第579話:たまにはけんかも

 今夜は薄曇り、月の光はぼんやりとしか届かない。そんな暗い寝室で、たっぷりと愛を確かめ合ったあとのけだるい時間を楽しんでいた時だった。


「ふふ、むきになるマイセルちゃんも可愛らしかったですよ?」


 しっぽを俺に預けてもふらせてくれながら、リトリィはマイセルの首筋にそっと舌を這わせた。

 可愛らしい悲鳴をあげたマイセルが、頬を膨らませる。


「だって……ムラタさんだって、いいよって言ってくれたから……」

「わたしも木苺は好きですけれど、あの量にはちょっとびっくりしてしまいました。でもみんなでパイやジャムを楽しめることになったんですから、お手柄ですね」

「でしょう? えへへ、だからお姉さま、大好きです!」


 そう言ってリトリィの胸に顔を埋めるマイセル。

 マイセルは楽しそうに自分のデートのことを話し、リトリィもそれを我が事のように楽しんでいるように見える。こうやって見ていると、二人は種族こそ違うものの、仲の良い姉妹そのものに見えるから不思議だ。


「ムラタさんは甘酸っぱいのが好きって言ってましたけど、おチビちゃんたちはどうかしら? やっぱり甘い方が好みかな?」

「じゃあ、甘めの甘酸っぱさになるように、一緒に混ぜる柑子こうじの実の加減にも気を付けながら作りましょうね」

「はい!」


 また、ぎゅーっと抱きしめあう二人。

 実際、二人がそれぞれの得意分野を生かして仲良くやっていてくれるのはとてもありがたいことだ。これからもずっとこんな関係が続くといいと思う。


「でも、マイセルちゃんも大胆ですね。池のお舟の上で、スカートをまくってお腹をさわらせてあげたんでしょう?」


 おう……さっき二人がしていた話だ。


「わたしなら喜んでさわっていただきますけど、マイセルちゃんは恥ずかしがり屋さんですから」

「だ、だってムラタさんが私をぎゅーって抱きしめるから、それでつい……」


 え? そうだったか?

 思わず記憶の糸を手繰るが、なんだか違った気がするぞ? むしろマイセルのほうから俺の上に……まあいいや。


「じゃあ今度、赤ちゃんがおなかをけったら、そのときはわたしにも教えてもらえますか?」

「はい! お姉さまも触ってあげてください!」

「お腹をけられると、どんな感じがするんですか?」


 リトリィに聞かれて、マイセルは首をかしげてみせたあと、「お腹の奥から、とん、と軽くたたかれる感じです!」と答えた。


「今はまだ、軽く小さく叩かれた感じですけど、お母さんの話だと私、産まれる前はお腹をどんどん蹴ってて、ときどき痛かったそうです」

「ふふ、マイセルちゃんは、お腹の中にいる時から元気な女の子だったんですね」

「そうかもしれません」


 二人でお腹を撫で合いながら、楽しそうに笑い合う。


「男の子と女の子、どっちがいいですか?」

「私は……どっちでも。男の子でも女の子でも、笑顔が可愛くて元気なら」

「マイセルちゃん自身がいつも笑顔ですから、きっと笑顔のかわいい子ですよ」


 笑顔の可愛い子、か。例の孤児院の赤ん坊たちも、泣き声、そして笑顔を見せるようになった。間違いなく、ヴェスさんが来てくれて余裕ができたおかげだろう。


 ヒッグスとニューとリノも、今ではみんな、年相応に可愛らしい笑顔をみせてくれる。誰にでも当てはまることかもしれないが、特に子供は笑顔が一番だ。


 そういえば、今日も見ることができた、三番大路広場のコーラス隊。あれもまた、笑顔の素敵な集団だよな。一糸乱れぬ動きをみせる姿といい、光り輝くような笑顔といい、子供の可能性と、教育のチカラってやつを感じさせる。


「そうですね。ムラタさんが言う通り、やっぱりあんなふうに、綺麗な声で歌える子たちすごいなって思います。笑顔も素敵でした。みんな、すごく綺麗な笑い方をするんですよね……」


 マイセルは言いながら、しかし顔を曇らせた。「確かに綺麗で素敵なんですけど、私は少し、違和感があって……」


 違和感? どういうことだろう。首をかしげる俺だが、リトリィは「マイセルちゃんの言いたいこと、わかる気がします」とうなずいてみせた。


「だんなさま、その……なにがわるいというわけじゃないんですけれど……。みんながみんな、あんな、すこしの狂いもなく礼をしたり、あいさつをしたり、笑顔になったり……。なんだか、こう、作りものっぽくて……」

