第283話:婚約の儀式に

 今夜の夕食は、俺の知る限り、この家でもっとも静かな時間だった。いつも奪い合うように食っていたアイネもフラフィーも、今日ばかりは一言も口をきかなかった。

 それだけ、食事の後の儀式を重く見ていたのかもしれない。


 俺は俺で、最後に地下室を出る際に、アイネが言った言葉の意味を図りかねていた。だから、かいがいしく給仕に回っているリトリィを、ずっと目で追ってしまっていた。


 リトリィもマイセルも、黙って食べる親父殿たちのわずかな仕草を見て、おかわりに応えて回っていた。

 ……うん、さすがリトリィ。だが、マイセルのほうもたいがいだったぞ。




「これから、『めあわせの儀』を執り行う。さかずきの取り上げは、リトラエイティルが父、ジルナウールァの名のもとに」


 親父殿の宣言と、神――今回は、親父殿が信仰する職人の神様、キーファウンタへ捧げる祈りと共に、儀式は始まった。


 俺は、黒くゆったりとした、ナイトガウンのような衣装。リトリィとマイセルも、白の、同じようなゆったりとした衣装だ。

 ただ、リトリィは純白の楚々としたもので、マイセルは淡くピンクがかった白の、フリルの多い可愛らしい意匠である。


 俺はともかく、二人の服のデザインが違うのは、別々のスポンサーから贈られたからだ。リトリィはナリクァンさんから、そしてマイセルは両親から。リトリィの親に挨拶に行く、と言ったら、それぞれに渡されたのである。感謝しかないが、申し訳なくもある。


 ナイトガウンのような形状は、上下ひと繋ぎの服、つまりずっと添い遂げる、という意味が込められているらしい。


 テーブルをはさんで親父殿。何故か親父殿の左隣の席には、立派なさやの短刀が置かれている。

 親父殿の正面に俺、左隣にリトリィ、右隣にマイセル。


 その俺たちの後ろ、テーブルから離れて椅子を配置して座っているのは、フラフィーとアイネ。


 本来なら、俺の後ろ側に俺の親族、リトリィの後ろに彼女の親族となるらしいんだが、俺の親族はこの世界には存在しないし、マイセルの親族も来ていない。

 だから、変則的に、リトリィの後ろにアイネ、マイセルの後ろにフラフィーが座るような配置になっている。


 そして親父殿の席の奥には簡素な祭壇が設けられ、これまた実にシンプルな、神像代わりのシンボル。


 はっきり言ってみすぼらしいけれど、こうしてなにかあるときにはきちんと祭壇を設け、神への祈りを届けようとするところが、彼らの生活に神様という存在がきちんと根付いている証なんだろう。


 日本にいたときには、宗教っていうものに対して、触れてはいけないもののように、どこかよそよそしく接していた気がする。


 だけど、初詣には行ってたし、入試などの試験の前には、親父が「氏神うじがみさん」と呼んでいた近所の神社にやたら気合を入れてお願いしたし、母の仏壇には毎日手を合わせていた。

 結局、俺を含めた日本人ってのは、無宗教でもなんでもないのかもしれない。


 ……で、そんなことより、だ!

 親父殿の延々と続く神への祈りだか感謝の言葉だかが全然耳に入ってこないほど、両隣の女性が美しすぎるのですが!


 マイセルの、淡いピンクでフリルがたっぷりの衣装は、しかしあざといというほどでもなく、彼女の可憐さを引き立てるような感じで、とても好感が持てる。


 さらに、マイセルはここ最近急激に化粧の技術が向上してきたようで、これはきっと、二人の母親――クラムさんとネイジェルさんの指導の賜物だろう。


 本来ならわずかにそばかすのある彼女だが、そんなもの、まったく感じられない。といっても、壁を塗るがごとくの厚化粧というわけでもない。

 化粧のことはよく分からないが、ナチュラルメイクというやつなのだろうか。


 ほんのり赤く染まった頬はあくまでもみずみずしく、意外に長いまつ毛が、伏せた目に長く伸びている。いつもニコニコして元気な彼女がそんな表情を見せるなんて。

 そんな俺の視線を感じたか、ちらとこちらを見上げた彼女は、わずかに微笑んでみせた。


 いつもの元気な笑顔とは違う、楚々としたその表情に、妙なギャップと色気を感じて、ドキッとする。慌てて正面を向くが、つい、目をずらしてみると、相変わらずこちらを見上げて微笑んでいた。

