第546話:それがもたらす幸せを

 再びナリクァン夫人の屋敷の庭園を散策することを許され、俺たちは主に花壇を巡って回った。昼前のときには与えられた三十分、ただ木陰で休んでいただけだったからだ。


「あなた、ほら。この花、かわいらしいでしょう? これは――」


 リトリィが、庭園の様々な花のことを俺に一生懸命伝えようとしてくれている。花のことはほとんど分からない俺だが、だからこそ素直に質問をすると、嬉しそうに説明してくれる。それがとても可愛らしい。


 どうも、彼女を育てた親方おやじ殿の奥さんが花好きで、彼女が生きていたころには、畑にもいろいろな花が植えられ、屋敷周りにも花が植えられていたのだという。


 『母親』が亡くなり、家事と鍛冶のことで手いっぱいになってしまったリトリィには、すぐに花を育てる余裕がなくなってしまったらしいが、その時に身に着けた知識は、今も健在のようだ。


 午後のあたたかな陽射しの中で、花に囲まれている彼女の金色の毛並みが映える。尾飾りのないふかふかのしっぽがずっと揺れているのも、とても華やかで、かつ素直な感情が表れていて実に愛らしい。


 小さな鈴のような花をたくさんつけている低木の植え込みに囲まれた花畑の中で、リトリィは実に楽しそうだ。

 彼女のことを、俺はずっとオトナな女性だというイメージで見てきた。けれど、花と戯れる彼女を見ていると、やはりひとりの「女の子」なのだということに気づかされた。


 いや、今までだっていくらでも気づく機会はあったはずなのだ。けれど、俺は今まで全く気づいてこなかったんだ。そんな自分が、とても恥ずかしくなる。


「あなた、こちらの花はね、……」


 ひとつひとつ花を指差すその方を見て、一緒にしゃがみ込み、時には促されるまま手を触れる。そんな俺に、リトリィは嬉しそうに色々と教えてくれるのだ。そんな彼女が、本当にいとおしい。

