第14話:取引(1/3)
夕日で赤く染まっていた空は、もうすっかり暗くなっていた。窓の端から銀の丸い月が見えて、この世界にも月があるんだな――そんな、変な感想が湧いてくる。
今日はいろいろなことがありすぎた。
過酷な水汲み。
昼食、そしてアイネとの取っ組み合い。
果てしなく続くかに思われた薪割り。
そして、
何より、リトリィとの出会い。
あの犬頭は、正直言って、最初はかなり衝撃だった。マンガやゲームなどでなら、そういうキャラクターも見たことがある。だが、本物となると少々話が違う。なにせ、漫画的な省略の効かない、本物の毛並みがそこにあるのだから。
あの、金色のつややかな毛並みは、ぜひとも触ってみたい。きっとふわふわで、いい触り心地なんだろう。女の子じゃなかったら、絶対に触らせてもらっていたに違いない。
でも、どうせ俺が触ったらセクハラ案件だ。お友達関係も一発終了くらいには。
『アイツは天使だよ』
アイネの言葉は、よく分かる。今なら。
彼女の人柄は、昼までで理解できた。間違いなく「天使」で、「いいひと」だ。アイネが過保護になるのも、分からなくもない。
そんな彼女が差別を気にせず生きていこうとするなら、孤立した場で、希少な技術家――鍛冶師として、どうしても自分の技術を欲する人間とだけ関わるようにするのが、たしかに無難なのかもしれない。
だが、それは幸せなのか。この先、孤独を貫くことが。
リトリィの物言いから察するに、人との関わりを否定していないのだから、本当は街で生活したいのかもしれない。本音のところは、俺にはよく分からないが。
食器を、酒を含ませた布で拭うだけの簡単な後片付け。アイネは昼のことがあったせいか、はじめはリトリィの周りをうろうろしていたが、邪魔者扱いされて、すごすごと外に出て行った。薪を割る音がし始めたから、多分そういうことなのだろう。
ときおり獣が吠えるような叫び声が聞こえてくるが、まあ聞こえていないことにする。
体験したことのない波乱だらけの一日のせいで、体の節々が痛むうえに、力が入らない。間違いなく、明日は地獄の筋肉痛だ。
「で? おめぇ、これからどうするんだ」
リトリィが皿を片付けている、その楽しげに揺れる尻尾を目で追いながら、しかし親方の質問には、俺も答えることができない。
俺はこの家のそばを流れる谷川で引き上げられたという。
正直言って、どうするもこうするも、ありがちな「日本=東の果ての国」という図式すら成り立たない以上、どうしていいか分からない。
すぐそこの川の岸辺に流れ着いていた、ということは、この川の上流に、日本との間にできた空間の裂け目から落ちて来て、そのまま流されてきた、というのが自然だろう。
では、元の日本に帰るために、俺は何を、どうすればいいのか。
……皆目見当がつかない。わかったら速攻で帰るのだが。
ひたすら水源目指して川のそばを歩いていけば、そんな裂け目を見つけることができるのだろうか。
いや、いつも開いているような穴だったなら、ウチの事務所の前には人をいくらでも飲み込む落とし穴が常時開いていた、ということになる。
いやいや、そんなだったら、今までに問題になっていたはずだ。あの日あの時あの場所、たまたま開いたと考えるべきだろう。今行ったところで、穴が開いているとは考えにくい。
いやむしろ、ほかに手掛かりがないのだから、行ってみる価値はある?
でも、もし、危険な動物がいたら?
別にモンスターでなくとも、危険な動物なんていっぱいいる。狼や熊、猪なんかも危険だろう。ツツガムシやダニなど、病気の危険がある虫だっているかもしれない。
「……正直、このままどうすればいいのか、全く分かりません」
「――
俺のため息に、親方もうんうんとうなずく。
「どうやって来たのか記憶もないのに、これからどうすればいいかなんて、考えつかんよなぁ」
「そうですね……。何か、帰るための手掛かりがあればいいのですが……」
何度めかのため息をつく。
あの、最後にプリントアウトして残してきた提案。あれは、どうなっただろうか。ちゃんと、俺がいないなりに、何とかあの夫婦に渡っただろうか。
「まぁ、今はどうにもならんことだ。働きたいというなら、しばらくは客人として置いてやらんこともないぞ」
なるほど、アイネの弟分ではなく。
それは純粋にありがたい。ざまを見よアイネの奴め。
「だが、そのためには、ちーっとばかり手伝ってもらわんといかん。それでいいか」
ああ、水汲みその他の労働ということだな。
……正直、水汲みはもう、勘弁してもらいたい。井戸はないのか、井戸は。
「井戸か? あるにはあるが……」
やった! 井戸あるじゃん! だったらもう、水汲みなんかしなくても――
「汲みだせる水は黄色いカナケ水でな……塩気もあるし、正直、飲めん」
――あああ……、そりゃだめだ――
ぬか喜びしたぶん、気の落ちようも大きい。
お茶を淹れれば――この世界にお茶があるのかどうかは知らないが――お茶の渋み成分であるタンニンと結びついてお茶は真っ黒になるし、洗濯に使えば布に溜まった鉄分がさびて褐色に変色しやすくなるし、鉄分過剰な水は、畑の作物によってはよくない影響を与えるおそれもある。
さらに塩気があるということは、長期間利用すると畑に塩害が出ることもあるのだ。
要するに、この家の井戸の水は「使えない水」なのである。
井戸というのは、基本的には深く掘ればより清浄な水が出やすいのだが、こればっかりはもう、ばくちである。
第一、井戸を掘るにしたってボーリングマシンで掘り抜けばいい現代日本と違って、こっちは間違いなく人力手掘り井戸だ。おそらく努力の末の金気水。この人数でさらに何メールもシャベルとツルハシだけで掘るとか、考えたくもない。
つまり、少なくとも飲料水は、川の水を沸かして使う方がマシ、ということらしい。がっかりな話だ。
「まあ、沐浴には使えるぞ。つっても、井戸のそばで頭からぶっかけるくらいだがな」
そう言えば、朝、親方がずぶぬれで出てきたよな。アレか。
「……浴室はないのか?」
「浴室は一応あるにはあるが、オレたちはそんな面倒なことはしねぇよ。そこまで水を運んだって、結局頭からかぶって終わり、だからな」
「浴槽はないのか?」
「ねぇよそんなもん。排水口がある、タイル張りの部屋ってだけだ」
がっかりだ! 夢も希望もロマンもねえ!
――ということは、リトリィも同じように、井戸のそばで水をかぶる、ということなのだろうか。
その様子を想像し、だが金の体毛で覆われている彼女の様子を想像したところで、単なるずぶ濡れの犬が直立する様子しか頭に浮かばない。ぐ……自分の想像力の貧困さが泣ける。
「――浴室を利用するのは、リトリィくらいなものだな。もう少し小さい頃は、フラフィー達と一緒に、互いに水を叩きつけ合ってじゃれ合っていたもんだが。何をいまさらって感じだがねぇ」
……いやいやいや! 親方、リトリィが年頃の女性ってことをあんた、忘れてないか? というか、そうか。昼には強気なところを見せたリトリィも、やっぱり基本は楚々とした、花も恥じらう妙齢の女性ということか。
……現金なものだ、彼女が妙齢の女性、というイメージが湧き上がったら、今度はやたら具体的なシルエットが浮かび上がってくる。
おまけにあのボリュームだ、……ええと、……、ムスコよ静まりたまえ。
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