第572話:知は力なり、ゆえに
ナリクァン夫人の邸宅からの帰り道、俺は道を歩きながら、改めて瀧井さんに頭を下げた。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
「なに、ただの小遣い稼ぎだ。というより、若い者にたかるようで少々、申し訳なかったが」
「なにをおっしゃるんですか! あれだけの働きをしていただいて、それであんな、たった……!」
「小遣い稼ぎ──そう言っただろう?」
あれだけたくさんのふた付き小皿をそろえ、海がないこの街では貴重で高価なテングサを大量に購入して寒天培地を作り、孤児院「
それなのに。
「ですが、銀貨一枚だなんて!」
「わしも楽しかったからな」
そう言ってからからと笑う。
「いえ、楽しかったなんて言われても! 皿と寒天培地を作るお金だけでも、銀貨一枚では到底足りないでしょう⁉」
「さて、どうだったかな。
とぼけてみせる瀧井さんに、俺は絶句する。間違いなく銀貨一枚どころでない出費だったのだろう。
「だから気にするな。わしはじつに楽しかった。カビを育てている間──といっても、窓辺に積み上げておいただけだが、
菌類の研究を専門にしていたというわけではないようだ。だが──
『医学部の連中が面白そうなことをやっていてな。わしも一緒に混ぜてもらって遊んでいるうちに覚えたのだ。しまいには酒蔵の三男坊を引っ張り込んで、こっそり酒をつくって悪友どもと酒盛りをしたものだ』
先日、瀧井さんの家を訪問したとき、そう言って懐かしそうに小皿のカビの山を見せてくれた。今回の件は全くの偶然だったが、瀧井さんの過去に関わる仕事ができて、よかったと思う。
「そんなことよりもだ。お前さん、今回の件で、例の孤児院に手を入れることが改めて決まったのだろう? また、本業以外のところで忙しくなるぞ?」
言われて、思わず口ごもる。
そうだ、クオーク親方にまたどやされるぞ、これは。……まあ、今さらだけどな。
「それがだんなさまですから」
リトリィがすまして答える。
「こまっているかたに、頼まれもしないのに手をさしのべる──そんなだんなさまだからこそ、わたしたちたちはお支えするんです」
そのしっぽがぱたぱたと振れている。俺のために生きる──それを誇りに思ってくれているのが分かる。嬉しいが、その分、負担をかけているということでもあるんだよな。
「……ありがとう、リトリィ」
「いいえ? わたしは、あなたの妻ですから」
そう言って胸を張るリトリィに、目を細める瀧井さん。
「ムラタさんや。いつも言うようだが、こんな奥さんをつかまえたお前さんは果報者だぞ。大事にしてやりなされよ?」
ただ、カビはウチの家内と同じで苦手のようだったがな、と笑う瀧井さんに、リトリィが顔を赤くする。
「ニオイに敏感な獣人さんだ、致し方なかろう。誰にでも得意不得意、向き不向きがあるからな」
「……そうですね、まさかナリクァン夫人があれほど取り乱すとは思いませんでしたから」
最後にナリクァン夫人に見せた皿。
その中身──自分の手の形の通りに、ボコボコとカビのコロニーができていたのを見て絶叫したナリクァンさんは、そのまま俺の顔面に皿を投げつけてきたのだ。
もちろん、俺の顔は飛び散った寒天培地でベッタベタ。のみならず、隣のリトリィにも飛び散って、なんというか、地獄絵図だった。
周りの黒服やら女中さんやらが、珍しく慌てた様子で後始末に奔走してくれたのだが、当の夫人は一瞬だけ「やらかした!」というような顔をしたあと、平然と座ってお茶のおかわりを要求するのだから、さすがというかなんというか。
混乱する使用人たちに着替えやら湯やらの手配を指示して場を納めたものの、その後も一切謝罪をしなかった。これが、大商会を背負うリーダーというもののプライドなんだろうか。
ただ、俺からの要求に対して、もっともらしくいろいろ言っていたものの、ホイホイ呑んでくれたから、それが謝罪の代わりだったのだろう。
「今回、アルコールの蒸留と精製を担当したのはナリクァン商会と関係の深いところだったから、わしのわがままをいろいろ聞いてくれてな。まあ、頑張ってくれたよ。夫人も、なんだかんだ言いながら最初から協力してくれていたということだな」
お前さんの人徳だ、と笑う瀧井さんの言葉に、リトリィが「だってだんなさまですから」とすまして答えるが、しっぽがばっさばっさと大きく揺れているのを見ると、俺がナリクァン夫人に認められているっぽいのが、相当に嬉しいらしい。
