第568話:「子供」を知るひと
「赤ん坊は、泣くのが仕事──いい言葉ですね」
ヴェスさんは、眼鏡の奥の目を細めながら言った。
「子供のことなんて詳しくない、とおっしゃいましたが、男性は特に、子供の泣き声をうるさがるものだと思っていました。どうして泣くのが仕事などと、そのような寛容な考えをなさるのですか?」
「……いや、だれでも赤ん坊のころには泣いたものでしょう?」
男なら赤ん坊の泣き声をうるさがる──そんな風に思われるのは心外だ。
「俺のいた
自分が子育てに関わってこなかった団塊の世代だから、そんな横暴なことが言えるのだろう。まったく、自分がどれだけ今後の日本に貢献できると思っているのやら。
一人で勝手に憤慨している俺に、ヴェスさんがくすりとわらった。
「ムラタさんは、変わった人ですね」
「この街に来てから、よく言われます」
俺が苦笑いを返すと、ヴェスさんはふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。どちらかというと硬い表情が多いヴェスさんが、赤ん坊ではなく俺にそんな微笑みを向けるのは初めてのような気がする。
「ムラタさん、一つお聞きするのですが」
前にも聞いたのですけれど──ヴェスさんはそう言って、窓の向こう、中庭を越えた先の赤ん坊部屋を見つめながら言った。
「子供って、なんだと思いますか?」
突然、哲学のような問いを発せられて言葉に詰まる。
子供ってなんだ。子供といったら子供じゃないのか。
答えにならない俺の答えに、ヴェスさんは微笑んだ。
「そう、ですね。子供は、子供なんです」
意味が分からない。突然に謎かけをされても、こちらとしては戸惑うしかない。
「では、子供と大人では、何が違いますか?」
「子供は……未来を担う、成長途中の人間だ。大人とは違った、その……まだまだ、十分にものを知らないからこそ、自分を無邪気に信じていろんなことに挑戦できる、そんな大きな可能性のある世界を持った存在……って、ああもう、分からないよ、そんな難しいことは」
しまいには苦笑いでごまかすしかなかったが、ヴェスさんは、そんな俺を
ただ、すこし微笑んで、また中庭の先に視線を戻してから、続けた。
「大人はだれもが、子供のことを『小さな大人』だと思っています。成人の儀は十五歳でも、それよりずっと前から、大人と一緒に働いて。けれど力が弱いですから、報酬も減らされて……。特に体の小さい子は、煙突掃除に便利ですからひっぱりだこです。でも、十分な報酬をもらっている子は、まったくいないと言っていいでしょう」
……煙突掃除! そういえば、ここの子供の一人、ファルツヴァイが煙突掃除で気管支喘息のような病気になってしまったんだったか。
「子供は大人と同じことなどできないから、できることをさせる──それは分かります。子供ですから、不十分なところもあるでしょう。大人の基準に当てはめて『基準よりもできていない』から報酬を減らす──それも、仕方ないのかもしれません」
ヴェスさんの声は沈んでいた。
「ですが、『子供は大人の従属物』なのだから、大人より報酬が安くてよく、その上で大人の基準よりできない分を減らす、なんなら子供への報酬は大人が取り上げてもいい──そんなこと、あってはならないと思うのです」
なんだそのブラックな働かせ方。百歩譲って「子供の賃金は安く設定する」というのは年功序列だとしても、報酬を取り上げる? それっていったいどういうことなのだろう。
「煙突掃除などによくあるのです。働く場所を与える代わりに、報酬の何割かを取り上げる──そんな話が。でも、煙突掃除は、本当は子供を使うべき場所ではないと思うんです」
ヴェスさんの目が、どこか厳しく感じられる。
「煙突は狭いですから、体の小さな子供がよく使われます。大人では難しい場所でも、子供なら入り込みやすいですから。ですが、煙突は狭いうえに危険です。転落事故も多いですし、無理な態勢で動けなくなって、そのまま息がつまって死んでしまうこともあります」
……え?
ちょっとまってくれ、煙突掃除って、煙突の壁をこすってすすを落とす仕事じゃないのか? そりゃ喉や肺には悪い環境だろうけれど、動けなくなって死ぬって……!
