第694話:生き延びた奴こそが
「ほら、動くな。しみて痛いのは分かるから」
パンデミック対策として世界的に使われた、濃度八〇パーセントのアルコール。それを参考にして蒸留した消毒用アルコールが、まさかスライムに有効だなんて思わなかった。
だが、あんなふうにぬるぬると、むき出しの細胞で生きているような生命体だ。アルコールの効果が、ダイレクトに効いてしまうんだろう。
「しかしムラタ、おめぇ、とんでもねぇ切り札を持ってきたんだな」
アイネが感心したように言う。こいつにそんなことを言われると、なんだかむず痒くなってくるけれど。
「別に、そういうつもりで持ってきたわけじゃないよ。万が一怪我をしたときに、自分が生き延びるためさ。なにせ俺は、こんなヒョロガリだからな」
「なんだよ、皮肉か?」
アイネは顔をしかめてみせるが、事実だ。自分が変な感染症で死にたくないから消毒用アルコールを持ち込んだだけだ。
アルコール消毒が終わり、
俺がさっき銃で
「……しまった、だったらさっきの場所、
だが、それに対してボゥグルのボスは無愛想に答えてくれた。
「アレ、バラバラニナルト、マタ、一ツニ戻リタガル」
どうも、
ヒトデを千切り捨てたあとの海が悲惨なことになるのと同じように、小さい破片がそれぞれに成長・増殖して事態が悪化する、といったことにはならないようだ。だったら、集合した頃合いを見計らって本体にアルコールをぶっかければ、相当に深刻なダメージを与えられるかもしれないぞ!
「おめぇ、とんでもねぇことを考えやがる。法術もなしに、
「剣でも棍棒でもウルトラなヒーローの必殺技でもなく、化学兵器で怪獣を倒す。これこそ技術屋の本懐じゃないか?」
「知らねえよ、そんな本懐」
「とにかく、厄介な
「……あれ? いないぞ?」
俺は先ほど、ボゥグルや
きょろきょろとあたりを確かめたが、
確かにこの辺りのはずだ。見間違いではない。すっかり暗くなっているため、松明の明かりが頼りだとはいえ、あのぶよぶよした物体を見逃すようなことはない、と思う。
あの、徐々に地面に広がっていった様子を思い出し、うっかり踏んで喰いつかれないようにと、俺は慎重に地面を照らしながら
「……いないな。どこに行ったんだろう?」
「あんな火の槍の攻撃を喰らったんだ。安全な場所まで逃げたんじゃねぇのか?」
フラフィーの言葉に、俺は密かにがっかりした。危険な生物の討伐歴を俺の履歴書に一つ、加えることができると思ったのに。
「でも、あれは本当に危険な生き物だな。不定形で、突然へばりついてきて、しかもつかもうとしても指からするりとすり抜けてうまくつかめない。あんな生き物がこの森にいると思うと、安心していられない」
「アレ、シツコイ。戦ウ、避ケタイ」
ボゥグルのボスが、顔をしかめながら言う。なるほど、あの怪物には邪小鬼といえども手を焼くのか。奴には剣も棍棒も有効ではないから、確かに戦いたくないだろう。
「でも、残念だが逃げてしまったなら仕方がないな。また明るくなってから少し、探してみよう」
そう言って、帰ろうと振り返った、そのときだった。
「あなたぁっ! 伏せてぇっ!」
リトリィの悲鳴。
反射的に腰を落とした瞬間。
べちゃりと首筋にまとわりつく、ヒヤリとぬめる感触。
次の瞬間、べしゃりと一気に頭や肩に何かがのしかかってきた。
何が起きたのか分からなかった。
ぬめりは、一気に首筋から服の下に侵入してきたと思ったら、次の瞬間、凄まじい痛みに襲われる!
「あぐぁぁあっ!」
「あなた! いやあぁぁあっ!」
リトリィが飛びつき、素手で振り払おうとする。
だけど、水をかき分けるように手応えがないように、振りほどけない!
「ムラタァ! 今助ケル!」
ボゥグルボスの声がそばで聞こえる。
上半身から頭の先まで、喰いつかれる凄まじい痛み!
目や口を開けまいと必死に耐えるが、鼻の中に侵入しようとしている気配を感じて、必死に鼻息で抵抗する。だが、今度は口の中にも侵入してこようとしているのか、唇も食いつかれる感触!
「リトリィ、落ち着け! アルコールだ!」
フラフィーの言葉に、俺も痛みと恐怖で気が狂いそうになりながら、死に物狂いで手の小瓶を開けると、中身を顔に向けてぶちまける!
「ムラタぁっ! じっとしてろ!」
アイネたちの声。ばしゃばしゃと振りかけられる液体の感触。
アルコールがしみる、激烈な痛み。
俺は痛みにのたうち回りながら、必死にまとわりつく
「ムラタ! 大丈夫カ?」
ボゥグルボスにも手伝われながら、俺は服を脱ぎ、服の内側に入り込んだ
そして、かろうじて助かったことを知る。
地面には、うじ虫のような姿になってばらばらに散らばった、大量の
リトリィから水筒をもらって、頭から水をかぶる。
しみる! だが、少しでも体を洗いたかった。
ぽろぽろとこぼれ落ちてくる細かな
「……木の上に潜んで襲いかかってくるなんてな」
「あなた、ごめんなさい……わたし、気づけなかった……」
すすり泣くリトリィの肩を抱きながら、俺は礼を言う。
「いや、君だって、素手で助けてくれたじゃないか」
彼女の指は、赤い血が滲んでいる。俺を助けようとしたときに、食いつかれたんだ。
「それに君が声をかけてくれたから、助かったんだ。もし声をかけられてなかったら、あれが顔に直撃していただろう。そうしたら、生きていなかったかもしれない」
上半身がひりひりと痛む。目で見る限り、
もし、あのまま鼻の奥や耳の穴に侵入されていたらと思うとぞっとする。耳の奥に入られたりしたら、あっという間に脳に到達し、食い荒らされていただろう。
考えてみれば、最初に登場した時も、どこからか降ってきた。あの時も、木の上に潜んでいたに違いない。意外に知恵が回ることに驚いた。
スライムは恐ろしい敵だと、改めて思い知らされた。上半身を一気に包み込まれて、よく生きていられたものだ。もしアルコールがなかったら、不足していたら……確実に、俺は死んでいたに違いない。
「ダガ、オマエ、生キテイル。アレト戦ッテ、勝ッテ、生キノビタ。オマエ、強イ」
「いや、俺が強かったんじゃなくて、俺は食いつかれただけだし、倒せたのはアルコール消毒のおかげだから」
「オマエ、生キノビタ。ソレ、言ッテル。生キノビタヤツ、ミナ強イ」
ボゥグルのボスは、無愛想な顔のまま、やたら力強く言う。
……妻からぺろぺろと舐められているところを、さっきまで敵として戦っていた奴から賞賛されるってのは、本当にこそばゆい気分になるものだな。
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