第38話:解きほぐす
これがダンスだったらよかったんだが、あいにく、そんなロマンチックな場面ではない。
急勾配の階段を、二人がくっついて下りるのは、本当に恐怖の連続だった。アイネが時々支えてくれていなかったら、二人そろって転げ落ちていたかもしれない。
……くそう、なんだかとんでもない借りを作ってしまった気分だ。
とりあえず、二人で抱きしめ合う形でそろりそろりと歩くのに疲れたころ、浴室――という名の、タイル敷の部屋にたどり着く。
以前聞いていた通り、たしかに浴槽なんて無かった。もちろんシャワーも無かった。言うまでもなく、
ただ、水を使っても平気なように、タイル敷の部屋、というだけ。一応、排水用の穴は開いているが。
いや、この世界に――少なくともこの屋敷に、水道というものはない、というのは分かっているんだけど、何のためにこんな部屋をこしらえたんだろう。
親方が笑いながら持ってきた溶剤を、まずはリトリィの右腰――俺の左腕がくっついているところにかける。
沁みるぞ、という親方の言葉通り、肌を突き刺すような、ぴりぴりとした不快感が左腕を襲う。
――しまった! ということは……!
「ふ……うっ……!」
間髪入れず、耳元に響く、切なげな吐息。
腰をもぞもぞと動かすリトリィ。おそらく、同じような刺激に耐えているのだろう。俺の背中に回した腕に、指先に、力が入る。
焦点も合わせづらいほどの目の前で、刺激に耐えている表情を見せつけられるのは、辛い。いったいどうしたら、彼女の苦痛を最大限回避しつつ、剥がすことができるだろうか。
少しずつかければ――いや、彼女の体に付着する時点でどうしようもない。
俺は我慢するから、リトリィには溶剤がつかない方法――
そして、気づく。
そもそも、二人共に溶剤をつける必要なんてない。
「悪かった、リトリィ。沁みた――よな?」
「へい……き、です……」
平気なことがあるものか。うつむきながら目をぎゅっと閉じているその表情、痛いほど背中に食い込んだ爪から、彼女が耐えている苦痛のほどが伺える。普段は豊かな毛並みに守られている肌なのだから、俺なんかの腕よりもよほど刺激に対して敏感なのだろう。
うかつなことをしてしまった自分を恥じる。
これが日本なら、シャワーの湯で流しながら徐々にほぐしながら、などの手が使えるのだろうが、あいにくそんな豊富な水など、ここにはない。親方が手桶に汲んできてくれた一杯の水、それがすべてだ。
次は彼女にかからないようにと、なるべく彼女から腕を離した状態で、俺の腕に少しずつ、溶剤をかける。彼女の体越しなので、なかなか難しいが、自分の腕に溶剤が多めにかかることくらいは気にしない。
なんとか右腕を伸ばし、リトリィの毛が張り付いているところをひっかくように少しずつ解きほぐすことで、徐々に剥がしてゆく。
ただ、どうしても溶剤が彼女の腰の皮膚に浸透するのを避けることはできず、またどうしても右腕を伸ばそうとすればリトリィをきつく抱きしめることになり、そのせいか彼女の吐息が荒い。
溶剤が付着するところは痛むのだろうし、また締め付けられて息苦しいのだろうが、しばらくは我慢してもらわないと、こればっかりはどうしようもない。どちらかの手が自由になれば、あとは何とでもなるのだから。
ただ、首筋に彼女の荒い吐息がかかるのが、なんともくすぐったくてたまらない。が、これもリトリィに痛痒を押し付けている以上、自分も我慢せねばならないことだと考えて耐える。
ようよう左手を剥がすことができたときには、リトリィの懇願でしばらく休むことになった。よほど腰に付着した溶剤が沁みるらしい。リトリィの体毛にはまだ黒々と接着塗料が残っている。残念だが、これはあとではさみか何かで刈り取るよりほかはないだろう。
それに加えて、溶剤が垂れたところの体毛の色が抜け、白っぽくなっているのが痛々しい。桶の水をかけて、とりあえず溶剤を洗い流す。
右のほうも溶剤をかけようとしたが、思い直してナイフで切り離すことを試みることにした。左手から剥がした部分には、結局黒々とした塗料が体毛にこびりつき、とても洗い流して取れるとか、そういったことが考えづらい状態になっている。
右手の方も、溶剤で溶かしたところで体毛は傷んでしまっているし、黒々とした塗料を綺麗に落とすことなど無理だろう。
それに、また溶剤を使うとなると、さらなる負担を彼女に強いることになる。どうせ周囲の体毛ごと刈り取ってしまわねばならないなら、無理に溶剤を使う必要などない。
そう思ったのだが。
利き手ではない手で刃物って、危険だ。
みんな、絶対真似すんなよ!
