第46話:くさび(5/7)

「ムラタさんは紳士なの!」


 ……リトリィの叫びに、すさまじい罪悪感が胸を穿うがつ。

 さっき外で押し倒してたよね俺、ごめん。あと、君のデルタ地帯に触れてた左手の指、動かしてみたくてたまらなかったですハイ。


「――今日までがんばって、いろいろがんばって、ずっとがんばって……それでやっと今日、口づけを許してもらえたんだから!

 ムラタさんは紳士なの! 獣人族ベスティリングのわたしでも、大切にしようとしてくださってるの! それが分かるの!」


 今まで、いろいろとのか。

 何を、と言われれば……今思えば、つまり俺に対するアプローチだったのかも、ということは、うん、いろいろ思い当たるかも。昨夜の倉庫も、今日のあの数分も、その結果だったんだな。


 ていうか、やっと口づけをって、そんな風に思っていたのか。単に俺がヘタレなだけでした、ごめん。


「そんなの、そいつがただのヘタレなだけじゃねえか! もしくはお前のことを嫌ってるか!」

「ちがうもん! この前のあの木炭庫を壊しちゃった騒ぎ、もともとアイネにぃが焼きもち焼いてムラタさんを投げ飛ばしたのが原因ってこと、もう忘れたの!?」

「焼きもちって、おまえ――」

「ムラタさんは、わたしの料理を美味しいって言ってくれたの! それだけじゃない、わたしなんかに、一緒に食べようって、言ってくれたの!!」


 枕を振り回していたリトリィの手が、唐突に止まる。

 鼻をすする音、そして、先ほどまでとは打って変わって、力のない声で。


「初めての晩ご飯のときなんか、うっかりいつも通りの、お客さんに出せるようなものじゃないスープ作っちゃったけど……お兄さま、その時自分がなんて言ったか覚えてる? ――『なんだ、いつもどおりか』って」


 しゃくりあげる音。


「……でも、それでもムラタさんは、おいしいって。あんな……あんなスープだったのに、お代わりが欲しいって言って。何杯も、うれしそうに、おいしそうに、いっぱい食べてくださって。

 ――よかったらまた、一緒に食べたいんだけど、いいかな? って誘ってくださって……」


 床に転がったカンテラの明かりは弱々しく、ぼんやりとしかわからない。だがそれでも、


「あれから、ずっと、お食事のたびにわたしを誘ってくださって……」


 彼女の目に、大粒の涙が次々と浮かび、輝き、零れていくのが、見える。


「――それが、どんなに、うれしかったか……。お兄さまに、分かる……?

 ムラタさんが、わたしを拒否したとき……どんなにつらかったか、分かる?

 またおそばによんで下さったとき――あのとき、どれほどうれしかったか……お兄さまに、分かる……!?」


 それに関しては、俺もアイネと同罪だろう。

 リトリィの本当の思いなんて考えもせずに、彼女の気持ちを勝手な想像で分析し、勝手に落ち込み、勝手な判断で拒絶し続け――傷つけ続けた。

 本当は、リトリィの断罪は、俺に向けられてしかるべきなのだ。


「いや……あの――オレは、お前に幸せになってほしくてだな……」

「幸せ……?」


 リトリィの尻尾が跳ね上がる。

 あ、怒った。怒らせてしまった。


「……お母さまはいつもおっしゃってた。どうせお兄さまたちが邪魔をするに決まってるから、って思った殿方とのがたがいたら、とにかくその人の胸に飛び込みなさいって。結果は後からついてくるからって!」

「いや、だからって急ぎすぎ……」

「ムラタさんはこの国の人じゃないの! いつか自分の国に帰ってしまう人なの! だから……だから!」


 言うだけ言い切ったのか、リトリィは床に座り込み、顔を覆って、静かに肩を震わせ続ける。

 アイネも、そんな彼女に何も言えなくなったようだった。


 ただ、リトリィの嗚咽だけが、暗い部屋の中に響く。


 彼女が、俺を特別扱いした理由。

 それは、俺が現代日本で生まれ育った、そこに理由があるといえるだろう。

 つまり、俺が、とは、だったということ。


 リトリィは、いわゆるとは別の種族。街で生活していたころは、いわれのない差別を受けていたのだろう。だがそれは、決して他人事ではない。


 現代日本――地球であっても、肌の色が違うだけ、出身地が違うだけ、信じる神が違うだけで、多種多様な差別が世界を覆っている。


 ましてリトリィは、見た目からして人間とは異なっていて、しかも、おそらく獣人の中でも、特に動物の特徴を色濃く残した少数種族らしいのだ。獣人が当たり前にいるこの世界であったとしても、偏見と差別は、より一層厳しかったに違いない。


 差別は良くない、人類みな平等。

 現代日本において、十二年間でそのように教育されてきた俺も、彼女の肢体を初めて見たときには強烈な違和感を覚えたし、犬そのものに近い顔を見たときは、畏怖すら覚えた。


 これは、一対一だったからというのもあるだろう。もし、俺が街の中で、人間の集団に所属した状態で、たまたま彼女に気づいたというのなら、おそらく興味本位で――もっと言うなら珍獣を見る思いで彼女を凝視したか、あるいは避けていたか。


