第582話:命を守る戦い

「……なんだって?」


 孤児院「恩寵おんちょうの家」での作業が、いよいよ終わろうとしていたある日のことだった。いつものようにリファルと恩寵の家を訪れると、転げるようにして飛び出してきた少年がいた。孤児院の少年の一人で、この春に十五になったばかりのハフナンだ。


「それは、本当なのかよ?」

「本当ですリファルさん! 転んでけがをしたなんて言ってるけど、あんなの、絶対に転んだ怪我なんかじゃない!」


 ハフナンに手を引っ張られながらリファルと共に屋根裏部屋に行くと、ベッドに横たわってうめいていたのは、たしかにリヒテルだった。トリィネがリヒテルの額に、水で濡らした手ぬぐいを乗せている。


「昨日、リヒテルは院長先生のお使いで、お手紙を持って出て行ったんです。でも、いつまで経っても帰ってこなくって。そしたら夕方に、あちこちひどいけがをして帰ってきて……!」


 ハフナンの話によると、服はあちこち破れて怪我やあざだらけ、おまけにずぶ濡れで、どう見ても末に用水路かどこかにようにしか見えないありさまだったという。


「でも、本人は転んだとしか言わなくって! お手紙をなくしてしまってごめんなさい、って繰り返すだけなんだ。朝からすごい熱で、怪我したところもひどく腫れてて、でもお医者さんを呼ぶお金なんてなくて……!」


 半泣きのハフナンに、辛そうな顔のトリィネ。俺はすぐさま屋根裏部屋を飛び出すと、院長室に駆け込んだ。だが、誰もいない。もしやと思って中庭に出ると、そこで畑を耕しているダムハイト院長がいた。


「院長先生! リヒテルが大怪我をして、いま熱を出しているっていうことはご存じですか⁉」

「……おはようございます、ムラタさん。ええ、存じております」

「だったら、なんで畑なんかで、こんな悠長な……!」


 俺は思わず食って掛かろうとし、後ろから追いついてきたリファルに「待て、落ち着けムラタ!」と羽交い絞めにされる。


「分かっておりますとも。分かってはおりますが、ではムラタさん。どうすればいいとおっしゃるのですか?」

「そんなもん、すぐに医者に診せて──」

「残念ながら、そのようなお金はありません。医者に診せるだけのお金などないのです。先日あなたにお支払いしたあのお金は、貴重な蓄えだったのですが……」


 ──あの、汚れた少額銅貨! たったあれっぽっちが、貴重な「蓄え」だって?

 言葉を継げずにいる俺に、院長は苦しげに顔を歪ませた。


「いえ、おかげで屋根が見違えるようにきれいになりました。雨が降っても、もう大丈夫でしょう。ですが、もはや我々には本当に余裕がないのです。あの子の命の残りは神のみぞ知ること。我々にできることは、もはや神の慈悲にすがって祈ることだけです」


 そう言って胸元で聖印を切る院長。


 ……そんな簡単に諦めていいのか?

 院の子供が、大けがをして──苦しんでいるってのに⁉


「……あの子は、自分で転んだ、としか言っておりません。みだりに他人を疑ってはなりません。人を疑う心は、神の愛と教えに背くものです」

「だったら巡回じゅんかい衛士えいし──せめて警吏けいりにでも伝えるべきだろう! 実際に子供が怪我をしているんだ、それで犯人をとっ捕まえて──!」

「彼が自分で転んだと言っている以上、人をみだりに疑ってはなりません」


 信じられないことに、ダムハイト院長はこの期に及んでもかたくなだった。


「それが、神に仕える私どもの生き方です」

「リヒテルはあんたの世話にはなっているだろうが、あんたと同じように神に仕えているわけじゃないだろう! 彼には彼の生き方が──」

「それは、我々の信仰心を試していらっしゃるのですかな?」


 ダムハイト院長は静かに言うと、再びくわを振るい始めた。もはや、議論の余地はない、と言いたげに。


「これ以上は、詮索は控えていただきたい。ここは、厳格な愛を説く、私たちのやしろ。神の愛の恩寵をいただく、神の羽休めの家。人を詮議せんぎする場でも、まして裁く場でもありません」

