第五部 異世界建築士と子供たちの楽園

第474話:もうすぐ命の萌えいずる春

 街を守るあの戦いが終わってから、はや数カ月。春はもうすぐそこだ。

 結婚してからもうすぐ一年。シェクラの花が、我が家でも再び花開こうとしているのが、ふくらんできたつぼみから分かる。


 いろいろと激動の一年だった。けれど、どうにかこうにかやってこれたのは、たくさんの人々の協力と、妻として支えてくれたリトリィとマイセルのおかげだ。

 日本と比べれば、この世界は不便なことは確かに多い。ただそのぶん、支えてくれる人々の顔が見えるこの街も、悪くないと今は思える。


「だんなさま! この家のシェクラの木って、花、たくさん咲く?」


 リノが、俺の朝のルーティン――ラジオ体操+簡単な筋トレ――に付き合った後の水浴びの水を肌から滴らせながら、木を指差した。朝日を浴びて、その白い裸体にまとう雫がきらきらと輝く。頭の上に飛び出る三角の耳と、お尻から伸びるしっぽ――リトリィのボリュームあるふかふかのしっぽと違って、猫のように長くしなやかなしっぽだ――が、共にぴこぴこと揺れているのが実に愛らしい。


「……そうだな。たくさん咲くぞ?」

「じゃあ、じゃあ、実もいっぱい付いたりする?」

「そうだな。なんだ、シェクラの実が好きなのか?」

「うん!」


 大きくうなずく姿に、俺は思わず笑ってしまった。が、理由を聞いて暗澹とした気持ちになる。


「酸っぱくてシブくて別においしくないけど、少しは腹、ふくれるから」


 ……そうだ。

 ストリートチルドレンとして、明日どころか今日の食事もありつけるかどうか分からない環境で生きてきた彼女に、「食える」以外の価値が必要だったはずがない。美味かろうが不味かろうが、腹を満たすことが何よりも優先されてきたはずなのだから。


 俺は胸にこみ上げてくるものをごまかすために、彼女を抱き上げた。


「んう?」

「……そう、だな。でも喜べ、今年は美味しい食べ方ができるぞ?」


 首をかしげるリノに、精一杯の笑顔を向けてやる。


「マイセルに頼むといい。きっとシェクラの実で、美味しいパイを焼いてくれるぞ?」

「パイ⁉ ボク、シェクラの実のパイなんて食べたことない!」

「マイセルはお菓子作りが得意だろう? いっぱい食べていっぱい働いて、いい子にした上でおねだりすれば、きっと特別に美味しいのを作ってくれるぞ」


 頭を撫でながら言うと、リノは目を輝かせた。


「ほんと⁉ じゃあボク、いい子にする! いっぱい食べて、いっぱい働いて、早くだんなさまのお嫁さんになれるようにする! そしたらマイセル姉ちゃん、おいしいの作ってくれる?」

「……そうだな。もちろんだ」


 パイを目当てにいい子になってもらうというのは、手段と目的が逆になっている気がするが、まあいい。彼女の今後の暮らしに張り合いが追加されるなら。


「おはようございます。今朝も元気がいいことですなあ」


 いつもこの時間に散歩している近所の爺さんが、いつもの挨拶をしてくる。

 リノは俺の腕から飛び降りると、すっぽんぽんのまま、元気に手を振って挨拶をした。


「おはよーございます! ボク、今日も元気だよ! おじいちゃんも元気?」


 爺さんも、にこにこと目を細めて手を上げてくれた。ひじから上を上げて手のひらを見せる、この世界の挨拶だ。


「しかし、初めて見たころに比べて、ずいぶんとふっくらしてきましたな。お嬢ちゃんも、いい人に巡り会いんさった。このおいぼれにとっても、少々、目に毒なくらいですわい」


 そう言って爺さんは笑うと、帽子を目深にかぶり直すようにしてつばを直すしぐさをしてみせ、去っていった。帽子のつばを直すしぐさは、紳士流の「さようなら」という挨拶らしい。俺も改めて手を上げる。


 出会ったころ――あばら骨の浮く、干物のような体つきだったころはともかく、最近は年相応に健康的な肉づきになってきた。

 ……うん、すっぽんぽんで人に会っていい体じゃなくなってきてるかもしれない。てか、もうなってる、ような気がする。


 でも羞恥心ってのがかなり薄いんだよな、リノは。相変わらずパンツをはきたがらないくせにワンピースばかり着て、走ればしっぽを水平に持ち上げるからお尻は丸出し。そのうえ、飛んだり跳ねたりが大好きなおてんば娘ときたものだ。


