第282話:兄貴は語る、妹への思いを

 昼食を終えて、二人で後片付けをしているリトリィとマイセルを見ながら、俺は、親父殿が言っていたことについて考えていた。


 『晩飯のあとに、「めあわせの儀」をやる。ジンメルマンのところの娘っこも、ついでにやるからな』


 「めあわせの儀」とはなにか、ときいたら、要は婚約のための三つの儀式のことを、正式に行うことなんだとさ。

 すっかり忘れてたけど、リトリィの髪を初めて撫でたとき、口元についてたものを食ったときに、リトリィが「いずれ正式に」と言ってた、ソレをやるってことだ。


 ……昼にやりこめられてからすっかりしょげてなにもいわなくなったアイネだが、妹が目の前で男――つまり俺と添い遂げるための儀式をするとなったら、また暴走するんじゃないだろうか。すこし、不安がある。


 もう一つの懸念は、親父殿の今後だ。


『オレぁ、「めあわせの儀」を見届けたら、それでいい。婚儀はお前らでやれ。式を挙げる気になったってことは、短い期間なりに、向こうで知り合いができたんだろう? オレの出る幕じゃねえ』


 つまり、式に出る気はない、と明言したようなものだ。

 リトリィが、寂しそうに、父は式に出ないだろうと言った時の横顔が思い出される。

 それを何とかしたかったからこそ、今日はここに来たのに。どうしたら、親父殿を説得できるだろうか……。




「ムラタ、話がある。ちょっと顔を貸せ」


 親父殿に何と言えばいいのか。

 それを悩んでいていつのまにかもうすぐ夕方、日もだいぶ傾いてきたころだった。

 アイネが、俺を呼び出した。

 ……この世界における、俺の出発点になった、例の半地下室に。


「メシの後に、『めあわせの儀』をやるってのは、本当か?」


 俺と、ベッドに、ひとり分空けるようにして並んで座った奴は、床をじっとにらむようにしながら、つぶやくように言った。


「……親父殿の話だと、そうらしい」

「らしいじゃねえ、他人事みたいに言うな。やるのか、やらねぇのか」

「やるさ。親父殿がそう求めたんだ。やるに決まっているだろう」


 そうか、と、やや間を空けて、アイネはぽつりと言った。


「……あいつが、人間ひとのもとに、嫁ぐなんてなあ……」


 嬉しいのか、悔しいのか、諦めなのか……よく分からないが、万感の思いのこもっているだろう、ため息とともに。


「オレぁな、ムラタ。あいつが幸せになれるなら、それでいいんだ。なんたって、大事な妹だからな」

「幸せにするさ。俺だって、あのひとを大事に思っている」

「幸せにする、だと? 偉そうなこと言いやがって」


 一瞬、また喧嘩を吹っ掛けてくるのかと身構えたが、違うようだった。奴はそれから、独り言のように語りだした。




「小汚いボロボロの布をまとっただけの、まさに『直立する犬』でしかなかったよ、最初はな」


 騎士叙勲式に合わせて、叙勲される騎士の人数分の剣を、王都に納入したその日の夕方だった。

 何かの悲鳴を聞いた気がして、アイネは親父殿が止めるのも聞かずに裏道に飛び込んだのだそうだ。


「まだ、王都ってところの華やかさに、憧れをもってたころのオレだ。表の顔と違った薄汚いところだって、気づいてなかったんだ」


 ……ああ、と思い出す。

 アイネは、知っていた。

 リトリィが、春を売っていた事実を。


 リトリィが、自分からそれを言うはずはないだろう。

 つまり、アイネは、……見たんだな、その、場面を。


「最初に見たときはな……オレは、犬が人を襲っている――男のモノを食ってるんだって、勘違いしたんだよ」


 ズボンを下ろし、彼女の頭を両手で鷲掴みにし、股間を押し付けているその男と、その男の股間に顔をうずめ、男のモノをくわえている、リトリィを見て。


「助けなきゃ、って思ってな。そこらに転がっていた、壊れた手桶みたいな何かを掴んで、ぶん殴ろうとしたんだ。――リトリィをな」


 今となっちゃ、とんでもない勘違いだと、アイネは小さく、笑った。


「そしたら、逃げていきやがるんだ。男の方がな。抜いた拍子に、リトリィの顔に、汚ねぇモンをひっかけやがってよ」


 脱げかけのズボンで転びながら、悲鳴を上げて逃げていく男と、目をぱちくりとさせ、顔にかけられたモノを拭こうともせずに見上げる、獣人族ベスティリングの少女。

 それが、アイネとリトリィの出会いだったのだそうだ。


「……それで、この家に拾われて来たのか?」

「いや、その場はそれで終わった。親父が後ろから来たら、それにはビビッたらしくてよ。あいつも、ものすごい勢いで逃げて行っちまった」


 男とリトリィが何をしていたのか――その意味が分かったのはだいぶ後になってからだそうだが、ただその時に、彼女は人を食う危険な存在なのだという思い込みが生まれたのだという。


