第659話:使えるものは何でも使う

「で? 朝っぱらからお姉さまに食われたご主人、素晴らしい種馬ぶりっスね?」


 書斎から出てきた俺を、リビングにいたフェルミが、右手に一人抱えてあやしつつ、左手に抱えた娘に乳を与えながら、生温かい目で迎える。

 ……うん、まあ、聞こえてたよな、当然。もちろん翻訳首輪は外していたけど、防音もクソもない部屋だもんな。


「リノたちは?」

「何言ってるんスか。今日はナリクァン夫人の、炊き出しの日っスよ? 準備中っス」

「あ、ああ、そうだったか」

「立ってるものは敵でも使うあの夫人が、子供を遊ばせておくわけないでしょ?」


 道理で、キッチンの方から音がしてくるわけだ。先に書斎を出たリトリィの姿が見えないのも、キッチンにいるからだろう。おそらくマイセルがリノたちと一緒にキッチンに立っていて、そこにリトリィがあとから加わったか。


「ご主人、そろそろお仕事に行かなくていいんスか?」

「もちろん行くけど……シシィとヒスイに挨拶をしてからだな」


 そう言って、俺は二人の赤ん坊──シシィとヒスイのほっぺたをつつくと、「もっちゃーん、ヒスイ、パパ行ってくるよー」と挨拶をする。


 無心に乳を飲んでいるヒスイはちらとこちらを見ただけで、また乳を飲むことに専念したようだった。

 「もっちゃん」こと姉のシシィは、生まれたばかりのヒスイと違って、今やもっちもちのぷくぷく状態だ。あんまりにもふくよかなもんだから、非公式に、勝手に「もっちゃん」と呼んでいる。


 マイセルは「この子、みんなで考えたエイリオって立派な名前があるのに、全然名前で呼ばれませんね」と言っているが、本人も「天使ちゃんシシィ」と呼んでいるので問題なしだ。


 それにしても、うちの女性たちは本当にパワフルだと思う。寝坊した上に起きぬけは眠そうにしていたリノだって、水浴びで目が覚めてからはもう元気だったし、リトリィも珍しく起きるのが遅かったこと以外は普通だった。


 もしかしたら普通を装っていただけなのかもしれないが、それでもリトリィについては朝から誘ってくるあたり、やっぱり彼女はパワフルな女性だと思う。

 まあ、朝から眠たげなリノと、妙に積極的だったリトリィとの違いは、単純に低血圧だか低体温だかでローテンションだったリノと、昨夜に意外な良さ・・を知ってしまったリトリィとの違いというだけなのかもしれないが。


キッチン脇の玄関を抜ける際に、リトリィから「行ってらっしゃいませ、だんなさま」と笑顔を向けられる。


「ああ、行ってくるよ」


 その柔和な笑顔からは、ついさっき、「欲しい」とは口にせずともとろんと蕩けるような目で物欲しそうにしてみせた淫靡な様子など、微塵も感じられない。


 こういう、貞淑な妻と淫らなおんなを使い分けるところも、リトリィの魅力だと思う。今朝は昨夜のおんなモードが残っていたみたいだけど。


「あの……」


 マイセルが、奥からためらいがちに声をかけてきた。


「あの親子さんですけど、ゲシュツァーさんのところに預けてみたらいかがですか?」

「……うんぇあ?」


 マイセルの意外な言葉に、俺は変な声が漏れてしまった。


「マイセル的に、それはありなのか?」


 ゲシュツァー氏の孤児院。それは、孤児院という名の職業訓練校みたいな場所だった。ゲシュツァー氏の工場で働かせるための様々な技術を身に着けさせ、孤児の引き取り手が現れなければ、そのまま工場で働かせる。彼の利益を生み出す労働力を養成するための、訓練校だった。


 児童労働や性的虐待すらあった、俺の目には過酷な環境に見えた環境だった。だが、それでも「食うに困らない」環境を提供することから、孤児院の子供たちも、閉じ込められるようにして働いていた者たちも、むしろ感謝さえしているようだった。


 そんな環境に風穴を開けたのが俺たちだった。

 食うに困らない環境なのは事実だろう。たがその影で、誰が父親なのか分からない子を産まされる少女がいて、その産まれた子がまた、孤児院の子供の一人になる──そんなことが許されていいはずがなかったのだ。


 確かにゲシュツァー氏の言う通り、放置しておけば死んでいた捨て子を破綻なく育て、むしろ社会に有益な技術を身に着けさせてきたこと自体は、称賛されるべき事業だろう。だがその影には人知れず涙を流す少女がいる──いても仕方がない──そんな現実、無くせるなら無くしてしまった方がいいに決まっている。


 その現場を解放した話は、マイセルも知っているはずだ。すえた匂いが充満する地下室。男の体液で汚れさた部屋、その汚れを洗うことをしようともしない、お腹の大きな少女……あってはならないとしか言えない姿が、そこにあった。


 その現場を整え、間接的に作り上げたのが、ゲシュツァー氏の孤児院であり、工場だった。


 もちろん、救貧院のような施設はあっても、(俺の感覚では)まともな介護を望めない環境だったし、神の愛にすがるという宗教的情熱で作られたもう一つの孤児院も、(俺の感覚では)未熟な養育技術で子供を受け入れては死なせてしまうようなありさまだった。


 そういう世界なのだから、食わせえもらえるだけありがたいのかもしれない。だけど、それでも俺はあのとき、少女の尊厳を守りたかったんだ。


 そんな因縁があるところだったから、マイセルがそこに子供たちを預けようという発想ができるのが意外だった。


「確かにそうですけど、ムラタさんがやっつけて、ナリクァンさまも間に入ったのですから、今はもう特に問題なんてないんじゃないでしょうか」


 マイセルがなんだか誇らしげにしてくれているのがなんだか可愛らしい。


「あんなことがあってからさらにムラタさんに悪さをするようなことがあったら、それこそナリクァンさまを敵に回しますよ。三十年間商売で立ち回ってきたひとが、そんなに頭が悪いとは思えません」


 ……言うねえ、マイセル!

 でも、たしかにそうかもしれない。使えるものは上手く使うのも大事なことだよな。

 以前、リトリィを差別したおばさんをうまく使って、ドライフルーツを安くたくさん手に入れたことがあったように。



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