「……作り物?」

「ごめんなさい。その、うまく言えないんですけれど……」


 リトリィの言いたいことはなんとなく分かった。あの集団の統一された動きに、人工的というか、不自然というか、とにかくそういったものを感じたんだろう。

 でも集団生活を営むなら、やっぱりある程度の規律は必要だろう。


 ──などと思ったが、よく考えたらこの世界には、そもそも集団生活を営む「学校」そのものが無いんだ。

 教育は親の手による躾とか字を教えるとかくらい。カネのあるところは家庭教師を雇うってのもあったか。あとは、親方による職人の技の継承。


 日本生まれの日本育ちな俺にとってはごく当たり前──といってもあのコーラス隊は特に磨かれていたけれど──の集団行動だが、そういった集団行動をする習慣がそもそもないのだ、この世界には。だからリトリィやマイセルたちは、違和感を覚えるのだろう。


「そういえば今日、ムラタさんがお仕事をしているところの子──ええと、リヒテルくんが好いている女の子……ええと、ヴァシィさんのこと、覚えていますか?」


 そう言って、マイセルが言いづらそうに目を伏せる。

 ヴァシィって、あのサファイアブルーの髪の女の子だな。帽子で寄付金を募っていた子だった。


「はい。あの子が最後にお別れする前、男の人が来て声をかけた時、なんというか……作り物めいた顔で笑ったことを、覚えていますか?」

「作り物めいた……顔で?」

「あのとき──『ありがとうございました』って笑ったときです。私、その顔がすごく気になって」


 あの背の曲がった男に呼ばれたときだな。妙に威圧的な奴だった。俺たちが引き留めるようなことをしたせいで、あとで折檻されたかもしれない。悪いことをした。


「それだけじゃないんです。あの歳で、あんなに顔の表情を一瞬でなんて。それだけ、あの子がに、|ってことじゃないですか?」

「状況に……慣れる?」


 マイセルの言葉に、徐々に、言い知れぬ不安が胸に広がってくる。


「はい。私の勘違いならいいんですけど……」


 マイセルは、それっきり口をつぐんでしまった。




 マイセルとのデートから数日。

 リトリィが不調──それも絶不調の朝を迎えた。心配するマイセルに対して気丈に振舞ってみせていたが、彼女の落ち込みようときたら深刻だった。

 理由は簡単、つまり生理が来てしまったってことだ。今度は、実に全く調


 結婚一周年。今度こそ彼女に赤ちゃんを──そう念じながらたっぷり愛し合ったつもりだったのだが、今回もうまくいかなかった。

 彼女も、その期待はあったのかもしれない。朝起きたら、お腹を押さえてさめざめと泣いていたリトリィ。それを見て俺が驚いたのはもちろんだが、マイセルもとても辛そうだった。


「あなた、ちゃんとお仕事に行ってください。わたしはだいじょうぶですから」


 リトリィが泣きはらした目で、無理矢理に笑顔を作って俺を送り出そうとする。

 俺はそのあまりにも哀しい笑顔を見て、今日一日をリトリィに寄り添うことに決めた。妻がこんなありさまで、行けるものか。


 『妻が生理で精神的に不安定なので休みます』──そんな理由で有給休暇願なんか提出したら、日本ではどうなっていただろうか。もちろんこの世界でだって同じような扱いをされるのかもしれないが、俺はリトリィを放っておけなかったんだ。


「……なあ、おっちゃん。ホントにおっちゃんが休んでもいいのか?」

「じゃあ俺も一緒に体調不良になろう。そうだな、適当に腹痛ということにしておいてくれ。ムラタの奴はなんか変なものを食ったみたいで、便所から出てきませんとかなんとか」


 ヒッグスに使いを頼んだら、彼は顔をしかめた。


「おっちゃん、それじゃリトリィ姉ちゃんが変なもの食わせたみたいじゃねえか。オレ、そんな理由、嫌だぞ」

「そっちかよ。じゃあ食い意地の張ったムラタが、傷んだ食材を勝手に食って腹を壊したとかでいい。とにかく、理由は何でもいいから、俺が体調不良で仕事できないということにしといてくれ」


 ヒッグスはまだ顔をしかめていたが、一応は納得したみたいで「わかった」とうなずいてくれた。やれやれだ。


「……じゃあ、おっちゃん。リトリィ姉ちゃんのこと、ホントにたのんだよ?」

「ああ、任せておけ」

「……おっちゃん、頼りないから不安なんだよな」


 ……おい、これでも一応、一家の主の端くれの木っ端くらいの自覚はあるんだぞ?


「そんなの、つまりゴミってことじゃねえか。おっちゃん、頼むぜ?」




「……わたしは、やっぱり、あなたの妻としてふさわしくないんです」


 みんながいなくなった家は、なんだかがらんとして、寂しい。


「そんなわけがないだろう? 俺の第一夫人はリトリィ、君しかいない」

「そんなわけ、ないじゃないですか」


 リトリィが、やつれた顔に生気のない笑顔を浮かべた。


「わたしは、あなたの仔を産めません。あなたのおよめさんになるなんて、やっぱりむりな話だったんです。あなたも、そう思っていたんでしょう?」


 リトリィの虚ろな微笑に、俺は背筋が凍り付いた。

 あの時の笑みだ。俺たちがまだ山にいたころ、彼女の心を傷つけた、あのときの。


「り、リトリィ。俺は、君こそが一番──」

「だったら、どうして、マイセルちゃんなんですか?」


 ぐさりと胸に突き刺さる言葉。


「どうしてですか? わたしが一番なら、どうしてわたしが山にいるあいだに、マイセルちゃんとなかよくできたんですか?」


 俺は言葉を継ぐことができなかった。

 リトリィは、あの、壊れたような微笑みを浮かべたまま──美しい、透き通るような青紫の瞳から涙をこぼしながら、淡々と続ける。


「そう、ですよね。わたしのようなケダモノなんかより、あの子のほうがずっとかわいいですし、若いですし、赤ちゃんもできました。それに、あなたにとって役に立つ、大工の娘さんです」


