第725話:悪夢を払う、子供の笑顔

 ごとごとと、徐々に馬車の揺れが大きくなってきていた。峠に向かう道は意外に幅が広く整備されているように思ったが、それでも道はやや荒れているようだ。


 御者台に上って、相変わらず外を見ながら楽しそうなのはリノ。巻き上げ窓から薄暗い森のほうを見ながら、不安そうにキョロキョロしているニュー。その肩を抱くようにして、ヒッグスが一緒に外を見つめている。

 マイセルとフェルミは、その近くで座る老夫婦と息を合わせるかのように、二人で肩を寄せ合うようにして一緒にうつらうつらとしていた。


 リトリィは定位置──俺の左隣でわずかに微笑みを浮かべて、大きなお腹をさすりながら、俺の肩に身を寄せるようにしている。


「……辛くはないか?」


 座っているだけだとはいえ、半日、こうして荷台のような場所で揺られていては辛かろう──そう思って聞くと、「だいじょうぶです、ほら」と言って、お尻の下に敷いている分厚いクッションを見せる。お産に使う、抱き枕みたいなものだ。なるほど、これならまだましかもしれない。


「長さには余裕もありますしだいじょうぶです。だんなさまも、いっしょにお使いになられますか?」

「いや、俺こそ大丈夫。リトリィが過ごしやすいように使えばいいよ」


 そう言うと、彼女はそっと頬にキスをしてきて、「お使いになりたくなったら、いつでもおっしゃってくださいね?」と微笑んだ。


 それにしても、なんだか見たことがある道だと思ったら、途中で気づいた。

 あの時は街道を走らず森の中を突っ切って行ったから気づかなかったし、帰り道は逆方向に移動していたから気づかなかったけれど、これ、国境くにざかいの、リトリィが奴隷商人に捕らえられていたあの砦に向かうルートじゃないか。


 巻き上げ窓から護衛の男に向かって聞くと、男は笑って答えた。


「この辺りに古い砦があるかって? ああ、あるよ。百年前くらいのいくさのときのやつだ。今はすっかりボロボロで、名残しか残っていない」

「ひょっとして、最近、そこで何かあったという話が……」

「ああ。去年……いや、もう一昨年前になるのか? 奴隷商人の討伐があったな。それがどうしたんだ?」


 ──やっぱりそうか。


「砦といっても、すっかりボロボロでな。道をふさぐ壁は壊されているし、砦としての役割はすっかりなくなったと言っていいだろうな、今は」


 男はそう言うのだが、少なくとも奴隷商人が拠点に使うことができる程度には機能していたのだ。そういう廃墟ほど、ならず者には使い勝手がよかったということなのだろう。


「なんだ、気になるのか? まあ、うわさでは、夜になるとうめき声が聞こえてくることがあるとかなんとか、そういう怪談もあるらしい。だが、そもそも夜にこんな峠道を通る奴なんてほぼいないから、噂の出どころ自体、怪しいものだが」

「夜に通る人がいない?」

「当たり前だろう。いくら道が整っているからといっても、夜は月明かりも届かない森の中で真っ暗だからな。それに狼だって出る。そんな道を夜に歩く奴らなんざ、命知らずか夜盗か、あるいはよほど道を急ぐ隊商しかないだろうな」


 うめき声……囚われの女たちが凌辱されていた姿が思い出される。もしかしたら、たまたま何かの理由で通った者が、その声を耳にしたのかもしれない。今はもう、誰にも使われていないと信じたいが……。


「ああ、ほら、あの崖の向こうに見えてきたのが、その砦だ」


 男の言葉に、隣に座っているリトリィが、わずかに身を寄せ、何も言わず手を握ってきた。わずかに震えが感じられる。その肩を抱き寄せると、リトリィは俺にすがりつくようにして、体を預けてきた。

 男に礼を言うと、俺は巻き上げ窓を下ろす。


 彼女にとって、忌まわしい思い出しかない場所だ。すまない、嫌なことを思い出させてしまったね、と、小声でわびると、リトリィは小さく首を振って、また、きゅっと腕に力を込めた。


