第7話:キッチンの天使(3/4)

 改めて、彼女をまじまじと見つめる。


 アイネは、彼女を原初のプリム・犬属人ドーグリングと呼んだ。

 しかし、この金の髪、金の体毛は、むしろ狐――フォックスリングとでもいうのか? ――を想像させる。

 狐でないということは、もしかしたら例えば狐のほうがもう少し面長であるとか、鼻梁びりょうが細いとか、そんな特徴の違いがあるのかもしれないが。


 瞳は、透き通るような青紫。

 親方たちは黒い瞳だから、やはり種族の違いが表れているのだろうか。


 よくよく、彼女は俺を見上げるようなポジションに立つ。おそらく、俺を客人ととらえ、見下ろすなどの粗相のないようにしているのだろう。


 だが、それはつまり、どうしても彼女を見下ろす形になってしまい、そのアングルから、昔、うちで飼っていたコリー犬を思い出してしまう。


 けれど、その首から下は、豊かな毛並みに覆われているとはいえ、間違いなく人間の、女性の体つきだ。シンプルな貫頭衣の上から羽織ったエプロンの下では、朝、不可抗力とはいえ目撃してしまった豊かな胸が、存在感を強烈に主張している。


 胸元の、周囲よりもやや長いふんわりとした白い毛を過ぎると、そこからは産毛のようになり、服やエプロンで隠れるあたりではほとんど体毛が無くなる。

 そしてブラジャーのようなものは身に着けていなかったはずだから、この豊かな胸は、自前の張りだけで形を保っていることになる。

 

 ――うん、仕事の関係上、鍛えられているのだろう。さっきも、あの重い水桶を片手で運んでいたしな。もし全身の毛を剃ったら、筋骨隆々とした肉体美が姿を現すのかもしれない。

 ……勝手に想像しておいてなんだが、一気に


 服も、前垂れのほうはただの一枚の布だったが、今見ると、背中側は腰から下が、真ん中にスリットが入っていて二枚に分かれているようだ。その真ん中から、彼女の尻尾が床に広がっている。


 ずんぐりとしたずんぐりとした狐のそれとは違って、毛足が長くしなやかで艶やか、尻尾の上面はやや黒っぽく、そして尖端と背面が白い。やはり、色を除けば昔うちにいたコリー犬を思い起こさせる。


 シンプルな貫頭衣だが、彼女の体毛に包まれた体と、そして尻尾の邪魔をしないためと考えれば納得がいく。


 いや、下はスカートでいいだろうとも思ったが、おそらくスカートであっても尻尾の動きを阻害するものは、彼女にとって好ましからざるものなのだろう。


 そもそもシャツも着ず、チョッキのような袖のない短い上着だけの半裸――下半身も褌のような、ズボンといっていいのかパンツ一丁と呼ぶべきなのか野生的過ぎるファッション――の野郎どもばかりの中で育ち、しかも自前の毛皮をまとっている彼女が、身を包むドレスを着る文化を、手に入れられるだろうか。


 そうすると、この貫頭衣も、おふくろさんとやらの頭を痛めた末の妥協の産物のようにも思えてくる。


 だが、「隠すからこその妙味」というか――


 質素ではあるが真っ白で、控えめながら美しい花の刺繍の入ったエプロンと、側面が丸見え――も丸見え――の貫頭衣の組み合わせからは、なんともいえぬ艶めかしさを感じてしまう。


 ――正直言えば、かなり。正面から見ると、素肌にそのままエプロンを身に着けているようにすら見えてしまうのだ。


 ひざまずいたまま、二つ目のサンドイッチを微笑みながら渡してくる彼女に、「天使だ」と表現したアイネの気持ちが、痛烈に理解できてしまう。


 そう、天使だ。

 ――天使


 いままで、こんなに素敵なを、俺は見たことがない。

 彼女いない歴27年の童貞には、強烈すぎる存在だ。この家を去ったあと、俺は、彼女以上に胸ときめく女性に、果たして出会えるのだろうか。


 ふと、困ったように彼女が目をそらす。そらしてはこちらを見て、見てはまた目をそらす。

 何かあったのだろうか?


「あ、あの、なにか、ご入用ですか? そんなに見つめられると、わたし――」


 ……しまった!

 ガン見もセクハラのうちだったか!


