第584話:楽園の虚像(1/8)
リヒテルの見舞いに行ったが、昨日のようにうなされている様子もなく、元気そうだった。さすがにあちらこちらが包帯でぐるぐる巻きだったが、それでも昨日よりずっと顔色もよかった。
とりあえず、リトリィの施術が確かだったことを受けてホッとすると同時に、リヒテルをこんな目に合わせた奴について、あらためて怒りが湧き起こってくる。
「リヒテル、ちょっといいか」
彼にこんな大怪我を負わせたうえ、感染症にかかるような場所に放り込んだ連中を特定し、裁きにかける必要がある。そうでなければ、この街に正義はないことになるじゃないか。
──と思ったのに、反対された。
「お前な、もう何度言ったか分かんねぇけどな? そうやって正義漢ぶってなんにでも首を突っ込みたがるクセ、いい加減に直さねぇと、死ぬぞ?」
「どうしてだ? あんな誠実な少年にあんな怪我を負わせたクソ野郎だぞ? 生かしておく方が街のためにならない」
「だから突然物騒なことを言うんじゃねえよ!」
そして、リファルの言う通り、リヒテルは「自分で転んだ」と主張した。
落ち着かない様子で。
でも、ボソッと漏れた一言が、俺にヒントをくれたんだ。
「……でなきゃ、あの子が──」
「……で、なんでオレまで駆り出されるんだ」
「友達だろ、親友だろ」
「オレはお前を友達なんて思ったことはねぇ」
「じゃあ職場の同僚だ」
「ヘッポコ大工未満が同僚ヅラすんじゃねぇ」
「なかなか厳しい評価」
「妥当な評価だろ、オレの迷惑を考えろって」
「でも来たお前に感謝」
「今夜お前が一杯おごるって約束したからだ」
「さすが、心の友よ!」
「何度も言うがな、お前なんざ友達じゃねえ」
三番街中央広場に、俺たちは来ていた。本当はマレットさんあたりに来てもらった方がよかったのかもしれないが、たまたま手が空いていたのがリファルだったのだ。さっきからずっと文句を言われている気がするが、こうして付き合ってくれるだけでもありがたい。
リヒテルは俺たちの問いに苦悶の表情を浮かべながら、ぽつりと、一つだけ話してくれた。彼が思いを寄せている少女──ヴァシィを守りたかったのだと。
『ぼ、僕は何も言っていないですから! 本当に、何も言ってないですから! そうですよね、ムラタさん!』
言葉を漏らしたあとで、秘密を漏らしていないのだということを必死に訴えるリヒテルに、俺は力強くうなずいてみせたものだ。
「……あ、あれですか? ムラタさんが言ってた、歌を歌う子供たちって」
ハフナンの言葉に噴水の方を見ると、確かにあのコーラス隊の子供たちが準備を始めているのが見えた。
「そうだハフナン。ほら、あの隅にいる、青い髪が綺麗な女の子がいるだろう?」
「あれが……ヴァシイとかいうヤツか? なんだ、ヒョロヒョロじゃねえか。リヒテルが惚れた相手っていうから、もっとおっぱいのでかい色っぽい姉ちゃんだと思ったのに」
「ふぁ、ファルさん、その言い方はどうかと思うよ?」
リヒテルの敵討ちだと言って一緒についてきてくれたのは、ハフナンとファルツヴァイ。「ファルさんが行くなら、ぼくも行くよ」というトリィネ。
そして──
『だんなさま、聞こえる?』
「ああ、聞こえる。リノの見ているものも、よく見えるよ」
俺の隣にはたった今、彼女の耳にはいささか派手な、銀色の耳飾りを付けたリノ。
大きな輪をいくつも重ねたような銀色の耳飾りで、輪の真ん中には、魔法陣のような不思議な模様をした、小さな丸い円盤が吊り下がっている。
そう、「遠耳の耳飾り」だ。送信側が見たもの、聞いたもの、肌に感じたことを、受信側に送ることで、感覚を共有するという
以前の戦いで使ったときよりも、さらに鮮明な音声と映像が送られてくることに驚きを感じる。距離が近いからだろうか? とはいっても、いまは俺のそばにいるから、見えるものの高さが違う程度だが。
『えへへ、だんなさまとボク、前よりもっと仲良しになったからかな?』
「そうかもしれないな」
無邪気で可愛らしい感想を口にしたリノの頭をくしゃくしゃと撫でると、俺自身が頭を乱暴に撫でられる感触が頭に伝わって来た。俺自身が子供のころに父にやられたような、粗雑で、でも嫌いではなかった感触。
急に俺の顔が目の前に大写しになる。リノが俺を見上げたのだ。うん、冴えないアラサー男は、右下からの斜め四十五度であおり見ても、冴えない男のままだな。
……いいんだよ、そんな俺を、俺の家族は好いてくれているんだから。
「……『子供遣い』の『子供遣い』たるところを久しぶりに見ますね」
リノを抱き上げた俺を、
その「子供遣い」ってあだ名、嬉しくないなあ。まるで俺が人身売買業者みたいじゃないか。
リヒテルは、あの一言を漏らして以来、遂に何も教えてくれなかった。だが、あいつが「あの子」と言うのなら、そして手紙を届けるお使いの道中に暴行されたというのなら、おそらくここで何かがあったのだろう。
三番街中央広場に現れる、
『……でなきゃ、あの子が──』
この言葉が指す意味は、リヒテルが口を閉ざす以上、分からなかった。だが、おそらくリヒテルはヴァシイに関わる何かを見聞きしたのだ。あんなひどい怪我を負うのだから、危険な連中と関わって。
だが、代わりと言ってはなんだが、門前街防衛戦で共に戦った
「自分が見たことはほんの一部ですから、それが全てではないのですがね」
ウカートはそう言って、その日あったことを教えてくれたのだ。
「青い髪というのは、たしかムラタ君のご家族の中にもいたと思いますけど、珍しいですからね。印象に残っているんですよ」
客を一組さばいたあと、ほくほくだったウカートは、広場の雑踏の奥から罵声を聞き取ったらしい。ウカートも
「そうしたら、さっきまで歌っていた子たちの中で、いつも寄付金を集めている女の子が、胸倉をつかまれているじゃないですか。どうしたのかと思いましてね」
罵声の内容は、寄付金の量が少ない、というようなものだったそうだ。お前は声と顔しか取り柄がないんだから、もっと色気で寄付をどうとかとも言っていたらしい。
あくまでも寄付金なんだから、量が少ないからといっても観客にもっと寄こせ、などとは言えないだろうに。まして色気を使え? なんて理不尽な。
ただ、ウカートはただの通りすがりであり、このあとすぐ客に声を掛けられて写真を撮るために広場に戻ってしまったそうだ。
その時に、すれ違ったのが──
「自分がのぞきこんでいた路地に飛び込むようにしたのが、見事な赤髪の少年でね。これも目立つ色でしたから、覚えているんですが」
──赤髪の少年!
