第583話:深い愛をもつ「ひと」のわざ

 リヒテルの治療で、肉体的にも精神的にも疲労が限界を超えていた俺は、ほこりと血染めの布巾でカオスな床から立ち上がる気力もなく、リトリィの膝枕でまどろみかけていた。


 飯を食う気力どころか、疲れすぎて食欲もわかない。そんなありさまだった俺は、体を起こすのもおっくうだった。リトリィの膝枕で、このまま──そう思っていた時だった。


「みなさま、お疲れさまです。大したものは用意できませんが、せめてこちらを召し上がってください」


 なんと、ヴェスさんが気を利かせて鍋を屋根裏部屋まで運んできてくれたのだ。

 体を起こして中をのぞき込むと、葉野菜のみじん切りに、なにやら餅というか、団子というか、ワンタンというか──謎の不定形な白い塊がいくつも入っている。聞くと、小麦を練った団子のようなものだった。日本の郷土料理の「すいとん」みたいなものなのだろう。


 食欲なんてない、と思っていたのに、目の前に湯気を立てるスープがあるとなると途端に腹が減ってくるから、俺の腹も現金なものだ。


 ヴェスさんは俺の隣のリトリィを見て微笑むと、軽く一礼して「初めまして、あなたがリトリィ様ですね?」と挨拶をした。


「……だんなさま、こちらのかたは?」

「ああ、ナリクァン夫人のところで子守女中をしているヴェスさんだ。いまはこの孤児院の手伝いに来てくれている」

「ヴェストキーファと申します。ヴェスとお呼びください」


 ヴェスさんが、改めて腰を沈めて礼をしてみせる。


「素敵な旦那様ですね。私も大変お世話になっています。今後ともよしなに」

「……よろしくおねがいします」


 リトリィも合わせて礼をするが、彼女の目が妙に厳しい。

 そんなリトリィに、ヴェスさんがそっと唇に薬指を当てて滑らせてみせる。

 リトリィのしっぽが、途端に毛を逆立てた。


「……どうしたんだ、リトリィ」

「だんなさま、もうお手当ては終わりました。わたしにできることは終わりました。とてもつかれましたから、家まで送ってください。お願いします、いま、すぐに」


 そう言って、彼女は俺の手をつかむと、どこが疲れているのか、ずんずんと大股で部屋を出て行こうとする。


「あ……。リトリィさん……」


 今まで気づいていなかったが、声の主はダムハイト院長だった。壁にもたれかかるようにして、座っていたのだ。


「きたならしい、血のけがれたけだもの風情ふぜいが、出過ぎたまねをいたしました。もう二度とまいりません。ごきげんよう。さようなら」


 リトリィはダムハイト院長に、有無を言わせぬ調子でまくし立てて、俺を引きずって部屋を出て行く。


『汚らしい、血のけがれたケダモノ風情ふぜいが、出過ぎた真似をするんじゃない』


 ダムハイト院長がリトリィを止めようとしたときの言葉、そのままだった。

 よっぽど腹に据えかねていたのだろう。


 ……ヴェスさんのスープ、食いたかったんだけど……。


「わたしがすぐに食べさせてさしあげます。なんなら、リトリィごと召し上がってください。あなたは、わたしのだんなさまです。あなたのお好きなだけ、奥まで、たっぷりと味わってくださいな」




 結局、家までまっすぐ帰ったあと、俺に、ヴェスさんが作ったようなスープを振舞ったリトリィだが、妙に機嫌がよろしくないので聞いてみた。

 そして、目が点になった。


「俺が、ヴェスさんと、深い仲だって?」

「だって! だって、薬指で唇をなぞってました! あれは『夜のおんな』の指言葉で、『今夜お待ちしています』でしょう! わたし、知ってるんですから!」

「なんでそんなことを、リトリィが──」


 うっかり言いかけて、慌てて口を閉じる。

 彼女はストリートチルドレンとして、春を売っていた『姉』たちと共に少女時代を過ごしている。彼女自身はそうなる前に鍛冶師の義父おやじどのに拾われたが、そういう手練手管も学んできたということを、彼女自身が以前、教えてくれた。その一つなんだろう。


 だとしたら、逆に不思議だ。ヴェスさんがそういう仕草を、『そういう意味』と知って使ったのだろうか。なにせ、ナリクァン夫人が指名するほど、信頼しているであろう子守女中だぞ?