「だいじょうぶ……です。あなたが、おそばに、いてくださるから……」


 だが、その声は力がなく、かすれて震えている。やはり、トラウマを掘り起こしてしまったようだった。不用意に砦のことを口にしてしまった、さっきの自分を締め上げたい。


「だいじょうぶです……だいじょうぶです、あなた。わたしは、だいじょうぶですから……」


 俺の手をぎゅっと握りながら首を振り続ける彼女の手が、汗ばんでいる。俺は彼女に顔を寄せると、翻訳首輪を外した。腹をなでている彼女の手に俺の手も重ねて、彼女のお腹を一緒になでる。


「リトリィ。俺。ずっと。一緒。……ずっと。愛する。きみを」


 そう、彼女の耳元に囁きながら。

 まだまだ片言だけれど、彼女だけに届けたくて、翻訳首輪を外したのだ。


 マイセルもフェルミも、隣の老夫婦同様に、肩を寄せ合ってうとうとしている。

 チビたちは興味津々に外を見て、そして赤ん坊二人は、藤籠の中で眠っている。


 耳をぱたぱたと揺らした彼女は、俺を見上げ、そして目を細めた。

 それに応えるように、そっと唇を近づける。


 互いに、小鳥がついばみあうように──


「なあ、おっちゃん」


 ニューの言葉に、俺は反射的に背筋を伸ばして「な、なんだニュー!」と返事をすると、ニューがこちらを見て、不思議そうに首をかしげた。


「おっさんじゃないよ。外のおっちゃんだよ」


 俺はがっくりと肩を落とし、リトリィを見た。リトリィと顔を見合わせ、苦笑いをする。

 ニューは再び巻き上げ窓から顔を出し、外の男に聞いているようだ。


「まだ昼間だろ? なんでこんなに暗いんだ?」

「暗いのは仕方がない。新年を迎えたとはいっても、新年第一日目っつったら冬至の次の日なんだから。前日が一年で一番、日が短い日なんだぞ。仕方なかろう」


 口の悪い少女の質問に対して面倒くさがらずに答えてくれる護衛の男は、なんと面倒見のいい男なのだろう。


 彼の言うとおり、一年で最も日が短い頃なのだから、正午を過ぎればすぐ日が傾く。おまけに山に挟まれた峠道は、背の高い木がうっそうと茂っているのだ。暗いのは仕方がないだろう。

 しかし昼間からこんなに暗いようでは、あの悪徳者たちも、さぞやりやすかったに違いない。


「だが、暗いからといって、この道がべつに寂れているというわけじゃないからな」


 男は、森の先を指差しながら続けた。


「もう少し先に行けば、今の季節は雪道になる。だから、今の季節は人通りが少ないんだ。だが、春から秋にかけては、それなりに人通りが多い道なんだぞ? 馬車がすれ違うことができるような道幅を見ても分かるだろう?」

「そーなのかー」


 ニューが、あいかわらず馬車の巻き上げ窓から顔を出してきょろきょろしながら、感心したように言う。


「このあたりも雪が残ってるけど、もっと行けばもっと積もってるのか?」

「そうだぞ。ついでに言うとだな、宿の先の道はもっと雪が積もる。そうだな……今年は雪が少ないが、それでも嬢ちゃんだと、ひざ下まで埋まりそうなくらいには積もっているはずだ」


 ニューのぞんざいな口調に思わずたしなめようとしたが、男は気にする様子もなく答えた。

 それにしても、雪?

 思わず巻き上げ窓を押し開くと、いつのまにか、道沿いに少し、雪が積もっているのが見えた。

 森の中の地面にはあまり雪がないけれど、道には多少、積もったみたいだ。


「じゃあ、お宿も雪、積もってる?」


 リノが、俄然目を輝かせて身を乗り出す。


「ねえ、だったら雪合戦しようよ! ボク、すっごく楽しみ!」

「……子供は無邪気でいいねえ」


 男が苦笑する。

 俺も苦笑いを返すしかなかった。

 リトリィも同じだったらしい。つられたように苦笑いする。


 砦のことで無用なトラウマを呼び起こしてしまい、さっきまで震えていたリトリィだけど、少し気持ちがほぐれたみたいだった。

 でかした! あとでニューとリノに、なにか特別におごってやろう!



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