第570話:生命の神秘とあふれる奇跡(1)

 瀧井さんから呼ばれたのは、リファルと「恩寵の家」を訪問した数日後のことだった。彼はふらりと現場にやって来て、クオーク親方としばらく談笑していたが、そのあと、クオーク親方の雷のような怒声で呼ばれたのだ。


「ムラタ、お前、やっぱり監督やめちまえ」


 そんなことを言われて驚く俺に、親方は面白くもなさそうに続けた。


「お前を監督として働かせようとしても、仕事のほうからおまえを引きずり出そうとやって来やがる。お前みてえなヤツなんざ監督失格だ、とっととどっか行っちまえ」


 投げやりな口調でそう言われてしまった。狼狽する俺の頭をげんこつでぶん殴ると、親方は何も言わずに現場に戻って行く。


「あいつは変わらんなあ」


 瀧井さんが実に愉快そうに笑う。


「ああやって、何人弟子が逃げ出したことか。お前さんがまだ逃げ出してないってことは、あのげんこつをまだそれほど食らってないってことか?」

「いえ、顔を合わせた日には、一日一回以上殴られています」

「なんだそれは。お前さん、まさか殴られるのが好きなのか?」


 ……どんな変態なんだそれは。

 瀧井さんは冗談だと笑いながら、「あいつも悪い奴じゃないんだがな」と付け加えた。


「ああ見えてもクオークの奴は照れ屋でな。まあ、愛情表現の一種だと受け止めてやってくれ」

「殴られ過ぎて、頭が変形しそうなんですけど?」

「なにを言っておる。そんな冒険者のようなヘルメットをかぶっていながら」




 道すがら、瀧井さんは満足げに言った。


「村田さんや、恐らくあんたの求めている結果が出そうだぞ」

「本当ですか! それはありがたいです!」


 寒天培地を作るところからのスタートだったはずなのに、もう結果が出せるなんて!


 感嘆する俺に、瀧井さんはからからと笑った。


「わしだって、これでも研究者の端くれだったからな。こういったことをするのは本当に何十年かぶりだったが、なかなか楽しかったぞ」

「すみません。完全に任せっきりにしていました」

「何を言う。やらせろと言い出したのはわしの方だ。家内にはちっとばかり嫌な顔をされたがな」


 そう言ってニヤリとする瀧井さんの顔は、まるでいたずらを仕込んだ少年のようだ。けれど、ペリシャさんに迷惑をかけてしまったなら申し訳ない。なにか包んだほうがいいかもしれない。


 ところが、瀧井さんはそんな俺の考えなど、お見通しだったらしい。俺の肩を叩いて笑った。


「何だその顔は。もし申し訳ないとでも思っているなら、今度一杯、飲みに行かんかね? それで手を打とうじゃないか」

「……それだけでは、とても」

「なに、気にするな。日本語・・・でこうして会話できるというのは、この世界ではなかなかできんことでな。お前さんと飲んで話ができる、それだけでも値千金というものだ」


 そう言ってもらえると、こちらとしてもやるしかないだろう!


