第661話:院長先生の憎まれ口

 例の貧しい親子がゲシュツァー氏の運営する救児院に引き取る日、彼は馬車でやってきた。彼は自分が受け入れる子供は、直接自分が引き取るようにしているのだと言った。


「……フン。『商品』の『仕入れ』なのだ。自分で目利きするのは当然だろう」


 そう不機嫌そうに言ってみせたゲシュツァー氏だが、彼が一緒に連れてきた少年によると、彼はいつも救児院で子供を迎える際、必ず自身で応対するのだそうだ。


「あの優しい手で、『もう大丈夫ですよ』って僕らの手を握ってくれるんです」


 少年はそう言って、ゲシュツァー氏をまぶしそうに見上げる。


「僕も大きくなったら、院長先生みたいに、自分から進んで行動できる人になりたいです」


 ……少なくとも、子供たちに夢を見させるくらいに慈善家ぶる程度のことはしてきたようだ。救児院の歌唱隊を担う裏で男性職員の慰み者にされていたヴァシイも、逃げ出したいとは思っていてもゲシュツァー氏を憎むとまでは言っていなかったし、やはり心の底から効率主義を信奉する冷徹な人間、というわけではないんだろう。


 例の親子は、初めて間近で見る馬車に興奮しながら駆け寄ってきた子供たちの二人と、ひどく恐縮し、頭を下げっぱなしの父親の姿が対照的だった。


「ツーク、エンフティ……! お貴族さまの馬車だぞ、触ってはいけない……!」

「いえ、構いませんよスティフさん。ツークくんとエンフティくん……ですね? どうぞ、触りたまえ。今日からしばらく、君たちも我が院の仲間なのですからね。ただし、馬だけはやめておいたほうがよいでしょう。我が院の子供たちの世話で人馴れしてはいますが、蹴られないとも限らない」


 ゲシュツァー氏はそう言って、懐の広さを見せつけた。御者の男も慣れた様子で、二人を御者台に乗せてやったりしていた。


 出発前、馬車に乗せるときに、ゲシュツァー氏は少年たちの手をそれぞれ力強く握り、二人に対して「もう大丈夫ですよ。お父さんもすぐによくなります。さあ、一緒に祈り、共に生きましょう」と微笑んだ。子供の目線までしゃがみ、笑顔でしっかりと子供たちの手を握るゲシュツァー氏は、確かに慈善家に見えた。


 馬車の中でも、ゲシュツァー氏は来るまでとは違って終始にこにこしていて、窓に張り付き、水平に流れてゆく風景にいちいち歓声を上げる少年たちに、ひとつひとつ答えていた。


「……俺と来た道中とは、ずいぶん対応が違うじゃないか」

「なぜ私が貴様に愛想を振りまかねばならないのかね」


 顔には笑顔を貼り付けながら、漏れ出てきた不機嫌そうな低い声に、思わず吹き出しそうになる。


「私は事業家だ。必要だと判断したものに投資する。それだけだ」

「俺には笑顔なんて必要ないけど、子供たちには必要だっていうことか?」

「当然だろう。子供は純粋なのだよ」

「純粋……純粋、かなあ?」


 我が家の乳児二人なら純粋とも言えるだろうし、あんなに可愛いさかりの娘たちなら純粋とも言えるだろう。ああ、それは確かに間違いない。うちの子たちは可愛い。

 だけど、孤児院『恩寵おんちょうの家』で、リノを暴行しようとしたクソガキどものニヤケ顔も脳裏に浮かんでくる。あのくそったれどもの、どこが純粋なのだろう?


「フン……含むものがあるようだな。だが、子供というのは間違いなく己に忠実で、純粋なのだ。良くも悪くもな」


 そう言うと、ゲシュツァー氏は一瞬だけ、その笑顔を歪めてみせた。


「真っ黒に渦巻いている貴様の腹の底と違って、な」


 ……彼にとって、俺ってどれだけ極悪人に見えてるんだろう?