「……ご存じないのですね、煙突掃除がどのようなものか」
ヴェスさんは、俺の手を取り、かまどの上にある煙突を指差した。
「ここを上るのです。この煙突は上までまっすぐ伸びていますからまだ簡単ですが、この煙突のなかを、自分の脚だけで上るんです。はだしの足の裏と膝を煙突の壁に押し付けて、すすを削り取りながら上る──それが、煙突掃除」
この煙突掃除というやつ、俺はすすが目やのどに入って辛いだろうな、くらいしか思っていなかった。実際そうだし、それによって集中力が切れて滑落死、というのもよくあるそうなのだが、最も恐ろしいのは、「詰まって動けなくなる」ことだった。
煙突の上り方は、はだしの足の裏を煙突の壁――背中側に押し付け、膝を腹側の壁に押し付ける。足の裏と膝で体重を支え、ガリガリと固まったすすを削り落としてゆくのだが、命綱なんていうものはない!
だから縦穴を上る際、足が滑っただけならそのまま滑り落ちていく! うまく引っかかればいいのだが、落下する体重を、はだしの足や指だけで、ごつごつしたレンガや石の煙突の壁を使って支えるなんて、間違いなく爪が剥がれ肉が削げ骨が砕ける地獄絵図となるだろう! 想像すらしたくない。
しかし、これは「楽に滑落できた」場合だ。
滑落時に膝が壁に引っかかったりしてしまうと、体を折り曲げるようにして詰まってしまうという。こうなったらもう、身動きが一切できなくなるのだそうだ。
あとはそのまま、無理な姿勢を強いられることによってか、降り落ちてくるすすによってか、いずれにしても、助けが間に合わなければ窒息死は免れないという。
ファルツヴァイは自分から率先して煙突掃除をしていたらしいが、なんという恐ろしい、過酷な仕事をしていたのだ! そして、そんな命の危険にさらされながら行う仕事だというのに、「子供の仕事」であるため、危険度と収入の額とを天秤にかけて考えれば、最低を極めるほど賃金が安いのだとか。
煙突掃除って、すすを落とせばそれで終わりだと思っていた。多少目に入ったりするのを我慢するだけ──そんなことを考えていた。
……現実は非情だった。
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【煙突掃除人について】※近況ノートの解説へ
https://kakuyomu.jp/users/kitunetuki_youran/news/16817330649553332234
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「それでも、ごみ拾いに比べれば実入りはよいですし、貴重な現金収入になりますから、貧しい家の子供が使われることもあります。……でも、多くは孤児が使われるんです。それが、現実です」
ヴェスさんは、物憂げな目で、じっと中庭の向こうの赤ん坊部屋を見つめていた。
「この孤児院は、宗教的な理由なのでしょうが、人の善性に頼りすぎた、ずさんな経営状態です。ナリクァン様のてこ入れが終わってしまったら、また元の厳しい状態に戻るでしょう。今の状態が、子供が子供でいられる、最初で最後の機会かもしれませんね」
「なんとかならないのか?」
「なんともならないから、私たちが派遣されたのではありませんか?」
……確かに、そうなのかもしれない。でも、それじゃ、子供たちは……。
頭を抱える俺に、ヴェスさんが小さく笑った。
「不思議な人ですね。ムラタさん、あなたには関係のない話ではないのですか?」
「関係ない……そうかもしれないけど、でも関わってしまったんだ。放っておけるわけないだろう?」
「そうやって四方八方に手を広げても、できることとできないことがありますよ?」
「分かってる、分かってるんだ、それは。でも……」
その時だった。
窓の向こうで、リファルがコイシュナさんの手を握り飛び跳ねている。
ああ、あいつ。なんだ、デートの約束、取り付け成功したのか。
……チッ。運のいい奴め。
「あら。ムラタさんは、あの二人をくっつけるために、今日いらしたのではなかったのですか?」
「え? あ、……いや、玉砕したら笑ってやろうと」
俺の言葉に、ヴェスさんがくすくすと笑う。
「そんなことを言って。私の知っているムラタさんは、そんなひとではないと思うのですけれど?」
「……買いかぶりすぎですよ」
「いいえ? ここの子たち──赤ん坊部屋で働くことを選んだ子たちが、心まっすぐに成長できるように、私に助言を下さったあなたが、ひとの──それも、身近なひとの不幸を
「だからそれは……」
ヴェスさんは、俺をまっすぐ見つめて、そして言った。
「あなたは、子供を、『子供』だと認めることができるひとです。それだけでも、街の方々とは違った感性を持ったひとだと思います」
「……つまり、変わったやつだと」
「ええ」
ヴェスさんは、また、ふわりと微笑んだ。
「とても変わった──とても、すてきなひと──」
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