背格好を改めて聞いてみて、すぐに分かった。
間違いなく、それはリヒテルだった。
「自分も、もう少し気を配っていればよかったですね……」
リヒテルがその後どうなるかをかいつまんで話すと、ウカートはややうつむいて、眼鏡を押し上げた。
ウカートと入れ違いになるようにすれ違ったリヒテル。彼は、少女が罵声を浴びせられていることに気づいて、おそらく仲裁か何かをしようとしたのだろう。
だが、それが相手の不興を買い、返り討ちに遭ったのではないだろうか。
「いや、何があったか、リヒテルは全く教えてくれなかったんだ。ウカートが教えてくれたことだけでも、いろいろ推察できる。ありがとう」
礼を言うと、ウカートは眼鏡のブリッジ──左右のレンズを繋ぐ中央部分に中指を当てて眼鏡を押し上げた。太陽の光を反射して、眼鏡が光る。
「推察ですか。……また、あの
「いや、買い被りはよしてくれよ」
「いえ、あのときの、まるで見てきたかのようにザステック大隊の崩壊を推測した君ですからね?」
君には何が見えているのか、自分は楽しみです──そう言って笑ったウカートに俺が首を振ったときだった。
「おい、ムラタ。見ろよ。歌唱隊ってやつらが並び終わったみたいだぞ?」
リファルの言葉を聞いて、噴水のほうに目を向ける。
ちょうど、
「……じゃあ、これから改めてみんなに頼みたいことがある」
「改めて言われなくてもわかってるって」
「ふぁ、ファルさん! ご、ごめんなさいムラタさん」
「いい、気にするな。頼りにしているぞ」
リファル。ファルツヴァイ、トリィネ、ハフナン。ウカート。そして、リノ。
全員の顔を見回して、俺は息を吸った。
今日は偵察だ。今日、何かを成すつもりはない。
しくじらなければそれでいい、しくじっても無事に帰れたらそれでいい。
「今日は本当のところを確かめるだけだから、そんなに深追いするつもりはない。リヒテルのことを思い出せ。各自、自分の安全を最優先に。なにかあっても、どうか自重してくれよ?」
三番街中央広場の噴水前での合唱。
見るのはこれが三度目か。何度聴いても、その透明感ある歌声は素晴らしい。内容は神の奇跡を賛美するもので、取り立てて面白みのあるものでもない。けれどその歌声は、じつに素晴らしい。
──リヒテルの件が無ければ、もっとよかったのに。
歌い終わったところで拍手をしながら、俺はこれからのことを考えて身震いする。
コーラス隊の少年少女たちの端から、少女たちが帽子を脱ぎ、それを器に寄付を求め始めた。この前見たときよりも声高に寄付を呼びかけ、そして寄付者に対して、というよりも周りに聞かせるように、寄付に対する感謝の口上を述べている。
幾人かの少女が、俺の前にやって来た。そのたびに俺は両の手のひらを空に向け、首を振りながら肩をすくめてみせる。
そして最後に、サファイアブルーの髪の少女──ヴァシィがやってきた。
『もっと色気で寄付を』──そんなことを強要されている様子だったと、ウカートは言った。
……ならば。
「寄付かい? そうだなあ……リファル、どうする?」
「ムラタ、この子なかなかの器量よしじゃねえか。なあ嬢ちゃん、アンタ、寄付が欲しいんだろ? 話によっちゃあ、考えてやらなくもねえぜ?」
う、そんな目で見ないでくれ。
嫌悪感と軽蔑と諦めとがぐちゃぐちゃに混ざったような、その目。
俺が財布から銀貨を取り出して、帽子に近づけそして、引っ込めてみせる。
少女が息をのむのが分かった。
「どうしようかな……話によっては、これくらい出してもいいんだけれど」
最低野郎だ──腹の底で自分自身の芝居に嫌悪しながら、銀貨をちらつかせてみせる。
「いいねえ。オレも混ぜてくれよ?」
リファルが、懐から銀貨を取り出してみせた。
少女の目が、大きく見開かれた。
俺はさらにもう一枚、銀貨を取り出してみせる。
少女は小さく、ため息をついた。
彼女は胸のリボンを緩め胸元をわずかに見せるようにして、笑顔を作ってみせた。
かつてリトリィが見せたような、虚ろな笑顔で。
「……よろしくおねがいいたします。神の慈愛を、お
──あぁあ!
嘘だろう!
嘘だと言ってくれ!
俺は叫びたかった、間違いであってほしかった!
ゲシュツァーさん、あなたは自分の経営する孤児院の少女が、その身を
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