「……これで満足か?」


 ツークとエンフティが、収容児童たちと一緒に昼食を食べ始めたのを確認すると、ゲシュツァー氏は俺を促し、廊下に出た。俺はしばらく子供たちの様子を見守ってから、そっと廊下に出た。


「満足というか……意外だった。あんた、やっぱり幼稚園の園長か学校の校長になるべきだよ」

「……何を言いたいのか分からんな。私はただの事業家だと言っているだろう」


 彼は面白くもなさそうに床を見つめながら歩き続ける。

 でも、食事の場面ってのは結構大事だと思うんだ。どうしても、好きなものをもっと食べたい、嫌いなものは食べたくないという個人のエゴが表れやすい。放っておけば、力の強いものが弱いものに対して、好きなものを取り上げたり嫌いなものを押し付けたりといった場になる恐れがある。


 俺も、小学校五年生の時だったか。気弱な担任のもとで、そんな弱肉強食な学級を体験したことがあるからよく分かる。その状態は、統制の崩れた九月から学年主任の先生が代わりに入るようになった冬休み明けの一月まで続いた。


 そういった様子が一切見られず、自分たちで協力して配膳し、神への祈りを済ませたあとは楽しげに食べ始める様子を見て、よく躾けられた小学校のようだと思ったのだ。


 ゲシュツァー氏自身、そういったことをよく理解しているようだった。一緒に廊下を歩きながら、誰にともなくつぶやく。


「子供は、放っておけば好きなように行動する。純粋なのだ、良くも悪くもな。それを『人間』にするのは我々大人の仕事だ。良い姿を伸ばし、使える技能を身につけさせ、そして悪しき慣習をねじ伏せる」


 そうやって優秀な労働力を育てるのだ、という最後のフレーズはともかくとして、彼の信念は決して悪いものではないように思えた。


 もちろん、彼の事業を維持する優秀な人材を育てるため、という目的あってのことだろうけれど、だからといって彼らを不当に洗脳しているようにも見えない。子供たちがゲシュツァー氏を慕うのも、どこぞの半島の北半分の国みたいな神格化した嘘を教え込むような方法ではなかった。


 ツークとエンフティの入園手続きが終わったあと、午前中の活動を少々見学したけれど、文字の読み書き計算や就労教育などは、やはり学校の授業のように、担当の職人たちが行っていた。以前、この孤児院の様子を探るために見学したときとは顔ぶれが一部変わっていたようだったが、おおよそ同じだった。


 一人ひとりに目線を合わせて微笑みながら語り掛ける様子、優秀な成績を残した子供への称賛、できなかったことへの励ましや別の活躍の場への価値づけなど、いかにも学校然とした様子に、俺は改めて感心した。そして、どの教室をのぞきに行ってもゲシュツァー氏が率先してそのように振舞うのだ。これは、担当する者たちも手を抜けないだろう。


「……あんたはやっぱりすごいよ」

「おだてても何も出さんぞ。その『すごい』と褒める口で、私の事業を崩壊寸前までにしたのだからな」


 辛辣な言葉に苦笑するしかない。けれど、それでも言わずにはいられなかった。


「いや、本心だって。どう見ても、ここはただの孤児院なんかじゃない」

「当たり前だ。何度言わせる、ここはではない、だ」

「……そうそう、救児院。こうやって丁寧に育てられた子供たちだから、あんたを慕うんだろうな」


 自らを「事業家」と呼ぶゲシュツァー氏だから、孤児院の経営も、子供たちの視察程度で終わらせているかと思っていた。立派に院長先生をやっていたなんて思わなかったのだ。


「将来は私の工場を盛り立てる大切な子供たちだ。丁寧に育てて当然だろう。慕われているかどうかなど、どうでもよい。投資する以上、全ての子供に、我が事業の役に立つ技能を身につけさせる、それだけだ」

