第569話:誰かの幸せの陰で

「人間、やっぱり誠意は通じるもんだよな!」


 ニマニマだらしない笑顔で顔を崩しているリファルに、「そうだな、コイシュナさんも災難だ」と返すと、いつものように「なんだと!」と小突いてきたリファル。

 だが、その手には力がない。


「ふふん、今日のオレは気分がいいからな。あの可愛いコイシュナさんに免じて許してやろう」

「気持ち悪い奴だな」

「なんとでも言え。オレは今、街一番の果報者だ」

「そうかそうか、そりゃよござんしたな」


 馬鹿言え。二人の献身的な妻をもち、さらに二人の妻が加わることが確定していて、しかも今年の夏には可愛い赤ん坊が二人も授かる俺こそが街一番の果報者だ。


 ……とは、あえて言わないでおく。


「よーし! おい、付き合え! 今夜は俺が一杯飲ませてやる!」

「……やめとけ。そんな金があるなら、コイシュナさんとの食事に使ってやれよ」


 景気よく飲みに誘ってきたリファルに、俺はあえて辞退を申し出る。どうせ延々と自慢話を始めるのだろう。


 ……なにせ、俺がそうだったからな! ああ、彼を見て理解できたよ! 俺、今まで相当恥ずかしいことをやってたんだなって! 顔から火が噴き出る思いだ!


 ところが、リファルの奴は俺の返事に、一瞬真顔になって、そして見る見るうちに顔を歪めた。


「……ムラタ、おまえ……なんていいヤツなんだ」

「……は?」

「そう……だよな! 野郎なんかより、彼女のためにカネを使うべきだよな! そうだ、これからは彼女を幸せにするためにカネを貯めなきゃいけねえのか!」


 なにやら指折り数え始めたリファルだが、屋台で燻製肉の串焼きを見つけると、なぜかダッシュしてそちらで串焼き肉を買い求め、そして戻ってきた。

 手には串焼き肉を二本、持っている。


「オレ、いままでよくお前の家で飲み食いさせてもらってきたけど、考えてみればお前になんにも返してなかったよな! お前なんか嫁とか拾ったガキとかワチャワチャしてて大変なのに! これ、とりあえず今日の礼! 飲みに行くのはまた今度な!」


 そしてなぜか二本とも俺に押し付けると、「ちょっと、そこらへんで小遣い稼ぎしてくる!」と駆け出して行った。


 ……きっといい奴なのだ、リファルは。

 ちょっと大工としてのプライドが高くて──実際に技能もあるが──面倒なところはあるけれど。

 ただ、今日の礼として串焼き肉二本ってなんだ。訳が分からない。


 その場に取り残された俺は、苦笑いしつつ食おうとして、そして思い直した。




「ご、ごめんなさい! 来てくれるなんて、思ってなかったから……!」


 フェルミがひどく驚いた顔で、けれど奥に通してくれる。


「いや、リファルに串焼き肉なんておごられたからな。中途半端な数だったし、君と食べることができればと思ってさ」


 俺の言葉に目を丸くしたフェルミは、「……ご主人らしい理由っスね」と、ため息と共に肩を落として、笑った。


「お茶を淹れますから、席にどうぞ」

「いや、いいよ。手間だろうし、燃料も──」

「ご主人──ムラタさん」


 断ろうとした俺の耳に、フェルミがそっと、キスをした。


「──好きな人のために、なんとかおもてなしをしようという女の厚意を袖にするのは、優しさとは違いますよ?」




 はぷ──


 お互い、耳を甘噛みするのは、二人の愛の形として、いつの間にか定着していたこと。

 軋むベッドの上で愛し合ったあとのけだるい時間は、こうして、互いの耳をで合うのが俺たちなりの愛の確認となっていた。


「……可愛いな、フェルミは」

「そう言ってくれるのは、ムラタさんだけですよ」


 どこか寂しそうな微笑みが気になって抱き寄せると、フェルミは口づけを求めて来た。

 わずかな沈黙が、部屋を支配する。


「……ときどき来てくれるだけでいい、顔を見せに来てくれるだけでもいい……。お姉様の陰で、ひっそりと、少しだけの幸せをかみしめていられたら──そう思っていたのに、近頃は、あなたが来てくれない夜が、寂しくてたまらないんです」

