第726話:はるばる来たよ温泉宿!

 山の中の道は、なかなか大変だった。雪が積もっているから、というのもあったのだろう。場所によっては、台車に荷物だけおいて人間がみんな降りて歩く、なんてところもあった。自動車の馬力を懐かしく思いながら、山道を歩いていく。


 チビたちは、宿に着くまでもなく、道に積もった雪で雪合戦を始めていた。たまに俺たちに飛んでくるのもご愛嬌──


 べちっ


「あははははは! おっさん、ぼーっとしてるからだ!」


 腹を抱えて笑うニュー。

 俺はにっこりと微笑むと、即座にしゃがみこんで両腕で雪を抱え上げる。


「……え? おっさん……?」


 途端に顔色を変えたニュー。

 慌てて逃げ出そうとするが、逃すものか。


「因果応報を学ぶのも、教育だよな?」

「え、ちょ、そんなでっかいの……ひぶっ!」


 大人げないと言うなかれ、正義は執行さるべし。


 逃げ出そうとして転倒し、振り返ったところを顔面から巨大な雪の塊をぶつけられて埋もれながら泣き出すニュー、怒るヒッグス、「だんなさまの顔に雪玉をぶつけて笑ったニューが悪いもん!」とこれまた怒るリノ。

 ため息をつくマイセル、「ホントご主人、容赦ないっつーか、ガキっスねえ」とあきれるフェルミ、苦笑いで俺をたしなめるリトリィ。


 なんの! 獅子は兎を狩るのも全力を尽くすという!

 ……いや、ほんと、雪を抱えただけで別に固めたわけでもないから痛かったはずもなくて、だから、あの……

 ……ごめんなさい。




「おっさんおっさん! 見て、すっごい湯気!」

「わあ……すごいすごい! だんなさま! ボク、あんなの初めて見る!」


 大はしゃぎで指を差すニューとリノに、俺も思わず笑みがこぼれる。石積みの宿は、立ち上る湯気を背負うようにして建っていた。


 午後のお茶の時間には到着するだろう、という話だったはずだが、結局、前日から降り積もったらしい雪のせいで牛の歩みも遅くなり、宿に着くころには日も暮れて、辺りはすっかり暗くなっていた。


「嬢ちゃん、あれは寒い冬だからだ。夏には湯気なんてほとんど見えねえからな」


 牛車の御者も、笑いながら言った。


「あれって、いっぱいお湯を沸かしてるの?」

「ありゃあ、岩の裂け目から湯が湧き出てるんだ」

「岩の裂け目? なんでそんなところからお湯が出てるの?」

「さあな。神の恵みって奴だろう」


 なるほど、確かに温泉らしい。地震なんてほとんどない、という土地ということから、火山も見当たらないし、そういうものの恩恵もなさそうだと思っていた。

 だけど、世の中には火山がなくても温泉が湧き出るところもあるらしいし、そういうこともあるんだろう。


「さて、オレの仕事はここまでだ。嬢ちゃんたち、楽しかったぜ」


 護衛の男が笑いかけると、リノが「うん、おじさま、ありがとう!」と、ぴょこんと礼をする。

 護衛の男は手を挙げると、牛車の男と共に、騎獣舎に向かって去って行った。


「……さて、宿泊の手続きをするか」

「やったあっ! おっさん、はやくはやく!」

「わあーい! 温泉、温泉! ボク楽しみっ!」


 ニューとリノが跳ねまわるようにしながら階段を駆け上っていく。ヒッグスもそのあとを「おい、待てよ!」と追いかけていく。子供は実に元気なものだ。


 マイセルもフェルミも、そんなチビ三人を見上げて苦笑しつつ、それぞれの子供を抱っこしながら石段を上る。俺も大量の荷物を背負いつつ、お腹の大きなリトリィに手を差し伸べた。