「……だからもったいないって言うんだ」


 表情を変えないゲシュツァー氏に、俺はためいきをついた。


「あんたの利益のためとはいえ、これだけの子供たちが、あんたの工場でだけ働くってことが、もったいない」


 彼の効率主義は一部の子供に犠牲を強いたし、孤児院の子供たちを労働者の囲い込みに利用することで人生の選択肢を制限する、人権侵害の側面もあった。

 しかし、自由に生きることだけが最良とも思えない。人生を自由に選択できるということは、選択した結果の自己責任も重くのしかかるからだ。


 学のないスティフ氏は、毎日の日雇いの仕事を必死に働き、妻と子供二人を養おうとした。

 その暮らしには、幸せももちろんあっただろう。

 けれど、彼の病気がその人生設計を狂わせた。

 彼の妻は収入を得るための労働と、日々の看護と子育てとに疲れ果てたらしく、ある日、スティフ氏と子供二人を置いて出て行ってしまった。


 子供を置いて出て行く母親というものがにわかには信じられなかったが、そもそも孤児院がある時点で察するべきなのだ。


 もし、スティフ氏に、日雇い仕事だけに頼らない、食っていけるだけの技能が身についていれば、もしかしたら、彼の家庭は崩壊せずに済んだかもしれない。


 そう思うと、ゲシュツァー氏の「子供に技術を身につけさせて有効活用する」という経営方針は、万能とは言えないにしても、一つのセーフティネットとしての機能を果たすのではないだろうか。


「馬鹿なことを。将来は自分の工場で働かせるから、投資するのだ。我が工場で働かない子供を育てて、将来我が事業を脅かすような人材が育ったらどうするのだ」

「でも、教養がなく貧しい人間が街にあふれても、あんたの所の商品は買ってくれないぞ? 前にも言ったが、阿漕あこぎな真似をせずに育てた子供は、きっとあんたに恩を感じつつ街を支える大人になるだろう。そうしたら、将来的な顧客が増えるのは間違いない」


 俺の言葉に、ゲシュツァー氏は足を止めた。


「……そうとは限らないだろう。優秀な人間が多くなれば、私を追い落とそうとする人間も増えるだけだ」

「だから大切に育てるんじゃないか。飼い犬に手を噛まれないように」


 彼は、俺の左腕を見た。


「……フン、覚えがあるようだな」

「これは、大切な思い出だよ。俺が生きていくうえで大切な教訓を得た、思い出だ」

「思い出、ね。下手をすれば死ぬか、腕を切断せねばならぬ大怪我だっただろうに」


 まだ俺が山にいたころ、リトリィに刺されてできた、引きつれた傷跡。

 互いの意思疎通を図る──ただそれだけのことなのに、それができていなかった。

 その後も何度もすれ違ってはけんかをしてきたけれど、そのたびに立ち返る原点。

 愛している、愛し合っている……それに甘えてはいけないという、戒めだ。


「どんな形でも、学ぶって大事なことだと思うんだ。俺は女心が分かっていなかった──いまも分かっていない大馬鹿野郎だから、こんな形で学ぶしかなかったけれど」

「フン。女に刺されてなお分からないとほざきながら、それでも女を何人も囲い続けるなど、正気の沙汰ではない。貴様など、神の愛のたなごころからさっさと零れ落ちるべきなのだ」


 そんなやり取りをしているうちに玄関にたどり着く。俺はスティフさん親子を受け入れてくれたことに礼を言うと、彼は忌々しそうに口を開いた。


「そうやって、かたきに対して簡単に礼を言える貴様の腹の内がどうなっているのか、今この場でさばいて知りたいものだ」

「俺の腹の底は真っ黒だって、あんた、ずっと言ってるじゃないか。きっとその通りだよ」


 そう言うと、彼は舌打ちをして、背を向けた。


「……救児院を学校として開放する準備は、実に腹立たしいことではあるが、進んでいる。かの女狐めぎつねの商会とも、行政とも、話は進んでいる。ただ、すぐにできるわけではないことぐらい、話を持ち掛けた貴様なら分かるだろう?」

「お役所仕事の手際の遅さと面倒くささは、結婚の手続きを踏むときに十分に味わったさ」


 だが、女狐の商会──ナリクァン夫人が関わっているなら安心だ。救児院の学校化は、必ず成し遂げられるだろう。


 ゲシュツァー氏は振り返ると、今日訪れて初めて、清々しい笑顔を見せた。


「……実に全くその通りだ。何かにつけて仕事の遅い役所なんぞ滅びてしまえと、いつも思う」


 そう言い残すと、彼は廊下の向こうに消えて行った。


 自分で食えるだけの能力を持たせてから自立させる──いわゆる「学校」の機能が市民に解放されれば、きっと無学ゆえに苦しんだスティフ氏のようなひとは減り、この街は発展するだろう。


 教育は百年の計、などと言うけれど、やはり早急に、この孤児院を学校化させて、より多くの子供がここで学べるようにした方がいい。孤児院から学びの場を分離し、広く市井の民に提供するのだ。


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