「……わかりました! お付き合いいたしますよ。ぜひいつでも声かけてください。いや、私から声をかけさせてもらいますから、お手すきの日を教えていただければ」

「年寄りに大した予定なんぞない。お前さんが都合のいい時に声をかけてくれればそれでいい。楽しみにしているぞ?」

「はい、任せてください」




「女房は最近、外に出かけることが多くてな」


 そう言いながら、やっぱり建付けの悪いドアを蹴っ飛ばしながら開けた。


「少し散らかっているが、気にせんでくれ」


 すすめられるままに瀧井さんの家に入ると、なんとも言えないニオイが鼻をついた。

 うん、一言で言って、実にカビ臭い。


「はっはっは。大学の頃の研究室と違って、温かくしたければ窓辺に置いておくしかないからな」


 うん。これはかなり匂いがきつい。ペリシャさんは匂いに敏感な猫族人カーツェリングの女性だ。これはきっと辟易したに違いない。

 『最近は外に出ていることが多い』というのも仕方ないレベルだ。間違いなく瀧井さんに文句を言っているんだろうな。


「なあに、家内の小言など慣れっこだ。そもそもそういうわしを旦那に選んだ家内の愚痴なんぞ、怖くもなんともない」

「そんなこと、言ってしまっていいんですか?」

「おうともさ」


 瀧井さんはおどけてみせながら、皿をひとつ、手に取る。


「なにせ、あちらがわしに惚れておるんだからな」


 わっはっはと笑ってみせる瀧井さんだが、俺の提案のせいで平穏な家に波風を立ててしまったかもしれないと思うと、ちょっと申し訳なくなる。


「だから気にするなと言うておろうに。それよりも見なさい。この皿の中身を」

「どれどれ……うわぁ……! こ、これはすごいですね!」

「だろう? これなんかどうだ?」

「あっ……! これはまさか?」

「おう、よく分かるだろう?」


 俺も瀧井さんも、しばらく品評会に出す渾身の鉢植えでも選ぶかのように、あれこれ議論をした。ナリクァン夫人を動かすに足る、説得力を感じさせる「作品」はどれか。


 二人でじっくり吟味し、選り抜きの「作品」を決めると、最後に瀧井さんはこぎれいなふた付きの皿を持ってきた。なかを開けてみると、綺麗な寒天培地があるだけだ。


「これを使えば、よく分かるだろう。──早速行こうじゃないか。こいつで夫人を驚かせてやるといい」

「え? ……ええと、ナリクァン夫人を、ですか? それから、今すぐに?」

「当然だろう、他に誰を驚かせる? お前さんの考えの正しさを見せつけてやれ」


 いたずら小僧のような顔で、瀧井さんは笑ってみせたのだった。




「お久しぶり……というほどでもありませんね、ムラタさん。わたくしを納得させるものを準備できたと聞きましたが、ひと目会うだけでよいとは、どういうことですか?」

「はい。準備は整いました。ですがそれは、後日ご覧いただきたいと思います。今日は一つだけ、お願いがあって参ったのです」

「お願い……ですって?」




 ――それから五日間が経過し、やってきた六日目の朝。

 俺は、さらに極上レベルで楽しげに変わり果てた寒天培地を、瀧井さんの家で鞄に詰めていた。

 「妻のつとめですから」とついてきたリトリィが、毛を逆立てて飛びのいたくらいの素敵仕上げだ。カビを培養している、ということは一応伝えておいたのだが、ここまで愉快な状態になったものだとは想像していなかったらしい。鼻を押さえて涙目にすらなっていた。


「これを見せられる夫人は、災難だな」

「ご自身が証拠を見せろとおっしゃったんですから、本望なんじゃないですか?」


 瀧井さんは目を点にして、そして大爆笑した。


「お前さんも言うじゃないか、あの夫人相手に」

「目の前にいないから言えるんですよ」


 俺もつられて苦笑する。


「やれやれ。やっとこのカビ臭い皿の山ともおさらばできるのね?」


 ペリシャさんがうんざりした様子で、アルコールを浸した布巾で、俺たちが皿を回収した場所をふいていた。


「いくら世のため人のためとはいえ、自分の家をカビ臭くするはめになんて、思いませんでしたわ」


 布巾でマスクのように顔を覆っているペリシャさんに、なぜかリトリィが平謝りだ。どうも俺のせいだと思ったらしい。

 苦笑いしながら俺の名誉を回復してくれたペリシャさんの言葉に仰天したリトリィが、今度は涙目で俺を疑ったことを謝罪する。いや、怒ってないから、そんなに取り乱して泣かなくても。


「それにしても、不満を言いながらもわしのわがままに付き合ってくれたこと、感謝しているぞ」


 カオスなありさまの俺たちを見て笑いつつ言った瀧井さんは、ペリシャさんを抱き寄せて情熱的な口づけをする。


「……この歳になって、人前でこんな大胆なことをされるなんて」

「どうも近頃は、若いもんに当てられてな」


 そう言って、嗚咽が止まらないリトリィの頭をなでている俺のほうを見る瀧井さん。いや、俺をダシにされても困るんですが。


「ペリシャさん、どうもご無理を言って申し訳ありませんでした。苦情と補償請求は、証拠を求めたナリクァン夫人によろしくお願い致します」

「まあ! 本当に言うようになったわね」




 今回は前回のアポイントメントがあるため、全く待つことなくスムーズに部屋に通された。

 部屋の奥では、ナリクァン夫人が、いつもの黒服男を背後に従えてソファーに座っていた。


「今日は美味しいお茶が入手できましたの。かたいお話の前に、まずはいかが?」

「喜んで」


 ナリクァン夫人のことだから、どうせこれだって何かの仕込みだろうと思いつつ、あえていただくことにする。

 リトリィの耳がぴこぴこと揺れ、ソファーとのすき間で彼女の太くやわらかなしっぽがふぁさふぁさと揺れている。ああ、いい香りなんだろう。俺には「紅茶である」という事実以外、さっぱり分からないが。


「今日こそ、わたくしを納得させることができるものを見せてくださるのですね?」

「はい。今日はぜひそれをお目にかけたく」

「まあ、それは楽しみですこと」


 微笑むナリクァン夫人に、俺は、瀧井さんと目くばせし合い、そして笑う。


「ぜひ成果を、ご自身の目で確認ください」


 俺たちは、鞄から取り出したふた付きの皿を取り出した。


「まあ、綺麗な皿だこと」


 夫人が、興味深げに顔を近づける。


「ええ、中身も神秘的な芸術となっております。お楽しみください」


 俺たちは、ゆっくりとふたを取った。

 皿の中であふれかえる、生命の神秘が生み出す奇跡の芸術を、その目に焼き付けてもらうために。


 そして館に、世にも珍しいと思われる、ナリクァン夫人の悲鳴が響き渡った。

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