 ベスティアールという言葉は知らなくとも、無意識に、あるいは意識的に、彼女のことを「自分とは違う存在」だとして、に扱っていたかもしれない。


 リトリィはおそらく、この家に来て、初めて平穏を手に入れたのだ。あのハンマーのような拳の持ち主である親方。あの男を父とし、その奥さんを母とし、うるさく過保護な兄貴たちとともに暮らす、差別されない生活。


 ベスティアールという差別語を、父と母以外で初めて言わなかった人間が俺、ということは、来訪する客たちも、彼女の姿を見れば、顔を背けてそう言ってたに違いない。あるいは、表立って言わなくとも、彼女を避けて通る、などというのが日常的に行われていたのだろう。


 彼女にとってはそれが当たり前のことだったのだろうが、けれどもその当たり前は、常に彼女の胸の奥をえぐり続けていたに違いない。


 たとえ、今は自分を過保護なまでに大切にしてくれる兄であっても、かつては自分に心無い差別語を投げつけた。ならばその差別心は、口に出さないだけで、もしかしたら、親方、奥方も持っているかもしれない――おそらくそういう恐怖を、心の奥底に、常に持っていたのだ。


 そう考えると、アイネが以前言っていた「奥方の厳しい躾」に、泣きながらでも食らいついていたというその行動に納得ができる。虐待を受けていた子供の、特徴的な行動パターンだ。愛を失いたくない、そのために気に入られたくて必死になる、あのパターン。


 アイネは、彼女が王城の城下町の路地裏で、好色者に体を売ることで日々の糧を得ていたらしい、というようなことを言っていた。

 差別されていた獣人をあえて好む輩だ。彼女への扱いなど、推して知るべしだっただろう。


 新しい父と母に捨てられてしまったら、また、かつての過酷な生活に逆戻りになるかもしれない。そう考えたら、彼女は、必死にならざるを得なかったのだ。たとえ親方や奥方に、そのような意識が毛の先ほどもなかったとしても、だ。


 こうしてみると、彼女が俺に執着する理由が見えてくる。

 彼女は俺を、「に魅力ある存在」として見ているわけではないのだ。


 そりゃそうだ。優しいだけの男なら掃いて捨てるほどいるに決まってるし、しかも俺の場合、優しいんじゃなく、女性経験のなさによる単なるヘタレ。

 そんな俺に、男性的な魅力? ないない、あるわけがない。


 ならば、そのような好意は、利益をもたらす相手の方ではなく、、そう考えるべきだ。


 つまり彼女は、差別なく――単に知らなかったからというだけなのだが――自分を受け入れてくれるだろう俺を通して、「差別されない平穏な生活」という、をしている、ということなのだろう。


 彼女が打算的だと非難したいのではない。彼女自身はとても純粋で、とても素敵な女性だという評価は変わらない。むしろ、過酷な半生を経験してなお、これほどまでに相手のことを思いやり、相手の安寧を共に喜ぶことができ、鍛冶師という目標を高く掲げて邁進しようとしているのだ。尊敬の念すら沸き起こってくる。


 ただ、彼女が妙に俺に肩入れしてくれる、その行動の理由とその心理を考えたとき、無意識であったとしても、先に挙げたような意識が底流にあるという推測は成り立つ。


 つまり彼女はきっと、を欲しているだけなのだ。

 スープを一緒に食おうと誘われた、一緒に畑仕事をした、俺の屋根修理に付き合った、などによる、一種の吊り橋効果によるただの錯覚。


 ――それでも、彼女は俺を慕ってくれている。俺もその想いに乗っかって、何が悪いというんだろう。俺だって、彼女のことを、好きになったんだ。たとえ彼女の想いが――俺の想いが、ただの勘違いだったとしても。


 うん、大学の卒業要件に全く関係のない単位だったが、興味本位で心理学をいくつか勉強しておいてよかった。モテなくとも、相手の心理をある程度分析し、推察することができる。自分が置かれた状況を、冷静にかつ客観的に分析できるようにしてしまう……!

 ああ、そうだ、大っ嫌いだ! 心理学なんか大っ嫌いだバーカ! ちきしょーめ!


「……おい、ムラタ! おめぇ、黙ってないでなんとか言え」


 自分自身の分析癖にセルフ脳内ツッコミを入れていた俺を、アイネがにらみつけてくる。

 どうも、リトリィの嗚咽のみが響くこの時間に、耐えられなくなったようだ。


 早く何か声をかけろ。目と口元で催促をしてくるアイネに応えてやる義理などない。だが、泣いている女の子を放置するのは、気分として最悪だ。

 まして、リトリィの好意は、きっかけ自体は吊り橋効果的な勘違いが生んだものなのだろうが、俺に対して向けられているのだ。一緒に食事をしようと誘う、たったそれだけで涙をこぼすほど喜び、俺を支え続け、励まし、そして今しがたも強く抱擁し合った女性だ。

 今はまず、その涙をとめてやりたい。

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