第547話:やはり一世一代の仕事を
「だんなさま!」
朝の水浴びを終えて、リノの濡れた体を拭いてやっている時だった。
「だんなさま、ボク、いつだんなさまのお嫁さんにされちゃうの?」
「お嫁さんに『されちゃう』って言い方は強烈だなあ」
苦笑しながら、手ぬぐいを滑らせる。こうして白く滑らかな肌に手ぬぐいを滑らせていても、リトリィやマイセルと違って特に何も思わないのが不思議と言えば不思議だ。娘みたいなものだからだろうか。
「前から言っているが、リノが大きくなって、リトリィに赤ちゃんができてから、かな……?」
「お姉ちゃん、ボクに、赤ちゃんできるまで待たなくていいって言ってたよ?」
「俺は待ちたいんだ。……リノは待てないか?」
俺の言葉に、リノはぶんぶんと首を振ってみせた。
「ボク、約束したから。お姉ちゃんに赤ちゃんできるまで、待つよ」
「……そうか。早くその日が来るといいな」
「えへへ、そしたらボク、だんなさまのお嫁さんにしてもらえるんだよね?」
「……そうだな。リノも、俺のお嫁さんか」
「うん! そしたらボクもだんなさまの赤ちゃん、いーっぱい産むよ!」
「……そうか。それは、とても楽しみだな」
「うん! まかせて! ……だんなさまが産ませてくれる赤ちゃん、ボク、みんな育てていいよね? どっかにやったりしないよね?」
「……当たり前だろ、犬猫じゃあるまいし」
「やったあ! えへへ、だんなさま、ボクのだんなさま! ボク、だーいすき!」
「こ、こら……飛びついてくるんじゃない」
なんの疑問もなく、いずれ俺に
貴族の男の公式の愛人となり、遂にはその子供を産んだ獣人の娘、ミネッタの出産に立ち会ったことを思い出す。
あれは壮絶だった。命を産み出すことがあれほどまでに大変なことだったなど、俺は知りもしなかった。単に知識として知っていただけで、その本質を何も理解していなかったのだ。
出産とは、めでたいとか尊いとかだけでなく、苦痛を伴ううえに危険で命がけの行為なのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。
いずれ、無事に俺とリノが愛し合う日がやって来たとしても、その先に待ち受けることを、彼女はまだ理解していないのだろう。だからこうも無邪気に、子供をたくさん産んでみせるなどと言えるに違いない。
いや、だからこそ――
俺は心の中で固く誓う。
だからこそ、皆が少しでも病気から遠ざかり、健康に暮らせる環境を維持することができる――そんな社会を作るのだと。
せっかくこの世界にやって来たのだ。この世界に、生きた痕跡を残せる、そんな仕事ができたら。
「だんなさま……だんなさま……? ……むーっ、えいっ!」
「うわっ⁉ な、なにをする!」
「わー、触ったらだんなさま、おっきくなった! えへへ、おもしろーい!」
り、リノっ! このいたずらっ子め!
「瀧井さんのお宅に、ですか?」
「ああ。やっぱり大学で研究していた人だからな」
朝食を食べながら、俺はマイセルに答える。
「大学! 瀧井さんは神学者だったんですか?」
「いや、農学を研究していたんだそうだ」
「農学……ですか?」
おかわりを求めるヒッグスの皿にスープをよそいつつ、マイセルが目を丸くした。
「農学……って、畑仕事を学ぶんですか? ……その、大学……で?」
マイセルが戸惑う。やはりこの世界の大学というのは、
「農学ってのは食の生産の基本だ。俺のいた
実際に農学部の連中が何をやっているかなんて知らないが、売り文句にバイオテクノロジーを利用した新しい品種開発、とか見たことがあるから、多分間違ってはいないはず。
「農学は、ひとが生きる基本を豊かにしてくれるものだ。すばらしい学問なんだぞ」
「そ、そうなんですね。わたし、知りませんでした。ごめんなさい」
マイセルが、ひどく感心した様子でぺこりと頭を下げる。いや、俺も想像でものを言っているから、そんなにかしこまられても。
「おっちゃん、なんかよくわかんないけど、すげー!」
ニューが、口の中にパンを詰め込みながら感心してくれている。……が、はしたないのでせめて飲み込んでからしゃべろうな?
