第209話:みえないもの
「だから、けんか上等ですよ。けんかして、一緒に悩んで、一緒に泣いて。――それですっきりしたらまた、三人で仲良く生きていけばいいんです」
まっすぐペリシャさんを見て話すのはさすがに気恥ずかしくて、空を見上げながら話した俺に、ペリシャさんは、小さく笑った。
「そう言いきれてしまうあなたが、うらやましいですわ。わたくしなど、夫としょっちゅうけんかですから、けんかをしてもかまわないだなんて、とてもとても」
ペリシャさんが、鍋をかき回す。
スープの具が浮き上がり、そしてまた、沈んでゆく。
鍋の底にはまだ、結構な量の具が沈んでいるようだ。俺の立ち位置からでは、見えていなかっただけで。
「しょっちゅうけんかをして、そのたびに夫を家から叩き出して。あのひと、そんなとき、おとなしく家から出て行くんですよね」
――ああ、心当たりがある。
俺がマイセルの買い物に付き合っていた――彼女はたぶん、デートのつもりだっただろう――あのとき。
たしか、ペリシャさんは俺に説教を食らわすために、瀧井さんを家から叩き出したんだったか。
「ふふ……自分で叩き出しておきながら、いつも、あのひとが戻ってきてくれるまで、やきもきして待つ自分がおかしくて」
夫には内緒ですわよ?
そう言って笑ってみせるペリシャさんだが、きっと瀧井さんも、そこは分かっているはずだ。なんといっても瀧井さんは、ペリシャさんが幼いころから、ずっとそばで暮らしてきたのだから。
「そんなとき、あのひとは決まって、なにか食べ物を買って戻ってくるのですよ。馬鹿の一つ覚えみたいに、幼かったころの私の機嫌を取る、そのやり方で。ずっと」
ペリシャさんは、薄汚れた服を身にまとった男性に、笑顔と共にスープを渡す。
スープから立ち上る湯気に、男性は、すこし、頬を緩めた。
俺も、ドライフルーツを入れた紙袋を手渡す。
聞こえるか聞こえないか、そんなかすれた声で、しかしたしかに男性は、「ありがとう」と言って紙袋を受け取り、庭に設けたベンチに腰掛けると、スープをすすりはじめた。
「リトリィさんを、大切にしてあげてね? あの
――え? リトリィが?
思わず、リトリィたちの方を見る。
穏やかに微笑むリトリィは、とても大人びていて、笑顔で焼き菓子にかぶりついている隣のマイセルの、姉――ともすれば母のようにすら見える。
「彼女が、――おさなご?」
「心の奥にしまっているものは、見ようと思ってもなかなか見えないものですし、もちろん見せないものですよ?」
ペリシャさんが、再び鍋をかき回す。
並んだ男性が差し出した器に、スープをよそう。
意外に具がたっぷり入ったスープは、まだまだ十分に温かそうだ。立ち上る湯気に、受け取る男性も顔がほころぶ。
「見せてしまうと、変わってしまうかもしれませんからね。関係が」
「リトリィが、俺に、隠していることがまだあるってことですか?」
「あら、じゃああなたは、心の全てを、あの子にさらけ出したの?」
問われて、口ごもる。
心の全てをさらけ出したかどうか――残念だけど、違う、としか答えられない。
目をそらした俺に、ペリシャさんは「いいのですよ、それで」と笑ってみせた。
「たとえ終生の愛を誓った夫婦といえど、それでいいのです。お互い、分からないところがあるからこそ、そこを埋めようとして、互いに努力できるのですから。
――ですから、女の秘密を、必要以上に暴こうと思わないことね」
「……はい。肝に銘じます」
すべてを理解しろ、すべてをさらけ出せと言われるかと思ったら。
ただ、それが俺よりもずっと苦労してきたであろうベテラン夫婦の出した結論なのだとしたら、きっとそれでいいんだろう。
「あの子はきっと、問われたら答えるでしょう。なにせ、あの素直さですからね。たとえ答えたくないことであったとしても、言葉を選んででも、なんとか、あなたの問いかけに答えるでしょうね。
でも、すべてを知ることが、必ずしも幸せにつながるとは限らない――それを、理解しておいた方がいいですよ?」
……どういう意味だろう。それではまるで、リトリィに、俺にも明かせない秘密を抱えているような言い方じゃないか。
俺にだけは、どんな秘密も隠し事もしたくない――そう言ってくれた、あのリトリィが。
「俺が彼女の真実を知ったら、彼女を嫌いになることがあるかもしれないと、そう言いたいのですか?」
「嫌いになるかどうかはわかりませんが、少なくとも、不快な思いや、疑いの目を、一生抱えていくかもしれない、そんな真実を見出してしまうかもしれないと言っているのです」
――勘弁してくれ。
そんなこと言われたら、余計に気になるじゃないか。
リトリィに疑いの目を向ける?
そんなこと考えたくもないが、しかし……。
「さきほど申し上げましたが、女の秘密を、過度に秘密を暴き立てようなど思わないことですよ?」
……いや、ペリシャさん! ペリシャさんがそんなこと言わなきゃ、俺はなんにも気にせずこの先を生きていけたと思いますよ!?
あなたがそんなことを言うから、めちゃくちゃ気になり始めたじゃないですか!!
悶絶したくなるこの葛藤を知ってか知らずか、ペリシャさんは腰に手を当て、体をそらしてみせた。
「さて、と。そろそろ腰が痛くなってきたわね。――リトリィさん?」
こちらを振り返ったリトリィに、ペリシャさんが手を振ってみせる。
俺の方にちらりと目配せして。
「そろそろ代わっていただけないかしら。いつまで年寄りを働かせるおつもり? ほら、マイセルさんも」
「……次はいらっしゃいますよ」
リトリィの言葉に、だが、胸は晴れない。
俺は、ついに渡すことができなかった紙袋を見る。
『おやつのおじちゃん』
あの、
あの貧しそうな身なりの獣人の
「……そうだろうか。あの子は、次も必ず来ると言ったんだ」
「考えすぎですよ。あちらにも、あちらのご都合があるのですし」
「……まあ、そうなんだけどさ」
『おやつのおじちゃん、ありがとう』
ドライフルーツがたっぷり詰まった紙袋を嬉しそうに胸に抱いて、母親と手をつないで帰ってゆく後ろ姿。俺はその姿に、いずれ俺の元に来てくれるであろう我が子の姿を重ねていた。
……直接渡してやりたくて、休憩も取らずに、配給をして待っていたのに。
――相手にも、都合がある。
リトリィの言うとおりだと、俺は頭を振る。
少なくとも、俺がここに立つようになってから毎回来ていた
ただそれだけなんだ。
ただそれだけなのに、妙に胸騒ぎがする。
簡単には見えない、けれど大事なことを見落としている――そんな気がして。
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