第571話:生命の神秘とあふれる奇跡(2)

「な、な、なんですかこれは!」


 皿を投げ捨てなかっただけでも、まだ理性があったとみるべきだろう。ナリクァン夫人は、絶叫に近い悲鳴を上げながら、生命が満ち溢れる培養皿を取り落とした。


「カビです」


 俺がふたつ目の皿の蓋を開けて差し出す。こちらはまた禍々しい黒カビの山で、ふかふかの胞子の塊がいい感じだ。だが、夫人はのけぞって「近づけないでちょうだい!」と叫んだ。


「そ、それを何とかする方法を見つけたから、今日、来たのではなかったのですか!」

「比較対象が必要だと思いましたので」

「だ、だからといって、こんな……!」

「いえ、私たちも、なんとか夫人を説得しなければと思いましたので」


 俺はあくまでも真面目くさった顔で答える。

 隣のリトリィは、耳をしおれさせて大変申し訳なさそうな顔をしているのが気になるんだけれども、夫人に対しては、とにかく誠意と真剣さで勝負だ。


「この皿の出来ばえには、孤児院の子供たちの未来がかかっていましたもので!」

「同朋が見も知らぬ子供たちのために私財をなげうって働いていると聞きましてな。ひと肌脱がせていただきました」


 俺の言葉を受けて、実に自然にアシストをくれる瀧井さん。ナイスですよ!


「瀧井さんは、まったくもって素晴らしい数々の作品を取り揃えてくださいました。こちらなど、さらなる傑作でして」

「もう結構!」


 俺が、さらに素晴らしいカビの塊アートを披露しようとすると、ナリクァン夫人は悲鳴を上げて拒絶した。


 こちらなど、キッチンから集めたカビたちによって、すんばらしく毒々しい錦絵もどきができていたというのに。これぞ生命の神秘という奴だろう!

 残念だ、こちらを先に見せたほうがよかったかもしれない。


 俺はがっかりして、でもやっぱり奇跡の極彩色を見せようとすると、「見せないでちょうだい!」と拒絶された。


 せっかく瀧井さんがこしらえた渾身の芸術が、肝心の依頼者からお披露目を拒まれるなんて。

 実にまったく残念極まりない。リトリィの方を見ると、彼女はやっぱり耳をしおれさせたまま、もうやめろと言わんばかりに首を振っていた。


 リトリィまでそういう扱いか。ううむ、仕方がない。ため息をついて片付けると、ナリクァン夫人がたまりかねたように口早に言った。


「それで、見せたいものとはなんですか! おぞましいカビの塊を見せに来ただけではないのでしょう⁉」

「そうですね、ではこちらなど」


 また皿を取り出した俺に、ナリクァン夫人は「なんの嫌がらせですかこれは!」と、とうとう立ち上がって逃げ出した。黒服に何かを言うと、黒服が懐から白い布を取り出す。


 ああ、例の布か。俺はよほど信用がないらしい。残念だ。

 だが、それを見て夫人が更に叫んだ。


「ちょっと! あのようなものを嬉々として見せつけてくるというのに、一点の曇りもないとはどういうことですか!」


 これには俺のほうが驚いた。こういうとき、ナリクァン夫人は、なぜか翻訳できない言葉をしゃべっていたからだ。

 俺が言葉を理解できているのに気づいていないのか、夫人はヒートアップしていく。


「あれで悪意もかたる気もないなんて! 底抜けのお人好しだとは思っていましたけれど、お人好しどころではないわ! 女心など微塵も理解せぬ研究馬鹿か、さもなくば生まれついての詐欺師だわ!」


 言ってしまってから、ナリクァンさん、黒服に何やらジェスチャーをされて、そしてしばらく固まっていた。

 

 そうか、ナリクァンさんが時々、翻訳首輪でも理解できない言葉をしゃべっているのは、やっぱり特別なしゃべり方をしているんだろう。今はたまたま感情的になって、日常語で言ってしまったのに違いない。


