第545話:消毒にはアルコールを

「まず、酒精――アルコールをある濃度にして使えば、カビに効くというお話ですが、それは本当ですね?」


 疑っているわけではないが確かめておきたい――そんな表情で、ナリクァン夫人は尋ねてきた。


 もともと腐りにくい酒は、この世界でも傷口の消毒に使われてきたようだ。それは、この前の戦争でも見た。

 けれど、蒸留酒をその他の消毒に使うというのは見たことがない。


 経験と、そして「ニホンの知識」ということから信じたい、けれど……という心境なのかもしれないな。俺は、自信たっぷりに微笑んでみせた。


「私の世界では常識でした。お酒で酔う元であり、そしてカビを枯らす力、一部のする力の元として」

「一部の……ですか?」

「病気を無害化するのではありません。万能ではありませんが、一部のできるというものです」


 アルコールが消毒効果を持つというのは、日本では常識だ。この世界でもそれが当てはまるとすれば、きっと効果がある。


 日本では近年、傷口の消毒は再生しようとする細胞を破壊する行為だとして、水で綺麗に洗うだけで済ませて湿式絆創膏を貼るというのが流行りだったか。


 だが、それは「『消毒された』清潔な水」が「水道」から「豊富に手に入る」日本だから有効な話。

 こちらで使える水といったら、「井戸/川の天然水」だ。特に川の水など、俺の感覚では煮沸しなければ飲むのはもちろん、傷口を洗うのにも怖くてとても使えない。

 見た目は透明度も高く綺麗に見えても、どんな寄生虫がいるか分からないのだ。


 また、抗生物質など手に入りようのない世界だ。魔法では病気は治せないという話らしいから、一度感染症にかかったら命の保証はない。消毒は決して無意味なものではないはずだ。

 そしてそれは、新たな事業として十分な力を持つはず。


「一部の病気の元……とおっしゃいましたね? 例えば、どのような?」


 問われて、必死に思い出す。

 水虫を代表とするカビのたぐい、食中毒のサルモネラ菌とか大腸菌、黄色ブドウ球菌とか。ボツリヌス菌はあまり効果が無いんだっけ? でもなんで効かないんだったかな、忘れた。

 病気だと緑膿菌、狂犬病……。破傷風には効きにくいんだっけ? あとは流行性感冒インフルエンザ、結核、天然痘、黒死病ペストなど……。


「天然痘や黒死病を無毒化できるのですか⁉」


 これにはひどく驚かれたが、逆に言えばこの世界にも天然痘やペストがあるんだな。……恐ろしい!

 ただ、そういった致死性の伝染病に限らず、食中毒の防止になるし、もうすぐ俺に関わる重要な消毒の機会といったら、マイセルとフェルミの出産だ。


 出産のあとの産褥さんじょく熱――不衛生な環境で出産を行うことで罹患りかんする感染症――によって命を落とす女性は、異世界地 球の発展途上国でも多かったと聞いている。この世界でもお産で命を脅かされる女性は少なくないはずだ。


産褥さんじょく熱を防ぐこともできるのですか⁉ 本当に⁉」


 目をみはり、身を乗り出すようにしてきたナリクァン夫人に、むしろこちらが驚く。ペストよりも食いつきがよかったからだ。


「わたくしも、産褥さんじょく熱で生死の境をさまよった経験がありますからね。他人事ではないのですよ」


 その言葉に、今度は俺とリトリィが驚いた。


「夫人も、経験がおありだったんですか?」

「よくあることです。おんなにとって、あれはとても恐ろしいものです。愛する人の子を産むことが、死につながるなど……!」


 聞いてみて分かったのだが、産褥さんじょく熱で命を落とす女性は少なくない、それは事実なのだが、必ず死ぬというものでもないらしい。

 ただ、お産を無事に終えても、産褥熱しばらく高熱にうなされる女性は本当に多いそうだ。


産褥さんじょく熱は当たり前のことと思っておりましたが、違うのですね。それを防ぐことができるというだけでも、ムラタさん、あなたからお話を聞く価値があったというものです」


