第660話:貴様が堕ちるその瞬間を

「……まさか、君からそんな話を持ちかけてくるとは思わなかったよ」


 実業家にして救児院きゅうじいん『神の慈悲はを信じる者へ』の院長でもあるゲシュツァー氏は、俺に茶を勧めつつ、顔を引きつらせた。


「いや、よくある話だろう? 養育能力のない親が子供を預ける。ありふれた話じゃないか」

「いやそこではない」


 速攻で彼の突っ込みが入った。


「以前にも言わせてもらったが、私は君と敵対した人間だぞ? なぜそう簡単に私を頼る? 頼ることができるのだ? その無神経ぶりが信じ難い」


 相変わらず酷い言われようだ。よっぽど俺という人間は信用がないらしい。まあ、自分の事業を一度は潰しに来た人間だ。簡単に信じるほうがどうかしているのだろう。


「いや、今回のは俺の考えでもあるんだが、嫁さんがあんたを推したんでな。俺の独りよがりでなく、嫁さんもあんたを推すなら間違いなかろうということだ」

「なん……だと?」


 ゲシュツァー氏の顔が歪む。「あの金色の……」と言いかけて、口ごもった。余計なことを言ってしまった、という後悔の色が瞬時に見て取れる。そういえば、彼は獣人嫌いだったっけ。


「いや、リトリィじゃない。もう一人の方だ」

「……なんにせよ、そちらから擦り寄られるのが不快だと言っているのだ!」


 イライラを隠そうともせずに言い切ったゲシュツァー氏に、俺も内心、同意する。俺が彼の立場だったとしても、間違いなくそう思っただろう。


「それにだ、実に不可解極まりない話だと思わんかね? 先日、我が救児院と工場を叩き潰しに来た男が、今度はその救児院を利用しに来る。君は、自分を支持した人間がどのように考えるか、想像できないのかね?」


 皮肉げに冷笑を浮かべたゲシュツァー氏に、俺は首をかしげた。


「俺を支持した人間の考えを想像? だって、もうあんたは以前のようなことはやめたんだろう? だったら関係ないじゃないか」

「……本気で言っているのかね?」


 ゲシュツァー氏は、鼻で笑ってみせた。


「ひとは一度、悪評価をつけたものに対して、容易に評価を好転させることはない。我が工場もあれから随分と売り上げを落としている。貴様の目論見通りと言えるだろう」

「俺はあんたの所業が許せなかっただけだ。あんたを潰したかったわけじゃない」


 孤児院の子供に技術を身につけさせる、そこまではいい。だが、技術を身につけさせた子供たちが成長したあと、そのまま閉じ込めるように工場で働かせるようにしたことは、決して褒められたことではないだろう。


 なにより効率よく技術を身につけることができなかった子供、特に少女に対して、高待遇を餌に売春を斡旋するなど、明らかに人権を無視したやり口が許せなかった、それだけだ。


「なるほど……事業を潰したいと考えるほど、許せぬ所業をおこなっていた私を、今度は利用したいだと?」

「今はナリクァン商会の監察もあるみたいだし、もう以前のような状態じゃないんだろう? だったら問題ないじゃないか」


 突然、彼は憤怒の形相でテーブルに拳を叩きつけた。


「度し難い! まったくもって度し難い男だ、貴様は!」


 ゲシュツァー氏は青筋を浮かべ、俺に指を突きつける。


「そうやって絵に描いたような理想をぶら下げて襲い掛かって来たかと思えば、善人ぶって息の根を止めるようなことをせず、かと思えば今度はしれっと潰した相手を利用する! 貴様のそれは、たちの悪い悪徳業者そのものの手口だ!」


 そう言ってもう一度テーブルをぶん殴ったゲシュツァー氏は、しばらく肩で息をするようにしてから、大きなため息をついた。


「……そう、まさに詭弁を弄して子供たちを利用してきた、私そのものだ……」

「おい、俺は……」

「違うとでも言いたいのか? 本当に度し難い男だ、貴様という奴は」


 違うに決まってるだろう。俺がそんな狡猾な男なら、もっとうまく立ち回って、リトリィだって泣かせずにすんできたはずなんだ。


「そうやって自覚のないところに、貴様という輩の腹立たしさがある」


 ゲシュツァー氏はそう言って、ソファーに沈み込むように深くもたれると、疲れたような微笑を見せた。


「ナリクァン夫人が貴様を気に入る理由が、今さらながら理解できたような気がするよ」

「だから、俺は気に入られてなんていなくてだな」

「貴様は、自分が正しいと信じ、そして実際に正しいのだろう。少なくとも、貴様の唱えるお題目は、たしかに多くのひとびとから、正しいと感じられるのかもしれぬ。それがたとえ、実現などできなくても。……いや、実現などできぬからこそ、直言する貴様は、痛快なのだと」


 それってつまり、理想論ばかり語って現実を見ていないってことか?


 ……そりゃ確かに、瀧井さんと出会うまでの俺はそうだったかもしれない。

 学校で習った「平和学習」を振りかざし、旧日本軍の軍人だった瀧井さんを悪だと、出会う前から断じていたような頃の俺は。


 リトリィと正面から向き合わず、大学で学んだ「心の学問」で彼女の心の闇を理解しくさったつもりだった、彼女いない歴二十七年を更新中だった頃の俺は。


 でも、色々なこととぶつかって、いろんな人に助けてもらったおかげで、多少なりとも理想論ばかりの大馬鹿野郎ではなくなったつもりだったんだけどな。


「そうじゃない」


 かすれた笑みを、彼は漏らした。「理想を振りかざし、なにもかも取りこぼすまいと奮闘したのは、私もだ」──ゲシュツァー氏は首を振り、続けた。


「だが現実は重かった。硬かった。高かった。手の内の『今』を手放すまいとして、いつしか私は効率ばかりを追い求めるようになっていた。……以前、貴様に話した通りだ」

「だけど、今はそれを改めたんだろう?」

「それだよ」


 彼はそう言って、薄く笑った。


「何事も、理由あってそうなったのだ。理想がどうあれ、な」

「理由があったとしても……」


 どんな理由があっても、たとえ本人の取捨選択の上であの現実があったのだとしても、あの少女たちの哀しみを放置するなんて、俺にはできなかった。

 だから救いたかったし、そう動いた。それだけだ。

 そう言うと、彼は満足げにうなずいた。


「貴様はいずれ、どうしようもない現実にぶつかり心折れる日が来るだろう。断言してやる──いや、予言してやる。貴様もいずれ、私と同じような結論を出さねばならぬ日が来る。大切なものを優先し、そのために優先度の低いものを犠牲にせざるを得ない日が来ると。公共の利益ではなく、己を、己を取り巻く身内を、私益を優先する時が来ると」

「俺は……」


 言われるまでもない。俺は公益なんて重視してこなかった。俺はそんな大層な人間じゃない。身内が幸せになれるようにしたい……それだけしかできなかった、未熟でどうしようもない矮小わいしょうな人間だ。


 しかし彼は、「あれほど人を巻き込んだ人間が、よく言う」と笑うと、手を叩き、人を呼んだ。


「私が、貴様が堕ちるその瞬間を見届けてやろう。その瞬間に、貴様もわたしと同じ人間なのだと嗤ってやろう。その時を楽しむために、今は貴様に協力してやろうじゃないか」


 そう言って、彼は契約書を取り出した。


「どこの子供だ。その親もまとめて面倒見てやろうじゃないか。今後の事業拡張の礎にしてやろう」



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