 それがなんだか腹の内を見透かされているようで、なんとも気恥ずかしかった。


「ムラタ、立て」


 唐突に名前を呼ばれ、マイセルのことで頭がいっぱいだった俺は慌てて立ち上がろうとして、テーブルで太ももを打つ。


 フラフィーの、押し殺した笑い声が聞こえてくる。太ももに響くように襲ってくる痛みを、必死にこらえて顔には出さないようにしながら、背筋を伸ばす。


 ……って、親父殿、俺から視線をそらして必死に笑いをこらえてるんじゃねえよ。あんた司会者だろ。




 親父殿から渡された丹塗りの櫛を、俺に背を向けて座り直したリトリィの髪に挿す。

 彼女の金の髪に、鮮やかな朱色の櫛はよく映えた。


 彼女のふわふわなくせっ毛は、いつもなら多少絡むこともあるけれど、この櫛は高級品なのか、あまり絡むことなく、くことができた。


 彼女の長い髪を、ゆっくりと梳く。

 俺の手の動きに合わせてぴこぴこと動く耳が、なんとも愛らしい。


 彼女の髪は、毎日手櫛でいじくってるのだが、しかしこうして改めて櫛を使って、親兄弟の前で梳くというのは、妙に緊張する。

 別にやましいことをしているはずではないのに。


 そんな中で、彼女の尻尾が、はたはたと揺れる。まるで、俺の足に絡めるように。相当に機嫌がいいらしい。


 一度……二度、三度。


 リトリィが、改めて親父殿のほうに向き直る。

 その際、こちらを見上げて、小首をかしげるようにして微笑んでみせたのが、なんとも胸に来る。

 ――ああ、この笑顔を引き出したのは、この笑顔が向けられているのは、俺なんだ!


 続いてマイセルの髪を梳く。

 栗色の彼女の髪は、リトリィの真似をして伸ばし始めて、今はようやく肩を越して背中に届くようになった。その髪に、櫛を挿す。


 リトリィとは違ってサラサラの髪は、思いのほか滑るようにするりと櫛が通る。くすぐったそうに首をすくめる彼女の仕草が小動物を思わせて、なんだか可愛らしい。


 一度……二度、三度。


 さらりと梳き終わったことを感じてか、マイセルは名残惜しそうに振り返ると、だが小さく笑ってみせた。




 櫛を親父殿に返すと、続いて親父殿は、祭壇から恭しく丹塗りのさかずきを下ろしてきた。


 差し出された盃には、なみなみと酒が注がれていた。蜂蜜から作られる酒らしい。

 蜂蜜酒と聞いて、蜂蜜のような濃厚な甘さがあるのかと思ったら、全然違った。そりゃそうか、糖分が分解されてアルコールになるんだから、はちみつ並みの甘さなんかあるわけがない。


 ただ、盃を傾けたときの香りは蜂蜜らしさを感じたし、味も、少し酸味が強い白ワインのような感じのなかに、確かに甘みを感じる。なるほど、間違いなく蜂蜜から作られているのだろう。


 それよりも、口に含んだだけでわかる濃厚なアルコール感! これ、かなり度数が高いぞ、いったい何度あるんだ?


 とりあえず、先に指示されていた通り、三度、盃を傾ける。三口ふくむだけでも、結構、クる。


 ゆっくり飲み下すと、もう喉が、腹が熱くなってくる。酒のことはよくわからないが、日本酒どころか、焼酎並みにアルコール度数が高いんじゃなかろうか。マイセル、大丈夫なのか?


 親父殿に促され、そのまま、盃をリトリィに回す。

 そっと立ち上がったリトリィが、俺に向き合い、それを両手で受け取る。


 それまで伏せていた顔をわずかに上げ、そっと微笑んでみせた彼女に、そして、俺が口をつけたところを探してわざわざ盃を持ち直す仕草に、これまた胸が熱くなる。


 アルコールのせいか? それとも、純白のワンピースが醸し出す、大人びた彼女の色気にやられたせいなのか?

 透明な青紫の瞳に射止められたように、俺は彼女の微笑みを、まじまじと見つめてしまった。


 彼女はすこし、照れたようにくすりと笑うと、そっと盃を口元に運ぶ。


 ひとくち……ふたくち、そして、みくち。


 ゆっくり、こく、こく、と飲み下していく。その度に耳がぴくりと反応するのがまた、可愛い。


 ほう、とため息をつくようにして、俺を見上げるリトリィから、盃を受け取る。

 リトリィが正面に向き直ったのを確認して、盃をマイセルに渡そうとして振り向きかけて、そしてつつかれた。


「ムラタさんがもう一度口をつけなきゃ、マイセルちゃんが可哀想ですよう」


 どこかとろんとした目のリトリィに、指摘された。ああ、そういうものか。なるほど。


 しかし、この強い酒をまた三口飲むのか。あまり酒は強くないんだ、こんなことなら初めの三口を控えめにしておけばよかった、と少し後悔する。


 改めて、さっきとは違う場所に口をつけ、ゆっくりと三回、盃を傾けた。


 ああ、早くも首筋あたりが熱い。というか、全身が火照ってきている気がする。腹に物が入っていれば酔いにくいはずなんだが。


 やっぱり度数がそれだけ高いということか。それとも、それとも、ずっと高鳴りし続けている鼓動が原因なのか。


 とにかく、まずはこの場を無事乗り切ることが大事だと自分に言い聞かせ、マイセルに向き直る。


「ムラタさん……私、おかしくないですか……?」


 マイセルがうつむいたまま、小声で問いかけてくる。

 化粧に自信がないと言っていた彼女だ、きっとリトリィに仕上がりは見てもらえているのだろうが、それでも不安だったようだ。


「綺麗だよ、とても」


 正直に、思ったとおりに言う。


「こんな素敵なひとと結婚できるなんて、と胸のドキドキがさっきから収まらないんだ」


 マイセルは、泣き出しそうな顔で、俺を見上げた。けれどそれは一瞬のことで、ふわりと微笑んでみせた。


 彼女は両手で盃を受け取ると、リトリィと同じように、俺が口をつけたところを探して、三度、盃を傾ける。


 ついに俺たちは、親族を交えて正式に婚約を果たしたのだ。もうすぐ、結婚する身ではあるのだけれど。

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