 あわてて目をそらし、いまだ手付かずだったスープに目をやる。

 さっき水を運んだ時、彼女はスープ鍋の前にいた。おそらく、かき混ぜていた中身がこれなのだろう。


 半透明なスープに、たっぷりのキャベツのような野菜と、芋と、豆と、そして申し訳程度の、ベーコン状の肉片。


 ポトフのようなものかとスプーンですくって啜ってみると、予想外の塩気と酸味。

 あ、これドイツ料理のアイントプフみたいなものか。野菜は、乳酸発酵させたザワークラウトみたいなものだな。酸味のあるスープっていうのはなじみがないけど、これはこれで悪くない。


「あの――お味は、どうですか?」


 サンドイッチの時には聞いてこなかった言葉。


『ムラタさんも、おいしいって言ってくれるかな』


 先の、キッチンで拾い聞きしてしまった言葉を思い出す。


 サンドイッチは、礼儀に沿わぬものだと言っていた。

 兄たちに手を出されぬように、あり合わせで作ったもの。


 もちろん、そのパンも挟んだ具材も、彼女が作ったものであることは明白だ。

 それでも、彼女が最初から意図してこしらえたものではないはずだ。


 しかし、このスープはちがう。


 彼女が時間をかけて作った、本物の「手料理」。

 彼女が、本当に俺に食べてほしかったのは、こちらなのだ。


 胸元で手を組み、じっとこちらを見つめてくるリトリィに、俺は、なんとか言葉を紡ぎ出す。


「……美味しいよ」


 その瞬間。

 彼女の目が、軽く見開かれた。

 口元がほころび、舌が少し現れる。

 尻尾が、ゆっくりと揺れる。


 ――よろこんで、くれた!

 俺の、言葉に……!


 続く言葉を必死に言葉を探す。

 言葉を尽くせ。

 美味しいなんて誰でもいえる。

 なぜ美味しいんだ。

 どこが美味しいんだ。

 言葉の貧困な食レポ芸人を笑っていたかつての自分、その笑いが今、自分に突き刺さる。


 こんなとき、なんて言えばいいんだ。

 言葉を探せ、彼女の期待に応えろ。

 なのに思いつかない。

 言葉がわいてこない。

 せっかく喜んでくれた彼女を、次の平凡な言葉で失望させたくない――!


 もう一口。

 ……もう一口。


 探す。

 言葉を探す。

 なぜ美味しいのか。

 どうして美味しいのか。

 どう説明したらいいのか。


 思い浮かばない。

 ――思い浮かばない!

 どう言えばいい、どう言えば喜んでくれる!?


「……ムラタさん?」


 小首をかしげ、ためらいがちに言葉を投げかけてきた彼女の方を向こうとして、芋がのどにつかえる。


「あ、ご、ごめんなさい、急に話しかけて! ――あ、水、水、これです!」


 むせた俺に、彼女が水差しから木のコップに水を注いで渡してくる。


 水を飲み干し、落ち着いて、

「いや、芋がのどにつかえて――」

 と言いかけて、気づく。


 難しいことを言う必要など、どこにあったのか。

 彼女は、別に料理に対する評論を求めているわけではないのだ。

 ただ、自分が思ったおいしさを、素直に伝えることができれば、それでいいのだ。

 そう考えるに至り、やっとの思いで気を落ち着かせると、もう一度、改めて一口、食べる。


 ほろりと口の中で崩れる芋。

 自分にとっては斬新な、酸味とうまみが溶け合ったスープ。

 塩味がベースだが、素材のうまみが十分に出ている。

 野菜も芯まで火が通り、柔らかくて、素朴なうまみが感じられる。


「……芋も柔らかくてほくほくだし、野菜の酸味も、俺は初めて食べる味だけど、嫌いじゃない」


 不安げにこちらをのぞき込んでいた彼女の目が再び見開かれ、その両手は口元を覆う。


「野菜は漬物なのかな? その……酸味と、ほかの具の――ええと、うまみが十分出てて、美味しいな」


 自分でも、なんと不器用な物言いなのかと思う。それに、伝えたいことはそんなことじゃないんだ。

 伝えたいことは――。


「――なんていうか、その……あったかい感じで美味しい。あ、温度じゃなくてさ。

 リトリィの、相手に美味しいって思ってもらいたいっていう気持ちが伝わるっていうか。心からあったまれる料理っていうか。

 ……俺は気に入ったよ、すごく。――ありがとう」


 何と言っていいか分からず、だから脈絡もなくまとまりもなく、ただ感想を並べるだけで、だから、本当に俺の、美味しかったという気持ち――感謝の気持ちが伝わったのか、分からない。


 彼女は口元に両手を当てたまま、うつむいてしまっていた。


 上から見下ろす関係上、表情が読めない――といっても、彼女の表情なんて、どう見たらどんな感情が読み取れるのか、よくわからないのだが――まま、彼女は沈黙を続ける。


 だめだ、こんなとき、どう続ければいい――どんな声をかければいいんだ。

 気まずくなり、とりあえず、スープを平らげることにする。

 ちらちらと彼女を見遣るが、ときどき肩が震える以外、動きがない。

 だが、その尻尾はゆらゆらと揺れ続けている。


 どうしよう。早く食べきればいいのか、それともゆっくり食べて時間を稼ぐべきなのか。


 こんなことすらもわからない。女にモテていた連中は、こんなとき、どうするのだろう。うちの事務所の、デキるがチャラい男たち――三洋や京瀬らは、どんな声をかけるのだろうか。


 そうこうしているうちに、皿は、あっという間に空になる。

 ああ、もう時間を使いつくした――どうしよう、どうすればいい!



――――――――――

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