第47話:くさび(6/7)

「とりあえず、リトリィ」

「……はい!」


 ぐしぐしと手の甲で涙を拭いて、くるんと勢いよくこちらを向いてくれるのは嬉しい。顔はなみだでくしゃくしゃだけど、それでも俺には笑顔を見せようと頑張ったようだ。それに長い髪が踊るのは、カンテラの光を背にして幻想的なまでに美しい。


 ――やはり、彼女はなんとか明るく笑顔でいてほしい。


「……服がないから、せめてこれを羽織って?」


 俺は薄い掛布団を渡す。

 リトリィが、あからさまに肩を落としてうつむいた。

 いや、なんて言ってほしかったんだ、何をしてほしかったんだ。俺も、かける言葉がみつからないんだよ!


「てめぇ! リトリィの服をどうしやがった!」


 ……そこに噛みつくのかよアイネ。いやまあ、分からんでもないけどさ。


「もともと、着てなかったんだよ!」

「嘘つけ! こいつにはちゃんとお気に入りの夜着があンだよ! オレが知らねぇはずがねぇだろうが! どこに隠した!」


 隠した、は心外だ。コイツ、とにかく何でも俺のせいにしたいらしい。くそっ、シスコン兄貴め!


「もともとこの格好で来たんだよ!」

「そんなわけあるか! リトリィを、男の部屋に裸で押し掛けるような、はしたない女とでも言いたいのか!」


 ……アイネのクソ野郎め。その言葉はそのままリトリィを貶めていることに気づかないのか? ほらみろ、泣きそうな顔になって、耳までうなだれてうつむいちまったじゃないか。


「……ごめんなさい……。ムラタさんも、やっぱり、お嫌でしたか……?」


 ああ、せっかく笑顔になりかけてたのに! このクソ兄貴は!


「俺は、リトリィのことをそんなふうに思ってないから! むしろ、今夜は助けられたって思ってるから!」


 肩に掛布団を羽織らせ、抱きしめ――てみたかったけれど、アイネが怒りに顔をくしゃくしゃにしながら三白眼で睨み上げてくるものだからそれもできず、手を引いて階段に向かう。


「どこに行くんだ、おい!」

「リトリィの部屋だよ! 文句あるか!」

「……え?」


 アイネの怒声にこちらも怒鳴り返すと、隣からは悲しそうな声。いったいどうすりゃいいんだ!

 こんな時、三洋や京瀬らは、きっとうまくやるんだろうが。あいつらタフなメンタルしてるからな、女がらみの修羅場もいっぱい潜ってるだろうし!




 リトリィの部屋は屋根裏部屋、アイネの部屋は一階にある。始めはアイネもリトリィの部屋までついて来ようとしていたが、リトリィは「アイネ兄さまがついてくるなら行きません。ムラタさんと一緒に地下で寝ます」と言い放ち、頑として階段に向かおうとしなかった。

 そのため、奴はしぶしぶ、本当にしぶしぶ、階段の前で立ち止まっている。


あったら、てめぇを生かしちゃおかねぇからな!!」


 そう宣言したアイネは、今もまだ、階段の入り口で、仁王立ちになって俺を待っているんだろうか。


「じゃあ、俺、行くから」


 後ろをついてきたリトリィが部屋に入ったのを見計らって、振り返らずに声をかける。

 嗚咽はもう、聞こえない。なんとか落ち着いたようだ。

 きびすを返そうとして、ふわりと、背中に柔らかい感触を感じる。


「まって……ください」


 か細い声。


「今夜は、ごめんなさい……。わたし、やっぱり、自分のことしか考えていませんでした……」

「……どうして、そんなふうに?」

「だって……だって、ムラタさん、今日、口づけまで許してくださったのに、わたし、を求めて……」


 ……その話!

 いや、もう、いいから。

 いいから、ええと、手を放して? ……下着、洗わせて?

 我ながら、わたわたと挙動不審になる。あれ? 賢者タイム、もう切れた?


