずにいてくれているのだ。その信用に応えなければならない。


 心の中で般若心経を唱えながら、リトリィを起こさないようにゆっくりと左腕を抜く。彼女に背中を向け、やや間を取り、目を閉じて寝ようという努力を始めたとき。

 ……もぞもぞと、背中にさらに身を寄せ、彼女が再び絡みついてきた。


 ふわふわの毛に覆われた、しなやかな手が俺の胸に絡みつき、足も、俺の腰に回して絡めてくる。


 ……おい。

 おいおいおい。

 いくらなんでも、襲っちゃうよ?

 これはあれか? 彼女は抱き枕がないと寝られないタイプっていうことなのか?

 それともやっぱり俺の良心が正しくて、煩悩に打ち勝とうとする俺の努力は、無駄だったってことなのか?


 二十七年間、女性に縁のなかった、うだつの上がらない童貞に、やっと巡ってきた幸運か――それとも、破滅の罠か。


 いや、まだだ、まだ慌てるときじゃない。

 落ち着け、冷静になれ俺。


 彼女は、俺が、だと、のだ。

 から、のだ。


 ならば、俺ができることはただ一つ。

 ――耐えること。

 俺は信じられている。

 のだ。

 男の沽券とかはどうでもいい。

 俺の頭を空っぽにするのだ。

 この純粋な女性の信用に、誠実さで応えるのだ!

 耐えろ! ムラタ。


 耐えるから、せめてその、なんだ。アレだ、頼むから。

 俺の足を股に挟み込んだまま、もぞもぞと絡みついてこないでほしいんだが――!


 彼女はわざとやっているのか、俺をからかっているのか。

 それとも単に、抱き枕を欲しているだけなのか。

 思い切って、体をひねって彼女のほうを向く。起きているのか、それとも眠っているのか。それを確かめるために。


 そんな俺の懊悩など、彼女はとっくに見抜いていたのだろう。


 彼女は、まっすぐ、俺の目を見つめていた。

 口元に微笑みを浮かべ、わずかに差し込む月光を瞳に宿し、その薄い青紫の瞳を、宝石のように煌めかせて。


 ――たがは外れた。盛大に、弾け飛んだ

 お互いにもう、相手に何も、

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