第548話:責任の重さとやりがいと
「なるほど……寒天を使う理由はそんなところにあったんですね」
「そうだな。ゼラチンは使いやすいように見えるが、あれも
瀧井さんの話を、メモを取りながら聞く。
今度はそれを俺が作って実験するのだ。一言も聞き漏らさないつもりで、俺はせっせとメモを取っていた。でないと、あとで困るのは俺だし、また聞きに来るようなことがあったら瀧井さんにも迷惑だ。
「寒天は、カビに強いんですか?」
「カビ以外にも、大抵の菌類には強かったはずだ」
瀧井さんは、よどみなく話す。五十年以上昔の記憶なのに、だ。やはり日本を背負う気概を持って研究を積み重ねた青春時代のことは、忘れられないということなんだろうか。
「それにしても、『寒天培地』という言葉をお前さんが知っていたということは、五十年経っても寒天に勝る素材は無いということなんだろうな」
「それがこの世界にも存在しているってことも、本当に助かりますね」
「違いない」
瀧井さんは、俺のメモを見て満足そうにうなずいていた。
「……何か、間違いはありませんか?」
「無いとも。よく書けている。……なんだね、気になるかね?」
「いえ、私の手元をよくのぞき込まれるので、何か間違いがあったのではないかと」
俺の返答に、瀧井さんは少しだけ眉を動かし、そして笑った。
「いや、日本語をこうやって話すのも、漢字や仮名をこうやって読むのも、お前さんが来るまで無かったことだからな。懐かしくて、つい、な……」
お前さんの奥方は、たまに家内とお茶をしに来るんだぞ――そう言って意味ありげに口の端を上げてみせる。たまには用事なく顔を出しに来い――そう言いたいのかもしれない。
「しかし、専門分野でもないのに首を突っ込んでくるとは恐れ入る。しかも下手をすれば、命に関わることだ、責任は重大だぞ? なぜだ、何がお前さんをそこまで駆り立てる?」
「家族みんなで健康で幸せな暮らしをしていくためです」
瀧井さんをまっすぐ見返して言った俺に、彼は苦笑いをしながらため息をついた。
「……そうか。戦い方も知らんというのに、奥さんを取り戻そうと何度も戦ったお前さんだ。その答えが返ってくるものだと、予想できてしかるべきだった」
「どんな理由だと思ったんですか?」
「いや……ここへきて、お前さんもやたらと家族を増やしたようだからな」
瀧井さんは頭をかき、背もたれに体を預けて、照れたように笑った。
「大きな稼ぎ口でも探しているのではないかと思ったのだよ。欲をかいてはいかん、と釘を刺すつもりだったんだが」
「欲……確かにそうですね。最初は孤児院の子供たちのためだったはずなのに、結局は自分の妻たちや生まれてくる子供のことを考えているんですから」
仕事を隠れ蓑にするようにして、個人的な理由で瀧井さんを頼ろうとしている。欲をかいていると言われても、仕方がないだろう。
「……何を言っておるんだね。わしも、家族のことを第一に考える人間を、欲をかいているとは言わんぞ。個人的な金銭欲、名誉欲に取りつかれてはいないかと心配しただけだ」
またも苦笑いを浮かべて「相変わらずだな。安心したが、ゆえに逆に心配にもなる」とつぶやいた瀧井さんは、俺にお茶のおかわりをすすめた。
「相変わらずなんでも背負い込む
「そうでしょうか? こうして、いろいろな人の手を借りているつもりですが」
「手を借りても、その続きを一人でやろうというのだろう? 結局一人で背負い込んでおるようなものだ」
からからと笑った瀧井さんは、急に「やんちゃなおじさん」のような顔をしてみせた。
「どうだ、わしを雇ってみないか?」
「えっ……? 雇う、ですか? 瀧井さんを?」
一瞬、何の冗談なのかと戸惑ってしまった。俺の倍以上歳が離れていて、人生をはじめいろいろなことで大先輩の、瀧井さんを、俺が雇う?