「なんせ、そのころはガキで、知らなかったからな。大人がそうやって、使ってことをさ」


 じゃあ今はどうなんだと聞くと、うるせえよ、としか返ってこなかった。

 まあ、今はのだから、つまりそういうことなんだろう。深くは聞かないでおく。


「でさ、夜だ。なんか、笛の音が聞こえたんだよ。多分、警備隊の。親父、それを聞いて飛び起きてな」


 浮浪児狩りだ、とつぶやくと、そのまま宿を飛び出して行ってしまったのだそうだ。


「オレ自身、浮浪児だったんでな。浮浪児狩り自体、何度か経験してるんだが、親父に拾われたのも、その最中でな」


 それで連れて帰ってきたのが、小汚い少年と、そしてリトリィだったという。

 少年の方はともかく、まさか男の股間に食いついていた犬娘を拾ってくるとは思っていなかったアイネは、その危険性を訴えたものの、親父殿とフラフィーの両方から拳骨を食らって、沈黙するしかなかったそうだ。

 うん、ものすごく想像できる。


 少年の方は、怯えているリトリィと違ってぎょろぎょろとした目が印象的だったそうだが、結局、親父殿の財布を盗んで、翌朝までには姿を消したそうだ。


「剣を売った金は次の日の昼に届けられたから、助かったっちゃあ助かったんだがな。親父のヤツ、浮浪児がひとり、数日は食っていける施しにはなったと、全然気にしてなかったなあ」


 さすが親父殿。懐が広いというか細かいことを気にしないというか。


「で、山に帰るまでも、帰ってからもいろいろ騒動はあったんだが、まあ、アレだ。そのへんはまあ、いい。オレが最初におめぇに教えたことの意味、分かったか」


 ああ、わかってる。リトリィがどうやって王都で生きてきたか、それは本人からも聞いているし、想像もできる。今さらだ。むしろ彼女が俺に愛を見出してくれたことに感謝しているんだ、こっちは。


「……そうか。気にしねぇでくれるのか」

「彼女自身は天使だ。今も昔も、そしてこれからも。俺がそう納得できていれば、それで文句はないだろう?」

「……ちげぇねえ」


 彼が、右手を挙げ、手のひらをこちらに向けてくる。

 俺も、その右手に、左手で応える。


「……リトリィがな、翻訳の首輪、着けてるだろ。アレな、あいつ、まともに発音できねぇからなんだ。口の形がさ、ほら、人と違うだろ?

 もちろん、獣人族ベスティリングだって、訓練すりゃあしゃべれるようになるんだ。小さいうちにならな」


 アイネは天井を仰ぐと、首を振った。


「――あいつは、だれにも、正しい発声法を教えてもらえなかったんだろう。発音の仕方すら教えてもらえないところで、どうやって生きてきたんだろうな。

 練習はしたんだ、ここに来てから、たくさん。でもな、どうやっても、吹き抜けるようなおかしな発音になっちまう。だから、あの首輪をつけてる」


 ……そうか。そうだったんだな。

 彼女は最初、この国の言葉をしゃべれない、と言っていた気がする。それは、言葉を知らないんじゃなくて、綺麗な発音ができないという意味だったのだろう。

 

「でも、あいつは努力、したんだぜ? 首輪を付けたがらなかったんだ。泣きながら、一生懸命、発音を教えてくれてた親父やお袋に応えようとしててさ。

 ……それで、親父がもうひとつ、首輪を買ってきて。『お前とこれでおそろいだ』ってな。自分が着けてみせて、それで、やっと納得させたんだ」


 今は俺の首にある、翻訳首輪。

 これにはそんないわれがあったのか。これも親父殿と彼女とを繋ぐ、絆の一つだったんだな。


「お前は笑うかもしれねえけどよ、俺の後ろをちまちまと一生懸命ついてきてた、あの妹を……オレは、幸せにしてやりたかったんだ」


 笑うわけがない。アイネの言うことはよくわかる。俺だって――いや、俺が、彼女を幸せにしてやりたいんだ。

 ただ、失敗ばかりなんだけどな。


「それでもあいつが、おめぇがいいって言うんだから幸せだと思いやがれ、クソ野郎」

「ああ、十二分に幸せだと思ってるさ、クソ兄貴」


 アイネが、再び右の手のひらを向けてきた。俺もそれにならって、左の手のひらを向ける。


 気がついたら、この地下室は、ずいぶん暗くなっていた。そろそろ行かねえとリトリィにどやされるな、そう言ってアイネが笑う。


「おい、クソ弟」

「なんだ、クソ兄貴」

「最後に一つ、聞かせろ」

「今度はなんだ」


 再びぶっきらぼうな口調になったアイネに、俺もぶっきらぼうに聞き返した。

 そして、一瞬、答えに詰まった。


「もうあいつを、のか?」

「……そんなことを聞いて、どうするんだ」

「余計なこと言わずに答えろ、どうなんだ」


 どういうつもりだ?

 これはあれか? 頑固親父が娘が連れてきた男をぶん殴るとかいう、あれなのか?

 

「……抱いた、と言ったらどうするんだ?」


 念のために、奥歯を噛みしめるようにしながら答える。

 だがアイネは、小さく鼻で笑うだけだった。

 すこし、寂しそうに。


「……そうか。なら、いいんだ」

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