 それにしても、女心を微塵も理解しないとか生まれついての詐欺師とか、めちゃくちゃなこと言われた気がするけどどうなんだ。

 思わず隣のリトリィを見ると、なにやら目を閉じて何度も深くうなずいている。


 ……え? リトリィをして同じ評価なのか? それはさすがに凹む。いやマジで。


 ──コホン。


 夫人が咳払いをして、席に戻ってきた。


「……では、改めてお話し合いを始めましょうか?」

「アッハイ」


 能面のような微笑の迫力に、俺も引きつった笑顔で答えた。




 皿には半透明のベージュ色の寒天ゼリーのようなものがあり、そこにはあまり言いたくはないが、黒だの緑だの、様々なカビが生えている。

 俺が並べた皿に対して、最初は顔を背けていたナリクァン夫人だったが、説明を進めると徐々に見てくれるようになった。

 ハンカチで鼻を押さえてはいたけれど。


「……それで、つまりこの、カビが少ないものというのが……?」

「はい。説明いたしましたとおり、カビのもとを塗ったあとで、アルコール消毒したものです」

「これほどまでに変わるものなのですか?」

「そうですね。アルコールの使い方や、カビの種類にもよるとは思いますが」


 俺が示した皿には、もっさりとカビがたかっているものと、ぽつぽつとしかカビが生えていないもの、さまざまあるが、共通しているのは、その仕掛けだ。

 「もっさり」コースは好き放題に繁殖したもので、「ちんまり」コースは、事前にアルコール消毒したもの。そして「中途半端」コースは、途中でアルコール消毒をしたものだ。


「……なるほど、よく分かりました。確かに効果があるのですね?」

「ええ。ただし、同じアルコールでも、お酒ではあまり効果が望めません。むしろ、よくないこともあります」


 そう言って見せた皿は、それなりにカビが生えている。


「これはお酒をかけたものです」

「お酒も、酒精──アルコールが入っていますわよね? お酒は水よりも腐りにくいと聞きますが、これはどういうことですか?」

「お酒は、カビの栄養となるものが豊富に含まれています。アルコールは水よりも蒸発しやすいので、アルコールが抜けてしまえばあとはカビの栄養源になってしまうんですよ」

「まあ……」

「入っているアルコールの量も、カビを殺しきるほどではありません。ですから、お酒──特にビールやワインなどの醸造酒を撒いてしまうと、カビに栄養を与えるようなものなんです」


 これは瀧井さんから聞いた話だから、多分間違いない。お酒には一定の殺菌作用があるというけれど、それは一度お酒を加熱し、蒸発させ、アルコール成分を集めて作るブランデーやウォッカ、焼酎などの蒸留酒の話。

 醸造酒──ビールやワイン、日本酒などは、アルコール度数も低くて殺菌力も低いし、穀物や果物の栄養が豊富に残っているので、アルコールが飛んでしまえばあとはカビの温床となってしまうらしい。


『酒は余計な栄養分が多くてな』


 瀧井さんは、先日訪問した時に教えてくれた。


『並みの、特に醸造酒はアルコール消毒に使えない。傷を洗うことには使えるかもしれないが、それにしたってアルコール濃度が低いからあまり効果はないだろうな』


 カビ退治よりもまず先に、傷口を洗うという話。それは、彼がかつて大日本帝国軍人として、中国戦線で戦った人だったからだ。


『それでも、戦場で使えるアルコールといったら酒ぐらいしかないからな。使わざるを得なかった』


 瀧井さんはそう言って苦笑いしていた。戦場では贅沢なんて言ってられないもんな。もし使えそうなものがあるなら、なんでも使うしかないってことか。


『殺菌効果が低くても怪しくても、それでもそれに頼るしかなかったわけだ。そうさな、なんと言ったか……そうそう、黄酒ホァンチュウを現地民からもらって傷口にぶっかけた、なんてこともしたな』


 ま、わしの話なんてどうだっていい──そんなことを言っていたが、そういう話こそ聞きたいと思ってしまう。


「……とにかく、十分に高い濃度のアルコールを使えばカビを防ぐことができ、生えてしまったカビも、成長を止めることができると分かりました。そしてそのアルコールは、カビだけでなく、いろいろな病気のもとに対しても効くのですね?」