彼女の金の体毛に、見るも鮮やかな赤色を追加する羽目になっちまうぜ☆
……慎重に、本当に慎重にやったつもりだったが、最後の最後でざっくりと切った時、勢い余ってそのまま俺の皮膚ごとリトリィの体毛を刈り取ってしまったのだ。
いやあ、皮膚の下って、白いよね。しばらくは血が出なくてさ、そこからじわーってわいてきたと思ったら、あとはもうとめどなくあふれてくるんだー、と、妙に冷静に、自分の腕の損傷具合を見届けてしまった。
パニックになったのはリトリィのほうだった。押さえても押さえても次々に当て布が真っ赤に染まっていくのを見て、ムラタさんが死んじゃう、と大騒ぎしていた。
なんというか、そういう姿を見るとかえって冷静になれる。大学のスポーツ科学の講義で学んだ上腕部の止血点をもとに、泣きじゃくるリトリィに、どこを押さえつけるように縛ればいいかを教えながら、手ぬぐいできつく縛り上げてもらった。
あとは壁にもたれかかるように座り直すと、横断歩道でも渡るように、手をまっすぐ上げる。心臓よりも高い位置にすることで、止血を早めるためだ。
いやあ、本当に勉強って、しといて損はないもんだ。処置を終えるころにはずきんずきんとすさまじい痛みが襲ってきたが、まあ、仕方がない。
「わたしが抱き着かなかったら、こんなことにならなかったのに……!」
いつまでも泣き続けるので、これがあったから、リトリィの抱き心地と唇の味をたっぷり堪能できた、と軽口を叩いてみせる。
「ムラタさんはずるいです……!」
泣き笑いながらようやく落ち着いたのか、まだ
「……あの、痛く、ないですか?」
「痛いものは痛いが、大丈夫。平気だ」
「ご、ごめんなさい――」
「怪我は俺のヘマだから。リトリィは気にしちゃだめだよ」
「……無理を言わないでください」
「相手に変に気を遣われると、意外とこっちもやりにくいんだよ」
「……ご、ごめ――」
「だから気にすんなって」
ごめんなさいのループが続く。いや、俺はリトリィに謝ってほしいわけじゃないんだ。
――よし。
「リトリィ。じゃあ、お詫びが欲しいな」
「は、はい、なんなりと――」
「今できること、何でもいいから、何かして? それでおしまいにしよう」
「……え?」
さすがに無茶振りだったようだ。面食らった様子で、固まってしまう。
要は何らかの対価を支払ってもらうことで、「お互い様」にしたかったのだ。
とりあえず、そろそろ血で染まってきた当て布を変えるとか。
あるいは、腕をつりさげるための三角布にする布を持ってきてくれるとか。
それとも、治療の際に何枚も真っ赤に染めた当て布を片付けるとか。
なにか、一生懸命考えている様子に、そんなに深刻になられても困るので、さしあたって先に思い付いたことでもしてもらおうかと声をかけようとすると、その前にリトリィが頬を染め、身を乗り出してきた。
「……あの、おわびです」
「おわび、なるほど?」
「……もういちど、その――味わってもらえますか……?」
もう一度、味わう?
ナニを? と質問しかけて、気づく。
……ああ、アレか。
「もう一度、だけ?」
ちょっとだけ意地悪をしてみせる。彼女は、少しだけ目を伏せ、そして、微笑んでみせた。
「……もし、お望みなら――」
――人間、一度でも経験したことは、けっこう余裕で対処できるようになってしまうもんだな。
先ほどの数分。
リトリィと絡め合った、その数分の舌先の経験が、27年という歳月のなかで幾重にも絡まってしまってきた「いない歴」の毛玉を、するりとほぐしてしまったかの如く。
今度は妙に冷静に、彼女の唇を受け入れることができてしまったのだった。
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