「院長! なに言ってるんだ、リヒテルは今も──!」

「おい、ムラタ! こっちにこい!」


 なおも食い下がろうとした俺を、リファルは引きずるようにして中庭を出た。


「ムラタ! 前にも言ったがな、坊さんに向かって論争しようとするんじゃねえ!」


 頭を叩かれた俺は、悔し紛れに床を踏み鳴らす。


「だがリファル! どう見たってあれは、暴行か何かを受けた怪我だろう! お前はあのままでいいと思ってるのか?」

「よくねえに決まってんだろ。だがな、リヒテルが自分で転んだとしか言ってないんだから、どうすることもできねえじゃねえか。第一、手掛かりがねえんだろ?」

「手掛かりなら、リヒテルに聞けば──」

「それよりも、まずリヒテルのケガをなんとかしなきゃならねえだろ」


 リファルが、ため息をつきながら続けた。


「リヒテルのケガだが、ムラタ。お前が撒き散らしてる『消毒用』のアルコールってやつ。アレ、カビだけじゃなくて病気にも効くって言ってたよな? ケガには効かないのか?」


 リファルの言葉に、はっとする。だが、怪我をしてから一晩も経過している。細菌が侵入しないように対処するのが消毒だ。彼の発熱は、おそらく彼の体内に入り込んでしまった細菌の仕業。消毒用アルコールに、体内に入り込んだ細菌を無力化する力は、ない。


 抗生物質さえあれば。だがそんな無い物ねだりをしてもしょうがない。

 どうすればいい? どうすれば──?


「さっきも言ったが、医者を呼ぼうなんて思うなよ。医者は本当にカネがかかるからな」

「じゃあ、どうしろって言うんだよ」

「床屋を呼んで瀉血しゃけつしてもらって、悪い血を外に捨てるくらいしか、手はないんじゃないのか?」


 瀉血しゃけつ⁉ 「古くて悪い血を捨てる」という迷信の元に行われていた、疑似医療じゃないか! たしかモーツァルトも、一説によれば瀉血しゃけつそのもので体調を崩して死んだとかいう話も聞いたことがあるぞ?


 体調を崩している人間の血液を抜いて捨てるなんて、そんな馬鹿なことを──と言いかけて、俺はあることに気がついた。


「リファル! とにかく、今はリヒテルについていてやってくれ! 俺はちょっとひとを呼んでくる!」

「ひと? おい、医者なんか呼んでもカネなんて払えねえぞ?」

「医者じゃない、リトリィだ!」


 嫁なんて連れてきて看病させたって変わらねえぞ、というリファルのあきれ声を無視して、俺は孤児院を飛び出した。


 行き場のない子供の受け皿となり、その楽園となるべき孤児院。

 だがその孤児院で今、大人の無理解から一人の少年が命の危機にさらされている。

 そのままになどしておけるか!


 孤児院を飛び出した俺は、一番門前広場にある貸し騎鳥屋に飛び込むと、すぐさま騎鳥シェーンを借りて走らせた。


 「幸せの鐘塔しょうとう」の現場で働く男たちの、昼の給食を担当しているリトリィ。彼女が働いているのは、この街の貴族にして幸せの鐘塔しょうとう修繕のスポンサーである、フェクトール公の屋敷だ。


 貴族の屋敷に平民が飛び込むなんて、普通はあり得ないだろう。だが俺は、当の貴族にけんかを売った張本人にして、当人を改心させた人間として、半分フリーパスみたいなもの。門番からも、鳥から降りることもなくパスされて、すぐさま屋敷に入れてもらえた。


 平服で厨房に飛び込んで来た俺にリトリィは驚いたが、俺の話をわずかに聞いただけであとのことを全部マイセルに任せて、すぐに俺と来てくれた。


「あなた、手綱たづなはわたしがにぎりますから、わたしのうしろに! 道案内をおねがいいたします!」


 そう言って、ひらりと騎鳥シェーンに飛び乗る彼女。本当に頼もしい嫁さんをもらったよ、俺は!




「本当に嫁さんなんか連れてきやがって。看病でもさせるつもりか?」


 リファルがあきれてみせたが、そんな理由でリトリィを連れてくるものか。

 彼女は四番大路が戦場になったとき、敵兵の脅しや性的接待の強要を突っぱねたうえ、家を守りつつも即席の野戦病院に仕立て上げ、そのクソ度胸で敵兵の治療に当たったっていう、凄まじい経験を持っているんだ。


 俺だって、奴隷商人絡みの恨みを買って毒塗りの短剣で殺されかけたとき、その傷の外科的治療に当たってくれたリトリィに救われてるんだ。

 リトリィは、俺の伝手つての中では最良にして最強のカードなんだよ!