「ああ、そうだ。歳を取って勘の鈍ったところもあるだろうが、これでも大学で研究した経験もある。お前さんが一人で試行錯誤する、その何倍も早く目的を達成することができるかもしれんぞ?」
「そ、それは……逆じゃないですか? 瀧井さんが私を雇うというなら話は分かるんですが」
「なにを言っとるんだ」
瀧井さんが大きなため息をつく。
「……いいか? お前さんはこの世界で『健康』を飯のタネにしようとしている事業主だぞ? そしてわしは、そんな事業など考えもしなかったが、技術だけはある人間だ。どっちが雇い主か、考えるまでもなかろう」
「い、いや、別に飯の種にしようとしているわけではないんですが……」
「それはいかん。何かをやるならカネが動く。カネが動くなら人が動く。人が動くならそいつを食わせにゃならん。飯のタネと言ったのはそういうことだ。どうもお前さん、給料というものが天から勝手に降ってくるとか思ってはおらんか?」
ぐうの音も出ない。よく考えたら、経営者なんてやったことないもんな。現場監督っていったって、結局はスポンサーが全部お金を出してくれていたわけだし。
「わしも別段、何か商売をやっていたわけでもないが、軍では下士官として兵を率いた経験もあるし、こちらでも開拓団を率いることくらいはしたからな。人を使うということはどういうことか、少しは心得ているつもりだ」
たしかに、俺もこの世界に来て現場監督の真似事みたいなことはするようになったが、それにしたって、まだまだ未熟。
「それに
要はそうやって、俺が雇いやすい口実を作ってくれようとしてくれているわけか。やはり歳の功というか、瀧井さんには頭が上がらない……
……って、
「なんだ、おまえさん、まだ払っていなかったのか? わしが言えた義理でもないが、嫁さんを二人ももらっているんだから、税くらいしっかり払っておかんと、懲罰税を取られた挙句に路頭に迷うようなことになりかねんぞ?」
「ちょ、ちょちょ、ちょっとまってください!
「なにを言っとるんだね、世帯主が払う家族分の税金じゃないか」
そして俺は、結婚するときに聞いたかもしれないがすっかり頭から抜けていた「
要するに、この街で家族生活を営むにあたって、同じ家、同じ部屋に住む家族の人数に応じて支払う税金のことだ。
成人男性を基準に、十四歳までの子供は男性の半分。成人女性および「婚姻した女性もしくは婚姻関係と同等にある女性」は成人男性と同じ。収入の多い少ないは一切考慮されない。
ここでポイントなのは、「世帯主」という点。つまり家持ち、もしくは借家住まいを対象にしているということ。浮浪児・ホームレスは対象外ということらしい。
そして、どうして一夫一婦の家庭が多いかも十分に理解した。単純にカネがかかるからだ!
単純に、妻を二人娶ったとして、子供が二人ずつ生まれたとしよう。すると、男女一組カップルに比べて、単純に税が銀貨三枚から銀貨五枚に増えるということだ。
そして我が家の場合だ。
成人男性は俺。
妻はリトリィとマイセル。――「婚姻関係と同等の女性」だから、フェルミも入れなきゃな。
チビ三人。
そして、生まれてくる子供たちが二人。
今はまだ赤ん坊が生まれていないからいいが、来年はこのフルセットになる。
すると、成人男性は銀貨四枚+半額分が五人。
なんと、銀貨六枚半相当の税!
人一人がひと月食べていくのに、贅沢しなければ銀貨一枚と言われているから、俺の食費の半年分以上の額を払わなくちゃならないってことだ! ギャース!
「……なんだ、そんなことも考えずに家族を増やしたのか?」
「い、いえ……まさかこんなに高くつくとは思っていなかったので……」
「それがお前さんの肩に乗っている責任の重さだ。やりがいがあろう?」
「ま、まあそうなんですけどね?」
瀧井さんは「少々荷が重い方が奮起できていい」と言って、他人事のように愉快そうに笑う。実際に他人事ではあるが、俺と違って翻訳首輪もなく苦労してこられた瀧井さんだ、口調は軽いが実際に苦労を背負ってきたのだから、その言葉も実に重い。
「は、はは……頑張ります……」
「なに、わしが手伝うと言っておるんだ。大船に、とは言わんが、ちったあ役に立ってみせるともさ」
「やれやれ。やっとお話が終わりましたか?」
タイミングを見計らったかのように、ペリシャさんが隣の部屋から入ってくる。聞き耳を立てていたのかと思うほどに。
それと、なぜか妙に頬が赤いリトリィ。一体何があったのだろうか。
「では、リトリィさん。約束のお土産。大人だけで召し上がってくださいね?」
「は、はい! がんばります!」
「あらあら。頑張るのは旦那様ですから、あなたは上手に受けに回るようにね?」
意味深に微笑んでみせるペリシャさんと、顔を紅潮させつつも妙に気合の入っているリトリィ。
このやり取りで分かった。
リトリィの奴、絶対にペリシャさんからろくでもないことを吹き込まれたな。
……この前は男性の前立腺を直接刺激する必殺技を教え込まれてきたせいで、大変な目に遭ったんだ。あの土産だって、絶対に怪しい代物に決まってる。
リトリィの顔があんなに赤いんだ、間違いなく夜の夫婦生活で何か仕掛けてくるに違いない!
いや、要するにとっとと子供を産ませろって言いたいんですよねペリシャさん!
ええ分かっていますとも! 子供を切に望んでいる女性を娶った責任は果たしてみせますとも! ですからどーか、余計なことは……!
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