「そ、それは……!」


 リトリィはそのまま、答えられずに黙ってしまった。彼女をやり込めたいわけじゃないが、この前の変な思い込みとそれによるやきもちは、ちょっと勘弁してもらいたい。家族に愛の軽重を付けるつもりもないが、それでも俺にとってリトリィは最も特別な女性なのだから。


「……でも、でも、それでも……!」


 リトリィはついに涙目になってしまった。

 ……ああもう、本当に君ってやつは。

 瀧井さんが言っていた「愛が重い」っていうのを、ちょっと感じてしまう。

 でも、それだけ俺のことを愛してくれているっていうことでもあるんだよな。


「……おいで?」


 ぐすぐすと鼻を鳴らす彼女の手を引き、そのままソファーにもつれこむ。

 不安にさせてしまっているなら、不安を取り除いてやるしかない。俺がいかに彼女を愛しているか、それをたっぷり、奥に刻み込んで。




 翌日。どうしてもというので、リトリィを伴って孤児院に顔を出した。『二度と参りません』などと言ったのにどういう風の吹き回しかと思ったら、「昨日、失礼なことを言ってしまったので謝罪したい」とのことだった。


 ヴェスさんのことはどうしようかと思ったが、孤児院におけるヴェスさんの勤務体制は一日おきだから、昨日の今日で顔を合わせることはないはず。ちょうどいい機会だろう。


 さすがに孤児院の門の前では逡巡してみせたリトリィだが、俺の左わきにぴったりと張り付くようにして、なんとか一緒に中に入る。彼女のしっぽが俺のほうに絡んでくるのは、きっと不安でたまらないからだろう。


 彼女の腰に手を伸ばし、支えるようにして歩き出すと、すこしだけ潤ませた目を俺に向けて、そしてうつむき、けれどしっかりと俺の左腕を抱えるようにして、敷地内に踏み出してくれた。


 リファルは外庭で今日の作業の準備を始めていたから、一応顔だけみせて挨拶をしておく。リファルは俺の隣で身を固くしているリトリィを見て、一瞬ビクリと身をすくませたが、まあ、お互い様だ。


 例によってダムハイト院長は中庭で畑を耕していた。

 俺が顔を出すと、彼は額の汗をぬぐってから手を挙げて挨拶してみせ、そしてリトリィの方を見て一瞬背筋を伸ばした。深々と頭を下げると、こちらにやって来た。


「……昨日は、奥方にたいへん失礼なことを申し上げました」


 ダムハイト院長は、息をのむリトリィに対して、あらためて頭を下げてから謝罪と感謝の言葉を述べた。


「あなたを獣人族ベスティリングだと侮り、ひどい侮辱をしてしまったこと、お詫び申し上げます。にもかかわらず、あなたはうちの子供の怪我の手当てをして下さった。熱はまだ下がりきっておりませんが、昨日に比べてずいぶんと体調が良くなっているようです。あなたのおかげです、ありがとうございました」


 そして俺に向き直ると、また頭を下げた。


「失礼ながら、あのような荒っぽい治療は、従軍聖職者として私も見たことはあるが、予後はあまりよくないのが通例です。その日のうちに高熱を出し、傷口を腫らして膿を垂れ流して死んでいく兵を、私は幾人も見ました」


 彼は俺の手を握ると、すがるような目で俺を見上げた。


「それがどうです、今朝のリヒテルの、あの穏やかな顔。あれほど腫れていた怪我も、今朝には腫れが治まっていました。私は信じられない思いでした。まさに奥方の手に宿った神の奇跡です。奥方はお医者様だったのですか?」


 『坊さんと宗教論争するな』とは、リファルの言葉だ。言うべきかどうか迷ったが、俺はあえて言った。


「いいえ。妻は医者でもなんでもありません。愛の深い、いち女性にすぎません。これは神の奇跡ではなく、深い愛をもつわざです」

「ですが、あのような治療のあとで、あれほど穏やかな朝を迎えられるなどと──」


 驚くダムハイト院長に、俺はあえて、笑ってみせる。


「それこそが、私がこの孤児院で行ってきた『消毒』の効果ですよ」

「消毒……ですか?」

「ええ。妻の施術だけでは、確かに院長先生がおっしゃった通り、術後の熱病は避けられなかったでしょう。それを防いだのが、私がずっと施してきた『消毒』です。ナリクァン夫人と共同で開発した、命を救う鍵になるものです」


 そう。神の奇跡じゃない。

 リヒテルの快復が早かったならば、それはリトリィの手当てが適切だったことと、そして消毒が功を奏したに違いないのだ。

 リトリィのわざと、消毒用アルコールの蒸留を担当した蒸留酒メーカーのわざ──わざが噛み合った奇跡だ。


 強いて神の名を挙げると言うのなら、この巡り合わせを仕組んだ神の「わざ」というべきだろう。

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