「下着、ですか? わたし洗います」


 NoooOOOOOO!!! いや自分で洗う! これはオトコノコの洗礼――そう、洗礼なのだ!


 慌てて振り返ると、俺の背中に体重を預けていたリトリィがバランスを崩してつんのめる。

 慌てて抱きとめ――ようとするが、アイネ曰くのヒョロガリ男が、自分の体勢も整っていないのに一人分の倒れてくる体重を支えられるはずもない。

 結局、俺はリトリィのためのクッション、それ以外の役目を果たせずに、二人して倒れる。

 リトリィがうまいこと床に手をついていなかったら、俺は腰をやられて明日から車椅子生活だったかもしれない。

 うん、リトリィのほうが運動神経も反射神経も、俺よりも抜群にいい。絶対に。


 ふふ、と、リトリィが笑う。


「今日、二度目ですね。こんなふうになっちゃうこと」

「……俺が押し倒したことを足したら、三回目だな」

「あ……そうですね……」


 リトリィは目をぱちくりとさせ、そして、再び微笑んだ。


「『一度目は偶然、二度目は必然、三度目は運命』――そんな言葉を、ご存じですか?」


 ……どんな世界でも、似たような格言はあるんだな。まあ、そういう超常の存在に縋りたい気持ちは分かる。運命って言っとけば、あきらめも納得もできるかもしれないし――


「わたし、この運命を、信じたいです――」

「……リトリィ?」

「あなたのぬくもりを、こうして感じていたいです。ずっと」


 ぬくもり。

 なるほど、ぬくもり。

 ――俺も感じていたい、大賛成だ。


 だが、だがこの冷たくぬめる股間をさらけ出す勇気はない。

 あの時の、妖艶な微笑を浮かべたリトリィが思い出される。

 リトリィは、絶対に、俺の股間で何が起こってたか、だろうからな。


「あなたが、まだ早いとおっしゃるなら、待ちます。

 足りないことがあるとおっしゃるなら、がんばります。

 だから……だから、――」


 ああ、どうしてこんな女性に、俺は素直になれなかったのだろう。

 彼女のうなじに腕を回すと、俺は、それ以上を言わせなかった。




 かっこよく決めた、つもりだった。

 そのあと、リトリィにひっぺがされるまでは。


「お風邪を召したら大変です」


 彼女はそう言って俺のズボンを下ろしてパンツを剥ぎ取り、戸棚から取り出した可愛らしい花の刺繍入りのハンカチで俺の股間を丁寧に拭い――


「洗ってまいりますね」


 なぜだかものすごい笑顔でパンツを胸に抱くようにして、彼女は部屋を出て行った。


 剥かれてまで汚れを拭かれ、否応にも再び元気になるムスコの様子をきらきらした目で観察され……俺の尊厳は、はだしで逃げ出した。

 ――俺、もう、マジでお婿に行けない。




 ――なんて思いをしたことないだろう、アイネ!

 飯が食えない? それがどうした!

 お前はそこで、かわいてゆけ!


「なにが『かわいてゆけ』だ、馬鹿か! メシが食えなきゃ仕事ができねぇっつーんだよ!」

「その飯をリトリィが供給しないと言ってるんだ、昨夜を忘れてねーぞっていう意味に決まってんだろ!」

「なんだおめぇら。昨日って、何があった」

「「なにもありません!!」」


 親方の詮索に対しては、双方の見解が一致しているのがおかしい。別にアイネと共闘する気はかけらもないのだが。


「何もねぇなら黙って食え。騒ぐのは奪い合う時だけにしろ」

「親方! 奪い合うも何も、オレの前には何もないんスよ!」

「おめぇがリトリィを怒らせるから悪い」

「え、そっち!?」

「あいつの頑固さは知っているだろうが。オレにもどうにもならん。機嫌が直るまであきらめるか、拝み倒して何とかするかしろ」


 あ、やっぱり胃袋を握るっていうのは強いんだなあ。

 愛妻家ほど晩飯に乗ってこないっていうのは、そういうことか。

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