「それは……」

「分かってはいるんですよ? あなたにとってはお姉様が一番で、私はそうなれない……それくらいは」


 そう言って、フェルミはまた、俺の耳をしゃぶるようにくわえた。


「……でも、あなたが来ない夜、あなたはお姉様を、マイセルを抱いている……そう思うだけで、胸が痛むんです。あなたともう少し早く、出会っていればって。そうしたらあなたの愛を、独り占めにできていたかもしれないのにって。あの、結婚記念日だって、私と二人きりで過ごせた日だったのかもしれないのにって」


 声が出ない。出せない。あの日、あんなに軽口を叩いていたフェルミが、そんなことを思っていたなんて。

 そんな俺の動揺を知ってか知らずか、熱い吐息をまとう彼女の舌が、頬を、唇を、あごを、喉を伝ってゆく。

 同時に彼女の細い指が、俺の太ももを伝い、鼠径部を経て、そして――


『獣人は情が深い』


 瀧井さんの言葉が思い出される。そういう意味でも、フェルミはまさしく獣人だった。


「……でも、そうしたらきっと、あなたはわたしに気づいてくれなかった。お姉様に愛されたあなただから、私も愛してもらえた。それも分かるから、私、苦しいんですよ……?」


 嗚咽とともに、俺の上にまたがって来た彼女。

 お腹のふくらみが目立つようになり、妊娠していることが明らかなフェルミは、男装をやめていた。今も、俺が以前贈った女性的な下着一枚で、ゆっくりと腰を動かす。


「私、あなたの女になれていますか? 上手に、『オンナ』をできていますか……?」

「君は十分に可愛い女の子だよ」


 お腹をなでながらそう言うと、フェルミは泣き笑いで答えた。


「そんなことを言ってくれるの──本当に、あなただけなんですよ? 本当に信じていいんですか?」

「信じろ。お前が選んでくれた男なんだぞ、俺は」

「……もう」


 腹を撫でる俺の手に、彼女は自分の手を重ねた。あたたかい。


「私が選んだんじゃないですよ……あなたが、私を選んでくれたんですよ?」

「じゃあお互い様だ。この広い街の中で、俺たちはお互いに人生を預ける相手を選び合ったんだ。だったらお互いに信じるしかないだろ?」


 俺の言葉に、フェルミはぼろぼろと涙をこぼす。


「私……そんなんじゃないのに。あなたにしてあげられることなんて、こんなことくらいしか……」

「こんなことなんて言うなよ。俺がこの世界ここで生きた証を残してくれる大切なひとなんだ、君は」

「……それなら、マイセルが──」

「君が残してくれることに意味があるんだ」


 そう言うと体を起こし、フェルミを抱きしめる。

 泣き続ける彼女の唇をふさぎ、頭をかき抱くようにして、そのまま押し倒す。


「泣くな。俺は君と出会えて幸せなんだ。君と生きることができるのが幸せなんだ。君にといっしょに、幸せになりたいんだ」


 すすり泣きながら、何度もうなずきすがりつくフェルミの耳を──ぎざぎざの耳をくわえ、なめ、しゃぶる。


 フェルミが甲高い悲鳴を上げ、体を大きくのけぞらせるが、離さない。普段ひょうひょうとしている彼女からは想像もできない──俺だけが知っている、息も絶え絶えに乱れる彼女の奥を、繰り返し何度もえぐる。