 自身を傷つけ続けるリトリィに、そうじゃないと声を掛けようとしているのに、かろうじて絞り出そうとした言葉が彼女を本当に救えるのか──その迷いで、言葉が続かなくなる。


「わたしなんて、さいしょからあなたにふさわしくなかったんです。仔も産めないのに、あなたのおよめさんになろうって思ったのが、そもそものまちがいで──」


「リトリィっ!」


 俺は彼女を抱きしめた。

 言葉が続かなかった、けれどそれ以上言わせたくなかった。


 けれど、リトリィは俺を振り払ったんだ。


「あなたを!」


 振り払って、そして、その壊れた微笑みを浮かべたまま──


「あなたを信じた、わたしがばかだったんです! あなたなら、わたしだけをずっと愛してくれる──そんな、ありもしないまぼろしを信じた、わたしが! ケダモノで仔も産めないくせに、ヒトのあなたがわたしだけを愛してくれる──そんなこと、世界がひっくりかえったってありえないって、わかっていたはずなのに!」


 悲痛に叫んだんだ。




 家の中は今、ぐっちゃぐちゃだ。

 彼女の自傷的な言葉を止めたくて、俺は彼女を何度も抱きしめようとし、そのたびに振り払われ投げ飛ばされ、しまいには分かってくれないリトリィに対する絶望と、そして怒りを覚えて、取っ組み合いの大げんかさ。


 もちろん、リトリィの力に俺がかなうはずもない。で、家の中はぐっちゃぐちゃというわけだ。


 で、今は終戦処理中。大暴れしたおかげで下腹部から内股まで真っ赤に染まってしまったリトリィを、強引に俺が洗っている。


 リトリィはさっきからずっと泣きながら、か細い声で「ごめんなさい」と繰り返している。俺の顔、腕、胸、背中──とにかくいろんなところがリトリィのつけたひっかき傷だらけなんだが、そのことをずっと謝っているのだ。


「たまにはけんかもいいもんだ」


 そう言いながら、彼女の体を洗う。

 血の汚れというのは、なかなか落ちにくい。まして経血。洗う端からじわじわとまた流れ出してくるから、なかなか綺麗にならない。


 でもこの血は、彼女の体が子供を作ろうとした準備の証なんだ。彼女の体は、俺の子供を迎え入れようとしてくれているんだ。

 だったら、半分は俺の責任。彼女が悪いわけじゃない。


 それよりも、彼女はずっと俺に不信感を抱いていたってこと、俺は理解すべきだったはずなのにやっぱりショックだったし、そして同時に申し訳なくてならなかった。


「……ちがうんです。わたしが、わたしがわるいんです。やきもちなんてやいているわたしが……」

「君が悪いんじゃない。君にしてみればとんでもない裏切りだったんだから」

「そんなこと、ないです……。あなたがきめたことを、わたしがうけいれられなかったのが……」


 堂々巡りを何回繰り返しただろう。


 自分だけを愛してほしい、けれど肝心の想い人はいろんな人に愛を振りまいて、しかも子供まで作ってしまった。

 自分を愛してもらいたいから、一生懸命、想い人が愛する他の人も愛そうと頑張ったし、実際にとても仲良くなれた。

 でも……それでも、やっぱり、自分だけのひとでいて欲しかった。それならまだ、ふたりで寄り添って生きていくことに、幸せを見いだせたはずだったから。


 リトリィはずっとそれを繰り返した。

 全部俺のせいだ。

 でも、いまさらマイセルやフェルミとの関係を壊すなんて、俺にはできなかった。

 ……そして、リトリィもそんなこと、望んでいなかった。


 望んではいなかったけれど、自分にはまた、子供が来てくれなかった。

 それが、どうしようもなく、悲しかったのだと、リトリィは繰り返した。


 その堂々巡りに終止符を打ったのは、やっぱり、体を重ねることだった。

 生理中はあまりよろしくないと思うんだけど、彼女がそれを望んだから。




「おっちゃん! なんだよこれ! 家ん中、ぐっちゃぐちゃじゃねえか!」


 そう叫んだヒッグスが、俺の顔を見て絶句した。

 愛の修復はできたけれど、片付けは間に合わなかった。

 当然、ひっかき傷だらけの俺の顔も、体裁なんて整えてられなかった。

 ……いいんだよ! たまにはこういうことも、愛のためには必要だってことだ!

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