朝食後、孤児院に向かうと、リファルに今日の仕事の段取りを頼む。リファルは「またかよ」と憮然としてみせたが、マイセルが用意してくれたオライブの油の小壺を手土産に渡したら、手のひらを返したようにあっさりと了承しやがった。マイセルの助言を聞いておいてよかった。
その足でまっすぐ瀧井さんのアパートに向かう。今日もリトリィが一緒だ。
本当は一人で来るつもりだったのだが、「だんなさまをお一人にするわけにはまいりません。身の回りのお世話は、妻の役割ですから」と譲らなかったのだ。マイセルにも、「それが本義ですから」と、すんなり納得されてしまった。
瀧井さんの家についてノックをすると、瀧井さんは相変わらず建て付けの悪いドアを蹴っ飛ばして、ドアを開けてくれた。
「急な訪問、申し訳ありません」
「なんのなんの。時代は違えど同じ日本生まれの日本育ち、何を遠慮することがあるのだね。こんな隠居老人を頼ってくれることのほうが嬉しい」
この世界には電話なんてないから、アポイントメントを取ることは非常に重要だ。そうでなければ、行ってみたらいなかった、なんてことになりかねない。加えて、相手の都合というものもある。
そういう意味では、今回もラッキーだった。いつもいつもこうだといいが、そういうわけにもいくまい。
リトリィはさっそくペリシャさんに引っ張られて隣の部屋に行ってしまった。リトリィも嬉しそうについて行くだけに、女性同士で話したいことでもあったのかもしれない。従者の話はどうなった、などと野暮なことを聞く気もない。
「……それにしても、この世界に来て、しかもこの歳になってカビの培養方法なんてものを聞かれるとは思わなんだぞ」
カッカッカと笑う瀧井さん。いや、俺もこの世界に来なければ、カビを培養しようなんて絶対に考えなかったに違いない。
「そういう意味でも、お互いに想像もしていなかったというわけか。ただ、この歳になっても頭を使う機会に恵まれるっていうのは、悪いことじゃない」
そう言って、瀧井さんはカップを傾けた。
「私の方も驚きでした。この世界にも寒天があるんですね」
「ああ、そうだな。コメも、わしらの世界の原種に近いものならあるらしいんだが、なにせ誰も食わんらしいからな。王都で何度か
瀧井さんは、妙に感慨深げにため息をついた。
「え? でも、たしか日本酒に近いお酒が、完成に近いって、以前……」
「おう、昔、ここよりずっと南の方で、農業指導をしたことがあってな。その時に、数世代ほど、品種改良をしてみたのだ。だが、こちらの人々の口には合わんかったらしくてな。挫折した」
「え、じゃあ、お酒はどうやって……」
「それよ」
俺の疑問に、瀧井さんは笑って答えてくれた。
「人間、酒だけは世界中のどこでも作るのだ。あのあたりでは芋で酒をつくっておったんだが、わしが米で作った酒をことのほか気に入ってくれてな」
我が意得たり、よく聞いてくれたと言わんばかりに上機嫌になる。よっぽど誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。
「それで、南方人は食うためでなく酒造のために米を作るようになったのよ。この辺りはまだ麦酒ばかりだが、南方人には今や米酒がだいぶ広まったらしい。醸造方法はまだまだ洗練されておらんようだが、それでもな」
つまみの鯉の干物を俺に進めながら、瀧井さんは実に満足そうに続けた。
「わしの――わしらのふるさとの味とまではいかんが、しかし日本の味が、この世界に根を下ろしつつある――それは、大変に痛快なことではないかね?」
それは俺も分かる。俺が提案した安全装備――保護帽、フルハーネスの安全帯、カラビナ、そしてスポーツドリンク。
これらは、俺が関わる現場に少しずつ浸透しつつある。少なくともカラビナによって付け外しが楽になった命綱、保護帽、スポーツドリンクは、だいぶ定着したように思う。
――自分が生きた証を残せている。
何かを建てるたびに日本でも味わってきた、「地図と歴史に残る仕事」――その実感は、例えようもない高揚感を味わえるものだ。
俺の言葉に瀧井さんは、「ムラタさんもやはり男だということだ」と大きくうなずいた。
「帝国男児と生まれたからには、やはり一世一代の仕事を成さねばな」
……その価値観はちょっとついて行けないところはあるが、でもおおむね同意だ。
「それにしても、日本というか、地球とよく似た世界ですよね」
「そう……さな。わしは農学くらいしか持ち合わせておらん。だから農学を通してしか分からんが、たしかにそうだな。わしらの暮らしていた世界といろいろと違いはあるが、根本は似ておる。植物、動物、そして交配可能な人間……。不思議なことだ」
漫画・アニメオタクだった、元同僚の島津が言っていた「並列世界」という言葉が思い出される。それを当てはめるとこの世界は、あるとき「地球とは違う可能性」の世界線に分岐した、別の地球――そんなことを想像してしまう。まあ、SFだよな。
ただ、言えることが一つある。
日本では成し遂げられなかったことを、俺はこの世界で、確実に成し遂げつつあるのだ。
俺を助けてくれる女性たちや瀧井さんのような、たくさんの人々の手を借りて。
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