……いや、それ、間違いなく買い被りだから。
「だが、これで街が──いや、世界が変わるかもしれんな」
「世界が変わる? どういうことですか?」
「なんだ、お前さん、その自覚はなかったのか?」
瀧井さんは、苦笑いを浮かべた。
「酒が怪我に対する消毒効果を持つというのは、わしでも知っておるし、経験上のこととして一部の人間も知っておる。だが、お前さんはそこに『病気を予防する』という意味の消毒を持ち込むんだぞ? これがどんな意味を持つか、分からんか?」
「……より多くの人が、助かる、ですか?」
「そんな簡単に済めばいいがな」
瀧井さんは少し、難しい顔をした。
「わしもアルコールの消毒効果は知っておる。これでも命をやり取りする最前線にいたからな、その恩恵にはずいぶん助けられた。ただ、それでも濃度七十五パーセント以上、という数値までは知らんかった。」
「……つまり?」
「お前さんは『怪我には酒が効く』という迷信ではなく、確実に消毒できるアルコールの濃度をこの世界に示して、そのアルコールで消毒という概念をこの世界に広めることになるんだ」
……それの何が問題なのかが分からない。
「ふむ。たしかに、夫人が興味を示していた
……ああ、瀧井さんの言いたいことが分かった。
命を救う技術なんだ、アルコール消毒は。
つまり、濃度七十五パーセント以上、九十パーセント未満のアルコールを、特定のギルドが管理し、「いのちを売る」特別品として、専売をもくろむ恐れがあるってことだな。
「やっと分かってくれたか。まあ、普通に考えれば間違いなくそうなるだろう。誰だって命が惜しい。
「それは……寡占状態をつくりだすということですか?」
「そうだ。死の危険を遠ざけるなら、多少高くても買うしかない、となればな。もちろん、これまでの迷信から、『確実に効く』対策になるのは喜ばしいことなんだが」
瀧井さんが、複雑な顔をする。
「それにしても、お前さん、この知識をどこへ手に入れた? 別に感染症対策の研究者ではなかったんだろう?」
「いや、雑学と言いますか……ちょっとばかり、世界的なパンデミックを引き起こした、ある感染症がありましてね」
「なんだ、それは? スペイン風邪がまた流行ったのか?」
スペイン風邪! 聞いたことがあるぞ、第一次世界大戦あたりだったっけ。野口英世のお母さんも確かそれで死んだとか聞いたことがある。
あれはインフルエンザだったと思うが、まあ似たようなものだろう。
「──まあ、そんなようなものです。その時にいろんな知識が広がりまして、例えばアルコールは濃度七十五パーセントから八十パーセントくらいがよく効くとか、マスクは感染症を広げないためのエチケットとして、全世界で広まりましたね」
「ほう……! 医者でなくとも、建築家でもそういった知識が簡単に手に入るような世界になったのかね、それは素晴らしいものだな」
瀧井さんは、ひどく感心した様子だった。うんうんうなずきながら、何度も感嘆の息を漏らす。
「象牙の塔に籠らなくとも、そういった知識が一般の人々に広がるというのは素晴らしいことだ。大学で学んだ農学を、一般の百姓に広める――まさにわしが目指していたことと同じだ。戦争が終わったあとの世界は、本当に豊かになったんだな」
感慨深げに大きなため息をひとつ。
「ムラタさんや。知識は力だ。うまく使えばお前さんのその力を、たくさんの人に広げることができれば、お前さんの望む幸せな世界というのも、きっと実現に近づくだろう。だが──」
瀧井さんの顔が、また、難しそうな顔に戻る。
「気をつけるといい。大きな力は災いを招く。力そのものが災いを招くというよりも、力に魅せられた人間が、その力を手に入れたいと分不相応に願うのだ。その時、お前さんは身の回りの者たちを守ることができるかどうか」
瀧井さんの言葉に、俺はぞっとする。
リトリィをさらった奴隷商人たちの組織の、報復のあの刃の感触を思い出す。
自分の腹を切り裂いた、あのうねる短剣の感触──!
「後ろ盾をよく吟味するといい。今のお前さんには、ナリクァン夫人という奇跡のように素晴らしい盾があるが、わしも夫人もご覧のとおりの歳だ。お前さんたちを長く支えていくことはできんだろう」
「いや、そんな……」
「いずれわしらにも迎えが来る。その時が来る前に、わしら以上に使える手を手に入れておくのは大事なことだぞ。忘れるなよ?」
優しくも厳しい顔で、瀧井さんは言った。
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