第8話:キッチンの天使(4/4)

 それなりに時間をかけたつもりで、結局あっというまに食いつくしてしまった皿を見つめながら、どんな言葉を掛けたら彼女が喜ぶのか、それだけを必死に考える。


 ──が、まったく、なにも、いい考えが浮かばない!

 いや、美味しかったと言えばいいに決まっているんだが、その一言の、そのあとだ。なんと続ければいいのか。

 ああもう、ちくしょう! せっかく彼女がこうして目の前にいるというのに!


「……ええと、リトリィ?」

 ためらいながら声をかけると、リトリィがわずかに顔を上げた。

 口元を覆ったまま。

 目がやや、赤い。


 ――赤い?

 ……俺、何かまずいことを言ったのだろうか。


「あ、ええと、美味しかった、よ。それでさ……」


 空の皿を渡す。


「おかわり、いいかな? それと――」


 つばを飲み込む。これを言って、嫌がられないか。27年の童貞力が、踏み出すことを恐れさせる。


 ……言え、今こそ言え!


 障害になりそうなクソ兄貴殿は、その兄貴分――フラフィーと、ソーセージの奪い合いをしている。


 言うなら今、今しかない!


「――リトリィはまだ、食べてないだろ? ……ここへ来てさ、一緒に食べないか?」


 言った。

 ――言ってしまった!

 女性を食事に誘う!

 俺の人生において片手で数えるほどしか挑戦したことがない、俺にとって果てしなく壁の高いミッション!

 

 俺の言葉に、リトリィの目が、これまでで一番大きく見開かれる。

 俺から両手で皿を受け取ると、皿と俺の顔を、何度も見比べる。

 口元がわずかに開き、何かを言おうとしてか、わずかに動くが、言葉はない。

 そしてやや目を伏せ――そらす。


 ……ああ、やっぱり。

 所詮年齢=いない歴。二十七年の熟成された自分の運命には抗えないか。


「――だめか、ごめん。まだ親方たちの世話しなきゃだめだよね」


 まあ……そんなもんだ。


 ここは軽いノリで終わらせる。お仕事だから仕方がない、そうこちらで言っておけば、リトリィも断る言葉に困らずに済むだろう。


 リトリィがほっとする表情など見たくない。彼女は天使なのだ。


 テーブルに向き直ると、皿の上に置かれた、蒸かした芋を手に取る。時間を稼ぎたくて、ゆっくりと割る。食べる気など起こらないが、これも彼女が作ったものだと思えば、食わずには置けない。


 視界の端に、彼女のエプロンの刺繍が映る。そういえば、彼女は刺繍ができるんだったか。このつる草の絡みついた上品な花の刺繍も、彼女が入れたのだろうか。


「……ムラタさん」


 ややあって、リトリィに名前を呼ばれた。

 お断りにしてはずいぶん長く感じた。皿の上の芋は、もう何分割かにされている。


「……なにかな?」


 安堵しているであろう、今の彼女の顔を見たくなくて、再び芋を割る。


「ムラタさん」


 だがもう一度呼ばれ、仕方なく、振り返る。


「なに、かな、リト――」


 返事に詰まった。


 目の前に、犬のようなリトリィの、顔。

 初めて、真正面から見たその顔に、一瞬、身を引きかける。


 引きかけて、必死でこらえる。


 彼女が、、視線をまっすぐ、のだ。


 ごくりと、硬いつばを飲み込み、彼女の言葉を待つ。

 ほんの一瞬の沈黙だったはずだが、俺にはそれが、何時間にも感じられた。


 そんな俺に彼女は、

 口元をほころばせ、

 目を細め、

 俺にさえわかる、

 満面の笑みを浮かべて、

 そして、言った。


「――喜んで、ご一緒させていただきますね」


 立ち上がるとくるりと裾をひるがえし――

 彼女はスキップするように、キッチンカウンターへと向かったのだった。



――――――――――

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