「だんなさま!」


 元気に飛びついてきましたリノが、くりくりした目をキラキラさせて俺を見上げる。


「おじいちゃんが言ってた『目に毒』って、なに?」

「……リノが前よりずっと可愛くなったから、どこを見ればいいか迷って困るって意味だよ」


 苦笑いしながら頭をくしゃくしゃっと撫でると、リノはじつに嬉しそうに笑った。


「ほんと? ボク、可愛くなった? だんなさまも、ボクのことお嫁さんにしたくなった?」

「あー、はいはい。リノが――」

「おっきくなって、綺麗になって、賢くなって、元気なままで、お料理上手になって、ついでにおっぱいがでっかい女の子になったら、でしょ?」


 十代前半の少女にこんなことを言わせるような俺って、客観的には実に最低極まりない男に見えると思うんだ。特に最後。うん、実にヤバい。


「……だから、最後の条件は冗談だって。それも、ずいぶん前に一回しか言ったことないだろ?」

「でも、だんなさまが一番大好きなリトリィ姉ちゃんはおっぱいが一番でっかいし、マイセル姉ちゃんもフェルミ姉ちゃんも、お腹に赤ちゃんできてからおっぱいでっかくなってきたし。だからボクも、だんなさまが好きになってくれるカラダになりたい!」


 ……いや、俺がおっぱいの大きさだけで嫁さんを決めたみたいな、その言い方。

 やめてください、死んでしまいます(社会的に)。


「……リノがどう成長したって、心と体が健康なら、それでいいんだよ」

「やだ! ボク、だんなさまの大好きになりたいもん!」


 そう言ってしがみついてくるリノの頭をあらためて撫でてやると、俺は腰を落として目線を合わせた。


「そう言ってくれるリノの気持ちは嬉しいけどな? さ、いつまでも裸のままでいたら風邪をひく。服を着て朝ごはんを食べよう」

「……だんなさま、ひょっとして、ボクにごはんの話をしたら、ボクが話を忘れるって思ってない?」


 思いっきり図星で、一瞬言葉が出なくなる。

 ご飯を理由に微妙な話題をいろいろ打ち切ってきた、これまでの自分を思い返す。


 こういう時、下手にごまかさない方がいい。子供扱いをしてその場の口先だけで逃れようとすると、リノは実に敏感に察知するのだ。

 不機嫌になるだけならまだマシで、寂しげな笑顔で分かったような顔をされたときの胸の痛みは、なかなかクるものがある。

 だが、勘のいい子供は嫌いじゃない。対等な話ができる「いち人間」として、俺は正直に答えた。


「……ああ、ごめん。その気持ち、確かにあった。でもリノ。君のことを大切に思っていることは本当だぞ?」


 俺は彼女を抱き上げると、彼女の目をしっかりと見て続けた。


「俺が住んでいた日本ふるさとでは、体を壊し、心を病み、自分で命を絶つ人間が大勢いた。リノだって、俺と出会うまではその日暮らしで、将来の自分なんて、なかなか考えられなかっただろう?」


 神妙にうなずくリノの頬に、軽くキスをしてやる。


「だから、綺麗になってとか料理が上手くなってとか言ってるけど、本当はリノが、いまの天真爛漫なリノらしさを保ったまま一人前の女性になってくれたら、それでいいんだ」

「でも、でもボクは――」


 困惑したような顔をしてみせるリノに、俺はがんばって笑顔を返す。


「リノが将来、一人前の素敵な女性になって、もっとたくさんの素敵な男性の存在を知って、それでも俺がいいと言ってくれるなら、そのときは――」

「ボク、ずっとずーっと、だんなさまのこと、大好きだよ?」


 即座に満面の笑顔で返されてしがみつかれては、苦笑するしかない。

 まあ、なんだっていいんだ。リノ自身が幸せだと感じてくれるなら。




「だんなさま、リノちゃん。もうすぐ春だといっても、ちゃんと髪をふいてくださいな。お風邪を召したらたいへんです」


 リトリィに手ぬぐいを渡され、俺は苦笑しながらリノの頭に載せると、リノは嫌がって逃れようとした。しかし勝手知ったるマイセルに、あっさり阻まれる。


「リノちゃん? お姉さまの言うことが聞けない悪い子は、お嫁さんになれませんよ?」


 途端にリノが総毛立つ。頭からずり落ちそうになっていた手ぬぐいをつかんで、がしがしと頭を拭き始めた。


「だ、大丈夫! ボク、ちゃんといい子にするから!」


 何度も頭を見せて、もういいか、もういいかと確認をするリノに、マイセルは苦笑しながら「もう少し」を繰り返した。そんな様子に微笑みながら、俺の背中に回ったリトリィが、髪に手ぬぐいを載せて拭いてくれている。


 リトリィは、なんだかんだ理由をつけて俺の世話を焼きたがるから、リノの髪も、結局は俺の髪をいじるための理由付けに過ぎないのかもしれない。現に今も、俺の髪を拭きながら俺の背中でくんくん鼻を鳴らしてるの、ちゃんと俺、気づいているからな? 

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