 君と幸せになる──そう伝えるために、彼女の耳を甘噛みしつつ、俺はもう一度、彼女の一番深い場所に愛を注ぎ込んだ。




「煙突掃除、ですか? そりゃ、知ってますけど……」

「ああ。なかなか大変な仕事だって聞いたからさ。……フェルミが知っていることでいいんだ、教えてほしい。どんな感じなんだ?」

「子供の仕事ですよ? あなたには……」


 おそらく、関係ないと言おうとしたのだろう。だが、何かに気づいたのか、続きを飲み込んだようだった。


「あの孤児院で、何かあったんですか?」

「いや、何かがあったわけじゃないけど」


 フェルミはしばらく俺の耳をなめていたが、やがてあきらめたように口を開いた。


「……とても、大変な仕事です。私も、少しだけやったことがありますけど、すぐ脚を痛めて、できなくなりました」

「脚を?」

「落ちたんです」


 故郷の国境紛争でひどい暴行に遭った彼女は、それでも他に生きる場所を見出だせず、しばらく村にとどまっていたという。


 しかし、村の男たちに、純潔を失い、子供も産めないだろうと判断された彼女は、嫁に行く未来のない娘として、更にひどい扱いを受けたのだそうだ。


 そんな村の男たちから逃げるために、彼女は男装し、以後、街を転々としながら男として生きてきた。煙突掃除は、街を渡り歩いていた頃にやったことがあるのだという。


「いくら男を装っても、体は女ですから。小柄な体でしたし、これでも獣人族ベスティリングの端くれですから、そこそこ力はありますし」


 ただ、やはりきつかったのだという。


「煙突の中はにおいがきついし、体に付いたすすも取れないし。目にすすがはいったときなんて、すでに全身がすすで真っ黒ですからね。こすればますます目が痛くなるし、どのみち、長くは続けられませんでした」


 獣人族であるがゆえに敏感な感覚が、煙突掃除という過酷な環境には合わなかったのかもしれない。

 ある日、すすを吸い込んでしまい、咳き込み、そして滑落。

 途中で折れ曲がるタイプの煙突だったから、その突起でひどく打ち付けてしまい、それはそれは痛い思いをしたのだとか。


「まっすぐ落ちていれば、どうなっていたか分かりませんけどね」


 待てフェルミ、それは笑って言うことじゃない。


 ただ、はっきり言えるのは、煙突掃除という仕事は、子供を使い捨てにするレベルで過酷な仕事だということだ。この街は比較的豊かに見えるが、その豊かに見える陰で、苦しんでいる子供たちが確実にいる、ということでもある。


 そしてもっと言うと、それが当たり前であり、誰も問題にしていない。街のシステムとして、すでに出来上がってしまっているのだ。


 誰かが幸せになり、活気づく街のその陰では、誰かが苦しんでいる──そんなことをいうとディストピア小説のようだが、俺が生きてきた日本を含む世界だって、多かれ少なかれそういうところはあった。


 もちろん、すべての人が平等の社会なんてあるわけがないし、そんなものがあるとすればきっと悪夢のように空疎な世界に違いない。この街の人たちだって、自分たちが幸せになるために、誰かを幸せにするために、努力をしているはずなのだ。

 それは分かるんだけど、でも、その陰で苦しむ人が、少しでも少ない方がいいに決まっているじゃないか。


「……ムラタさん、くるしい……」


 フェルミを抱きしめていた腕に、いつの間にか力が入りすぎていた。慌てて腕を緩める。


「……ほんとに、仕方のない人っスね。ムラタさん、あなたの手は、二本しかないんスよ? その手で、いったい、どれだけをすくい取ろうとしてるんスか?」


 そう言って耳を甘噛みしてきたフェルミを、俺は改めて抱きしめる。


 ひとにできることなんて、俺にできることなんて、たかが知れている。

 まずは手元──いま目の前のひとを幸せにすることが大事。


 ──それは、分かっては、いるんだけどさ。


「そんなあなただから、こんなに好きになってしまったんでしょうけどね?」

「手を広げすぎだって言いたいのか?」

「……逆、ですよ。広げてくれるあなただから、私に出会ってくれたんでしょう?」


 そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべて、フェルミは俺に引導を渡す。


「もう、月が出てるっスよ? お姉様にはちゃんと話を通しているんスか?」

「……あっ」




 お玉を握って笑顔を貼り付けて仁王立ちのマイセルと、その後ろでなぜかニコニコしているリトリィ。さらにその後ろから、ひょっこり顔だけ出しているリノ。

 俺は玄関から一歩も入れぬまま、直立不動。


「……お夕飯は、食べますか?」

「もちろんですマイセルさん!」

「はい! では、温めますね?」

「感謝致しますリトリィさん!」

「……今夜は──」

「もちろん、寝かせないから安心してくれっ!」

「ボクらにはいつも早く寝ろって言うのに。夜は早く寝なきゃだめなんだよ?」

「リノはちゃんと寝かせるから安心してくれ!」

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