「はい。怪我の治療や出産のときなど、処置をする人の手をアルコールで洗えば、そのあとの感染症をかなり防ぐことができるはずです」

「それが一番聞きたかったことですわ」


 ナリクァン夫人が、ようやく柔和な笑みを見せる。どうやら、納得してくれたようだ。


「カビの塊を見せつけられた時は、どうしてくれようと思ったものでしたが」

「いえ、菌──カビや病気のもとというのは、どこにでもいるものですから。それに、アルコールを作り出すのもカビですよ? 私たちが普段慣れ親しんでいるお酒は、すべてカビが作り出したものです」


 それを聞いて、夫人は何とも言えない微妙な顔を作る。


「カビは確かに有害ですが、一方で、お酒を造ったり、発酵食品を作ったりと、私たちの生活には欠かせません。そういったカビの力こそ、まさに生命の神秘──いのちの力が持つ奇跡でしょうね。その力を借りて、私たちの生活は豊かになっているのですから」

「……なんだか、お酒を飲みたくなくなりましたわ」

「大丈夫です。チーズや発酵バターもカビの力を借りていますから。パンも、カビの仲間が膨らませていますよ? たかがカビ、されどカビですね」


 夫人、さらに渋い顔をする。


「……パンは、パン種の妖精が作るのではないのですか。わたくしは覚えておりますよ、タキイさん。二十年ほど前でしょうか、貴方が話してくれたことを」

「そのときには、そう話した方が、伝わりやすいと思ってな」


 瀧井さんがからからと笑う。


「実際によく伝わったし、それでこの街のパン作りはずいぶん楽になったろう?」

「カビでパンを作るなど、知りませんでしたし、いまも信じたくもありません」


 憮然とする夫人に、俺が話を引き継ぐ。


「すべては、加減次第です。私たちのご先祖様も、まさかパン種がカビだとかは思っていなかったでしょう。けれど、そういった生命の神秘的というか、奇跡のような力を発見してきたからこそですよ。ご先祖様には頭が上がりませんね」


 そして、この世界でもう一つ、大事な要素を忘れていたので、取ってつけたようではあったと思うが、付け足しておくことにする。


「あ~、それと、そういった小さな、けれど偉大な奇跡の力の発見のきっかけを下さったであろう、神様にも」

「……神を引き合いに出されるとはね。」


 夫人が「わたくしも、納得するしかないようですわね」と苦笑いする。ようやく、受け入れてくれたようだ。


「本当に、カビのもとも病気のもとも、そこら中にいますから。気づくかどうかに関わらず、私たちは、知らず知らずのうちに折り合いをつけて生きているんですよ。現に、私たちの手だって──」


 言いかけて、思い出した。


「はは……。ああ、そうだ、忘れるところでした」


 俺はナリクァン夫人に、先日渡した皿を返して欲しいと申し出た。


「あの皿ですか? 言われた通り、日当たりの良い窓辺に置いてあるはずですよ?」


 夫人の後ろで控えていた黒服が、ドアのそばに立っている女中さんに声を掛ける。

 女中さんは部屋を出て行き、数分後、ふた付き皿をいくつも持って戻って来た。


「あぶない、あぶない。これを忘れていましたよ」


 そう言って俺は、夫人に皿を渡した。


「あのとき、夫人の手形を取ると言って、手のひらを押し付けていただきましたよね?」

「……そう、でしたわね」

「で、アルコールで手を洗ってもらったあとで、別の皿に手のひらを押し付けてもらいましたよね?」

「……確かに、そうしましたわね」


 我が意得たり──俺は満面の笑顔で、夫人の手の上の皿のふたに手をかける。


「まさか……」

「これが結果です」


 ふたを開けた途端、夫人の絶叫が部屋に響き渡り、今度こそ俺は夫人に皿を叩きつけられたのだった。


 ──顔面に。

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