 そして、そんな彼女の姿がもたらす幸せを、俺は今、噛みしめている。

 妙に高ぶる、胸の鼓動と共に。


 ふと、花壇のとある花に目を止める。

 筋の通る葉の間から伸びる茎にぶら下がる、白い可憐な花。花の付け根はややピンク色で、そして、嗅いだことのある、涼やかな甘い香り――


 この世界の、スズラン。


「……リトリィ」


 俺は聞いてみたくてたまらなかったことを尋ねた。


「さっき、君が付けていた香りだけど……絶対にただの香水じゃなかっただろう?」

「ふふ、どうしてそう思うのですか?」


 あの香りをかいだ時の、あのたかぶり。血が逆流したかのような、あの衝撃。

 ただの香水なんかで、あれほどまでに彼女を無性に抱きたい、犯したいという衝動に突き動かされるものか。絶対に何か混ぜ物があったに違いない。


「そんなことありませんよ。ただ――」


 彼女は、いたずらっぽく笑った。


「スズランの『花言葉』、ご存じですか?」

「……この世界にも、花言葉ってあるんだな」

「ありますとも。純潔、謙虚、母心ははごころ、――そして、巡る愛」

「……巡る、愛?」

「はい。巡る愛、です」


 そう言って彼女は唇を寄せ、俺の唇をぺろりと舐めてみせた。

 思わず抱きしめ、押し倒し、彼女の唇を奪う。

 だが、結局は彼女の長い舌で、俺の口内が蹂躙されるのだ。


 だから、そうなってから気づいた。


「……あくまでも、俺に、こうさせるためなんだな?」

「ふふ、どうでしょうか」


 彼女が自分から積極的になるのは、基本的にベッドの上だけだ。いつもはしとやかに俺のそばに控えて、俺の求めに応じるようにする彼女。

 俺に求められる・・・・・ことを求めている・・・・・からだ、彼女自身が。


「春に結婚した夫婦は、よくこの花を贈り合うんです。おたがいの愛を、確かめるために」

「そうなのか」


 リトリィの着る服が、深緑のビロードのドレスでよかった。

 草の汁が付いても、発覚にくいだろう。

 短絡的な行動をしておいて今さらだが、ほっとため息をつく。

 芝の上に二人で倒れ込んだからだろうか。

 スズランの涼やかで甘い香りが、より一層強く感じる。


「……ふふ、おやんちゃさん・・・・・・・が、お元気ですよ?」


 言われるまでもない。あれだけ彼女を抱いたあとだというのに、またも彼女を求める強欲な俺の愚息に、我ながらあきれる。


 この花壇の周りは、小さな鈴のような花を鈴なりにぶら下げた低木の植え込みで囲まれていて、すこし、秘密基地感があるのがいい。


「……リトリィ、これが、この世界のスズランの効能・・なんだな?」

「これほど効くなんて知りませんでした。香りに慣れていない方には、効きすぎるのかもしれませんね?」


 いたずらっぽく笑ってみせるリトリィに、俺は彼女が、あえてここに連れてきたのだと確信する。


「……君は、意外に策士だな?」

「分かりません。でも、あなたに愛していただくためなら、わたし、どんなことだってしてみせるつもりですよ?」


 巡る愛、か。

 満開のシェクラの花の下で愛を誓い合った日まで、もうすぐ一年。

 この世界のスズランの香りにこんな効能があるのなら、確かに花言葉は「巡る愛」がふさわしいのだろう。


『あなたに愛していただくためなら、わたし、どんなことだってしてみせるつもりですよ?』


 リトリィの言葉がふわりと蘇ってくる。

 重い愛だ。

 でもその愛のために、彼女はマイセルともフェルミとも折り合いをつけ、「俺のための最善」を尽くそうとしてくれている。


 それほどまでに、妻が愛を求めてくれているのだ。だったら、その愛に応えるのが夫のプライドというものだ。

 スズランがもたらしてくれた効能に、今は乗っかろう。おそらくこの香りに慣れていない今だけだ、スズランがもたらす幸せを享受できるのは。


 ああ、いくらだって注ぎ込んでやる。

 どうせナリクァン夫人だって、こうなることなど織り込み済みなのだろうから。

 ああ、愛している。

 愛している、リトリィ……!




「今日はそのお召し物でお帰りになってくださいな」


 ――などと言われても困るんですがっ!


「あ、あの……このような高級な生地を洗濯するような道具も洗剤も、うちには無いのですが……」

「あら、ムラタさん。まさか、このわずかな時間で服を汚してしまったというのですか?」


 くすくすと、間違いなくサドっ気のこもった笑みを向けるナリクァン夫人。


 いや、分かる、分かりますとも!


 リトリィのドレスの背面はいろいろシワになってるし、俺なんて膝だけ草の汁が付いて緑の筋だらけだし!

 ですがこのまま帰れって、そりゃないよナリクァンさん! いや、全部自分のせいなんだって分かってるけどさ!

 せめてリトリィには、その、ショールかなにかをですね……!


「申し訳ないのですけれど、あなた方のお召し物はすでに洗ってしまいましたから。そちらは後日届けさせますから、ご心配なさらず。それよりもうららかな春の午後ですし、愛の行為の証を道行く人に見せびらかしながら帰るのも一興でなくて?」


 なんてこったッ!




「……? だんなさまのおまた、がする」


 帰宅して真っ先に飛びついてきたリノが、鼻をくんくんとやってから、いぶかしげに俺を見上げた。

 まあ、そーなるよな。

 帰り道も、獣人の女性がこちらを振り向いてはひそひそ言ってたし。うん、言い訳なんてかけらもできない。


 一番恥ずかしいのはリトリィだろう。なにせ俺ののニオイを振りまきながら歩いていたようなものだ。

 ……うん、ごめん。


「リノちゃん。旦那さまのお帰りですよ? 挨拶は?」


 マイセルにたしなめられて、リノが思い出したように元気に「おかえりなさい!」と叫んだ。


「ムラタさん、お姉さま、おかえりなさい。ナリクァン夫人には、分かってもらえましたか?」

「ああ、それは間違いなく」

「よかった! お帰りが遅かったから心配していたんです。説得できなかったんじゃないかって」


 マイセルは俺のコートを受け取りながら、俺たちを居間へといざなう。


「なんとか分かってもらえたよ。君たちと昨夜、いろいろ話し合ったおかげだ」


 孤児院の子供だけじゃない。健康な生活は、全ての人にとっての願いである――この発想は、リトリィとマイセルと話をするなかで気づかされたことだ。

 子供が健やかに生きる――それだけではなく、その子供を育てる親にとっても、子供の健康は何にも増して高い価値をもつと、マイセルは言った。そして、その子供を育てる親自身の健康も。


 マイセルの実母であるクラムさんは、マイセルを産んで体を壊し、長く床に臥せっていたという。今でも体は強くない。おそらく、俺が今日話題にした産褥さんじょく熱というやつが原因だろう。


 酒が消毒効果をもつ――それ自体は街の人も知っていた。けれど、それはあくまでも怪我に対する処置というだけだし、そもそも酒といっても、普通の醸造酒程度のアルコール濃度では殺菌効果はあまり期待できない。


 それを、純粋に消毒薬としての効果が望めるものにする。

 それは、きっとこの世界の人々に幸せをもたらすはずだ。

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