 屋根裏部屋に飛び込んだリトリィは、その鼻で、すぐさまリヒテルの状態が良くないありさまであることを見抜いたようだった。


「あちこち膿んでいますね。とてもよくないです。だんなさま、よく切れる刃物をください。どなたか、お湯をたくさんわかして」


 てきぱきと、そこに居る連中に指示を出していく。


「それから、この子をおさえつける、ちからの強いひとを」

「押さえつける……?」

「傷を切り開いて、膿を絞り出します。とても痛いですから、きっとあばれます。それをおさえるひとです」


 ……そこから先は、正直言って思い出したくもない。

 麻酔なんて無いんだ。

 大人ふたり、プラス子供たちの力も借りて、俺たちは暴れるリヒテルを押さえ込むしかなかった。


 赤紫色に腫れあがった傷口に、リトリィが俺のために作ったナイフを、躊躇ちゅうちょなく突き立てる!

 粘つく膿の嫌な臭いとともに流れ出す血、リヒテルの苦悶の声。


 しかしリトリィは臆する様子を見せず、その傷口の周りを、まるで雑巾でもしぼるようにして血と膿を絞り出す。

 ほとばしるリヒテルの絶叫。


 コイシュナさんは、流れ出る赤い血と白い膿を、アルコールに浸して消毒した布巾で拭き取る。それがまた沁みるのだろう、雄たけびに似た、リヒテルの絶望的な叫びが部屋に響き渡る。

 俺なんか最初にあふれてきた血を見てすぐに胸が悪くなり、目をそらして必死に耐えていたというのに、コイシュナさんは目をそらすことなく血と膿をぬぐっていく。


 幸運というべきか、それともリヒテルにとっては不幸というべきか。

 ここには消毒用のアルコールが潤沢にあった。よって、切開して膿を絞り出したあと、傷口の消毒のため、アルコールを傷口にぶっかける。

 凄まじい悲鳴と跳ね上がる体を、俺たちが必死で押さえつけながらリヒテルの治療を続けた。


 あまりに悲痛な叫び声を聞いたためだろう、ダムハイト院長も駆け込んできて止めようとしたのだが、リトリィが毛を逆立て牙を剥いて唸り声をあげて、近づけようとしなかった。


「ほうっておけば腐ってしまうんですよ! そうしたら、その手前で切り落とさなければならないです! この子にとって痛いのと永遠になくなるのと、どっちがいいんですか!」


 ひるむ俺たちを、やめさせようとするダムハイト院長を、リトリィは厳しく叱咤して続行したんだ。


 地獄のようなその時間、二時間ぐらいだっただろうか。

 気がついた時には太陽が真上に近くなっていて、俺たちはすっかりへばっていた。

 血と膿で汚れた布が散乱し、ベッドの上には激痛のあまり、ついに気絶してしまったリヒテル。

 そして床の上で大の字になって転がっている俺たち。

 リトリィも、金色の美しい毛並みを真っ赤に染めていた。


「これでリヒテル君は良くなるのでしょうか……?」


 誰かの問いに、それを発したのが誰かも理解しないまま、「多分な……」としか答えられない俺。


「だいじょうぶです。この子、がんばりました。きっと良くなりますよ」


 俺に膝枕をしているリトリィが微笑む。今さっきまで、命を守るために戦い続けた戦士とは思えない、柔和な微笑み。


「……ひょっとして、俺の時もこんな感じだったのか?」

「あなたのときは、毒でよごれた血を洗いながらでしたから、もっともっとたいへんでしたよ?」


 俺の額の汗をぬぐいながら、彼女は続けた。


「泣いていてもうっかり内臓わたを傷つけても、あなたのいとしいひとは死にます、助けたければ腹をくくってナイフを手にしなさいって、ゴーティアス婦人におしかりをいただきながら」


 ぶっつけ本番の修羅場でスパルタ式のゴーティアスさん恐るべし。

 ……本当に、リトリィのおかげで俺は生きているんだな。


「あのときはゴーティアス婦人がいらっしゃって、そばでささえてくださっていましたから。あれがあったから、先日のいくさのときにも、けがの手当てができました。それにあのいくさの経験があったから、きょうもできました。みんなみんな、あなたのおかげです」


 さすがに疲労の色を隠せない様子だが、それでも微笑んでみせるリトリィ。


 ……何を言っているんだ。

 全部全部、君のおかげだ。

 俺は、君のおかげで……

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