 いや、それを言うなら俺だって、産褥さんじょく熱は一般的なもので、重症化すると死ぬ恐れもある疾患、というのは知らなかった。やっぱり俺のもっているものは、ただの知識でしかなかったと実感する。


「何をおっしゃるのですか?」


 ナリクァン夫人が、目を丸くしてあきれてみせた。


「あなたの言葉の正しさが証明されたあかつきには、たくさんのおんなたちが救われるのですよ? 正しい知識は、万金に勝るものです」


 リトリィが、嬉しそうに俺を見る。まるで自分がほめられたかのように。それを見て、夫人が苦笑いを浮かべた。


「……正しいと証明されたら、ですけれどね?」

「ムラタさんの言うことに間違いはありません!」


 間髪入れずに言い返すリトリィだが、はっとしたように目を見開いて、うつむいてしまった。はしたないことをした、とでも思ったのだろうか。


「いえ、気持ちは分かります。命に関わることですから、聞き伝えで全てを信用するわけにはいかないでしょう。ですが、それは私の話に真摯に向き合ってくださった証だということですから、むしろ嬉しく思います」


 リトリィが、はっとしたように俺の方を見上げたのが分かる。大丈夫だ、君の主人は、多分偉い男なんだ。なにせ、君が選んでくれた男なのだから。


「特定の病気の予防にアルコールが効果を発揮するのは、自信を持って言えます。ですがそれを証明するためには、その病が大流行し、しかし特定の施設では感染を最小限に抑えることができた、というような事態が起こらないといけません。ですから、今すぐにはできません」


 ナリクァン夫人がうなずく。ああよかった、今すぐ証明できないなら信用しないとか無茶を言われなくて。いや、実業家だったからこそ、物事には段取りとタイミングってものがあることをよく分かっているのだろう。


「ですが、カビを抑える力があるというのは、準備さえ整えばいつでも証明できます。ですから、少し待っていただければ、すぐ証明できるはずです」

「アルコールの濃さの調節は、いかにするのですか? わたくし、お酒の中に酒精がどれほど混じっているかなど、聞いたことがないのですが」

「水とアルコールの重さの違いを利用します。同体積ではおおよそ10対8の割合のはずでしたから、さほど難しいものではありません。通常の蒸留酒を作るのと同じような方法で、精製度を上げていけばよいのではないでしょうか」


 そう、この消毒用アルコール事業は、既存の技術を改良すればすぐ始められるのだ。そして、健康に対する需要は、決して低くないはず。


「――ゆえに、十分な資金力のあるナリクァン商会なら、新しい事業として軌道に乗せるのも難しくないはずです。街の人々の幸せのためにも、この『消毒用』アルコールの事業を、ナリクァン商会の力でぜひ実現してほしいのです」

「……念のために聞きますね? なぜ、ナリクァン商会で?」

「大恩ある夫人の、その御人柄に捧げたく」


 すこし大袈裟に聞こえたかもしれないが、本音だった。今の家はナリクァン夫人の発案から始まってできたものだし、リトリィの花嫁衣裳を仕立ててくださった。なにより、彼女の救出に大変な力を貸してもらった。これが少しでも恩返しになるなら。


 夫人はソファに身を沈めて、少し思案をするそぶりを見せた。

 黒服にひと言ふた言話しかける。黒服は小さくうなずき、耳打ちをする。

 夫人は小さく苦笑いをすると、満足そうにうなずいてから、俺たちに向き直った。


「……いいでしょう。あなたたちの言葉を信じます。差し当たっては、カビを抑える効果とやらを証明してみせてください。その成果が満足いくものであれば、例の孤児院の壁の塗り替え工事をはじめ、あらためてもろもろの工事の支援をさせていただきますわ」

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