第581話:商機

 ナリクァン夫人に近況を報告するために夫人の屋敷を訪問すると、夫人は上機嫌で俺たちを出迎えてくれた。

 いっしょについてきてくれたのは、今回もリトリィ。彼女は基本的に静かに控えてくれているだけだが、リトリィがついてきてくれると、ナリクァン夫人がすこしだけ優しい気がする。


「……なるほど、工事は順調……資本を投入した成果は表れているわけですね」

「屋根の修繕は済んでいますから、今後、これまでのような雨水の侵入によるカビの被害が出ることは少ないでしょうが、長雨が続いた時などは分かりません。継続的に様子を見ることが必要でしょう。ただ──」


 壁紙を上に張るとか、漆喰を塗り重ねるとかではなく、カビの元となっていた漆喰そのものを剥がし、アルコール消毒をし、そのうえで漆喰を塗り重ねている。すぐにまたカビが生えてくる、などということは考えにくいだろう。

 ナリクァン夫人も、その点に関しては報告を受けて満足そうだった。


「わたくしといたしましては、あなたへの投資が今後の利益につながればよいのです。よい話を期待していますよ?」

「それはもう、抜かりなく」


 潤沢な資金を投入してもらったのだ、雨漏りの影響を受けていた部分は徹底的なアルコール消毒はもちろん、壁や床板のはりかえをガンガンした。ただ、どうしても目では見えない世界の話。カビの胞子はまだそこら中に残っているだろうし、もちろんカビの菌糸だって根絶しきれていないのは目に見えている。


 だからこそ、今後もこまめな清掃とアルコール消毒だ。ファルツヴァイのように気管支喘息を患っている子供が、孤児院の中には何人もいるらしい。アレルゲンのひとつであるカビが激減すれば、その子たちがより快適に過ごせるようになるだろう。


「そうそう、ひとつ、困ったことがありましてね?」


 この街で大きな影響力を持つナリクァン商会、その商会の実力者たる彼女が困っていることならば、きっと難問に違いない。それをわざわざ、部外者の俺に言うのだ。きっとろくでもないことに決まっている。

 思わず身構えた俺に、夫人は少し、困ったような顔で言った。


「このままだと、お酒が足りなくなるかもしれませんの」

「……は?」


 俺は、自分の目が点になったことを自覚した。酒が足りなくなるかもしれない? ナリクァン夫人秘蔵の酒蔵に、なにか問題でもあったのだろうか。

 そんなのんきなことを考えてしまったおれは、夫人の続けた言葉に絶句した。


「これまでは、酒蔵の古くなったお酒を流用していたらしいのですが、あなた方があんまりにもたくさん使うものですから、古いお酒の余りが、とうとうがなくなってしまいましてね? なにぶんにもわたくしの頼みですから、今はまだ聞いてはいただけるのですが……」


 言われてやっと気がついたんだ。

 アルコール度数を高めるためには、度数の低いお酒を繰り返し蒸留して、そこからアルコールを取り出さなければならない。


 たとえばアルコール度数三十パーセントの従来のお酒が百リットルあったとしよう。そこから濃度八十五パーセント程度の消毒用アルコールを清算しようとした場合、どんなに効率よく抽出できても、消毒用アルコールは三十リットル程度しか作れないということなのだ。

 ましてビールのような醸造酒は、もっとアルコール度数が低い。そこからアルコールを抽出するとなると、かなりの量の酒を使わなければならないということになる。


 俺の表情から何かを察したのだろう。リトリィが不安げに、「なにかこまったことがおありなのですか?」と聞いてきた。


「リトリィ、酒は何から作るか、知っているか?」

「……ええと、麦とか、果物とかから……ですよね?」


 その通り。肯定してみせると、リトリィは嬉しそうにうなずいた。

 本当なら頭やしっぽを盛大にもふもふしてやりたいところだが、夫人の見ている手前、我慢する。


 アルコールを生産する──それは、その分、穀物や果物を消費しているということなのだ。だから今後、消毒用アルコールを生産するためには、本来なら人が食べたり飲んだりしていたぶんの食べ物やお酒を、「食べることができないもの」に、それも大量に置き換えるということだ。


