第580話:幸せのありかは
「あなた、いってらっしゃいませ」
「ああ。……体調が悪かったら、無理しなくていいからな?」
「だいじょうぶです。──もう、だいじょうぶですから」
朝、リトリィにコートの襟を整えてもらった俺は、彼女の薄い唇に、自身の唇をそっと重ねてから玄関を出た。
「大丈夫」と言いながらも、名残惜しそうにいつまでも玄関で俺を見送り続けたリトリィ。けれど今日の彼女は、俺を送り出してくれた。昨日の俺は強引に家に居残ったが、今日のリトリィはついにそれをさせなかった。
夫を支える妻でありたい──それがリトリィのプライドだとするならば、夫を仕事に送り出すことが、今の彼女にできる精一杯なのだろう。だからこそ、俺はあえて笑顔で送り出された。
それにしても、昨日は本当に久しぶりの大乱闘だった。実を言えば、今も体のあちこちが痛い。彼女に付けられたひっかき傷はそのままだし、あちこちあざだって出てきている。
ただ、あれがけんかだったかというと、絶対に違う。自暴自棄になった彼女をいさめ、彼女への愛を語り続けた、あの時間。あれだって、互いの愛を確かめ合うために必要な時間だったと、幸せのありかを見つけるためだったと、胸を張って言える。
もしかしたら、これからもこういう日が来るのかもしれない。だが、彼女がどうしようもなく不安に駆られるというのなら、その不安を取り除けるまで、俺は彼女に寄り添おう。彼女からたくさんの愛と幸せをもらった俺だ、それくらい、いくらだって返してみせる。
「なんだ、ムラタ。奥さんとケンカしたのか。派手な顔になっちまって」
うるさいリファル。お前もいつかこうやって体を張るときが来るんだよ!
みてろよ、そのときは俺のほうが笑ってやるからな!
カビに汚染され尽くしたボロボロの漆喰を剥がし、アルコールで下地のレンガを消毒して、そして漆喰を塗り直す。
そうでない場所も、入念にアルコールを吹き付けて消毒していく。すぐに空間が気化したアルコールで満たされるため、一定の時間で換気、それが終われば作業再開。
この孤児院での工事が再開されてから、ずっと続けてきた作業だ。
塩素系の漂白剤と違ってカビの色は残り続けるから、効いているのかいないのか、よく分からない。だが、瀧井さんが実験で示してくれた通り、確かにアルコールはカビを撃退できるのだ。それを信じて、作業を進める。
「……なあムラタ。雨漏りの修繕は終わってんだ。ここまでする必要があるのか?」
「いいんだよリファル。せっかくナリクァン夫人が出資してくれているんだぞ? 他人のカネで飲む酒は美味いというし、今まで散々カビに悩まされてきたこの館にも、たっぷり
「……お前、度胸あるな?」
リファルと漆喰を剥がしながら、こんな馬鹿なやり取りをするのも、もうあと少しだ。途中でアルコールの生産が間に合わなくなり、作業が数日間、中断していたこともあったが、この現場にも終わりが見えてきている。
「ムラタさんよ。屋根裏の寝室、漆喰は塗り終わったぜ。今日の工程はこれで終わりだったよな?」
「ああ、ありがとう。すぐ確認に行きます。しかし今日は、ずいぶんと早いですね?」
「ここの子供かな、手伝ってくれるヤツらがいたんでね」
「あ、ムラタさん!」
「トリィネか。作業を手伝ってくれているのか?」
「……その……、ファルさんに、やめろって言ってください。ちょっといま、咳の発作が出かかっているっていうのに、ファルさんたら、『オレたちの部屋なんだからオレたちでやるべきだ』なんて言って……」
「トーリィは黙ってろ。余計なことを言うな」
むすっとしているファルツヴァイだが、その両手に持っている桶の中には
「偉いじゃないか、
「……別に。何もしてねぇよ」
そっぽを向くファルツヴァイに、トリィネが苦笑いを浮かべた。
「ファルさんって、すぐそんなこと言うんだから」
「……うるせえよ。オレは何もやってねえ、やってねえったらやってねえ」
「はいはい」
トリィネは苦笑しながらもファルツヴァイが左手に持っていた桶に手をかける。
「……おい、それはオレが──」
「ファルさんが二つ持っているなら、僕が一つ持つよ」
有無を言わさぬ笑顔で、トリィネは桶を取り上げるようにもつと、ファルツヴァイの左隣に並んだ。
「ほら、早く洗いに行こう。職人さんたちがきっと待ってるよ」
以前よりも、トリィネが妙に積極的に見える。以前はファルツヴァイに対して、あまり強くは言えていなかった気がするのだが。
「だって、ムラタさんが言ったんじゃないですか。僕にファルさんのこと、頼むぞって。僕がしっかりすれば、ファルさんももっと楽になるってことですよね。だから僕は、ファルさんのために頑張ることにしたんです」
「だから、オレはそんなこと頼んでねえって言ってんだろ」
ファルツヴァイが、隣のトリィネの頭を小突く。だが、トリィネはむしろ嬉しそうに「ファルさんは照れ性だから」と微笑んだ。
「でも、呼吸が少し変だから、意地を張らず早めに切り上げようって言ってるのに」
「意地なんか張ってねえ!」
「はいはい」
トリィネが頭を下げて、一階に降りていく。ファルツヴァイがその隣で何やら毒づきながら、しかし俺に向けて頭を下げてから、トリィネと一緒に降りていった。
「……なんかファルツヴァイのヤツ、トリィネにうまく躾されてねえか?」
「微笑ましいじゃないか。もうしばらくしたら、主従関係が逆転するかもしれないぞ?」
「それはねェな。たぶんトリィネが、後ろから笑顔で操るような立場になると見た」
「……さすがにそれはないんじゃないか?」
俺が苦笑すると、リファルは真顔で返した。
「お前、自分の姿を鏡で見てから言った方がいいぜ」
「俺の姿を、鏡で? どういうことだ?」
「自覚がねえのが笑いどころってか? まあいいや、お前自身は幸せそうだからそれでいいんだろ」
わけが分からない。確かに俺自身は幸せだが。
……まあ、俺のことはともかくとして、二人があのままいいコンビを結成し、よき友人として互いに助け合いながら共に生きていけたら、それがいいと思う。
たとえ親からの愛と幸は薄かったとしても、それだけが幸せのありかだとは限らない。この孤児院で見つけた縁を頼りに、幸せをつかむことができれば。
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