 健康のためにアルコールを生産する。

 しかしその分、確実に「食べ物」が失われるのだ。元の酒が麦酒でも葡萄酒でも。

 しかも農作物の生産量なんてすぐには変わらない。ゲームじゃないんだから、畑を作ったら今すぐ麦が最大量収穫できる、なんてことはないのだ。


 となると、いままで誰かが食べることができていた分の食料を、この世界から消滅させるということだ。

 それは、確実に誰かが飢えることになるということ。


 俺は、それを、リトリィに伝えた。

 彼女は俺の人生の、共同経営者だ。その彼女が知りたがっているようなら、きちんと事実を伝えるべきだろうから。


 リトリィも、その問題の深刻さに気付いたようだった。そもそもお酒の存在自体が、人の食べ物を「食べ物ではないもの」への加工である。まして消毒用アルコールは、そのような貴重な「酒」を、さらに生成し、味わいも香りもへったくれもない、ただのアルコールにしてしまうのだ。


 それは全くの想定外だった。だが、想定していなければならなかったはずのことだったはずだ。

 考えてみれば地球だって、バイオマスエタノール問題ってのがあったじゃないか!

 人間の食料のために作られた畑を、バイオマスエタノール用のサトウキビやトウモロコシの畑に転用した結果、人間や動物用の穀物、飼料が不足する問題!


「それで消毒用のアルコールは、あといかほど必要なのかしら?」


 問われて真剣に悩む。

 消毒用アルコールは、あればあるほどいい。

 けれど、こちらに転用すればするほど、酒は減る。


 俺自身はあまり飲まない人間だが、この街には、秋にオクトーバーフェストのような収穫祭があり、その時に大量の麦酒を消費する。

 その時に「消毒用アルコールを生産したせいで祭りができなくなりました」なんてことになったら、間違いなく消毒用アルコールの存在は疎まれるだろう。


「……すみません、生産力の限界については正直、考えておりませんでした。申し訳ありません」


 俺は素直に謝ることにした。


「飲用のお酒を飲食できないものに転用することの問題点について、配慮が不足していました。逆に伺います。あとどれほどまでなら、消毒用アルコールへの転用が可能ですか?」


 酒の生産は、すなわち食料の消費だ。消毒用アルコールの生産がこの街の人々の食糧事情に悪影響を及ぼすなら、ひとまず「今年は」計画の推進を断念しなければならないだろう。そのためにも、はっきりと聞いた方がいい──そう思ったのだが。


「……どういう意味かしら?」


 夫人が首をかしげた。

 で、よくよく聞いてみたら、話が真逆だった。


 夫人は、「増産についての目安」を知りたがっていたのだ。


「カビを防ぎ、病を防ぎ、産褥さんじょく熱も防ぐとなれば、かならず売り上げが見込めますもの。怪しげなおまじないと違ってね? だったら、先回りしてお酒の生産量を増やしておきたいというもの。そのためにも、今後必要になりそうな目安が知りたいのですよ」


 夫人によれば、麦酒が候補になりそうではあるが、そのための麦の仕入れ量について俺の見解が知りたいそうだ。

 とりあえず、継続的に必要になるのは間違いない、とだけ伝える。それを聞いて、夫人は満足そうにうなずいた。


「度数八十五などという高い濃度のアルコールですから、一度作ってしまえばそうそうに品質が悪くなることもないでしょうからね。あらたに倉庫を広げることも必要になるでしょう」

「は、はあ……そう、ですね」

「命にお金を惜しむ人は多くはないでしょうからね。これは大きな転換期、まさに絶好の商機。ムラタさん、あなたは本当に良いお話を持ってきてくださいました」

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