「あ、だんなさま……ありがとうございます」


 微笑むリトリィが、素直に右手を差し出す。二人で一段ずつ、ゆっくり上る。もう来月には出産と考えれば、たしかにこの機会をおいて来ることなどできなかったかもしれない。


 だが、エントランスホールに入った途端、大はしゃぎのチビたちを受付のおばちゃんに迷惑そうな目で見られて、俺は慌てて静かにさせる。


「……そっちの原初のプリム・獣人族ベスティリングの女も風呂を使うのかい? ずいぶんと長い毛だねえ。旦那さん、躾はちゃんとできてます? ちゃんとよく言い聞かせて、毛は自分で集めさせてくださいよ! 毛だらけにしても素知らぬ顔で出てくる迷惑な獣人ってのは、多いですからねえ」


 のっけから腹の立つことを言われたが、ぐっとこらえる。子供が暴れていても止めない親、という見方をされたのだろう。


 風呂の中で飛び込んで暴れたりするなとか洗濯をするなとか、そういう「当たり前」と思われる注意を受けたのだと脳内で変換する。この温泉宿も、きっとそういう迷惑を過去に被ってきたがゆえの、この失礼な言動なのかもしれない。

 「お客様は神様」なんて精神も、この世界には無いのだ。我慢、我慢。


 案内された部屋は、ごく一般的な宿といった様子だった。冬というのは温泉を楽しむのに最適だと思うのだが、客はあまりいないようだった。そもそも「旅行」というもの自体、安全や経済的な理由などで、気軽に楽しむにはハードルが高いのかもしれない。


 荷物──といっても大半が赤ん坊のおむつと着替えだが、それを、宝箱のような衣装箱に放り込む。

 時間にして十時間ほど、ずっと硬い木の床の上で揺られながらやってきたのだ、まずは温泉、とも思ったが、まずはみんなを食堂に連れて行くことにした。腹が減ってはなんとやら、だからだ。


 ……で、この世界で、温泉宿で山海の珍味、なんてことは一切期待してはいけなかったことを思い知る。


 硬い雑穀パンと豆のスープ、これだけ。


 で、この硬い雑穀パン。どれくらい硬いかっていうと、食いしん坊なニューもリノも、全く歯が立たない程度! スープでふやかして食べることが前提だった。いや、単に古くなって乾燥しただけなんだろうけどな。寒いからかびが生えてないってだけなんだろうってくらいに古そうだった。そんなもん客に出すなよ!


 くそう、俺が経営者だったら、リトリィが作ってくれる素朴な家庭料理でいいから、絶対に美味い飯を出すのに! 飯だって重要なコンテンツの一つだぞ!


 で、毎食リトリィの温かく美味しい食事に慣れきっていた俺たちは、沈黙のままに飯を胃袋に流し込んだ。本当に、流し込むって表現が適切なくらいに、ただ黙々と食っていた。


 疲れを癒すために飯を選んだはずなのに、かえってどっと疲れが襲ってきた俺だったけれど、子供にはそんなことは関係なかったみたいで、部屋に戻るなり、リノが服の袖にぶら下がるようにして訴えてきた。


「ねえ、温泉、入ってきていい? いいでしょ? ボク、早く入ってみたい!」


 ニューもヒッグスも同様だ。きっと今、彼らの背中には羽が生えている。

 リトリィが、「この仔たちはわたしが見ていますから、どうぞ行ってらして」と言って、赤ん坊二人を抱き上げた。


「お姉さま、そんな……」


 マイセルがためらってみせるが、リトリィは「だいじょうぶですから、先に入ってきてください」と、マイセルにもフェルミにも微笑みかける。


 だから俺もそれに甘えて──なんてできるかっ! 妻を労うために温泉に来たのに、その妻にゆっくり湯に浸かってもらわずに、俺が先に湯に浸かるだって?


 だから俺は、強引に妻たちを風呂に送り込んだ。「シシィもヒスイも、俺が面倒見るから。まずはみんなで入ってきてくれ、俺は後でいい」と言って。リトリィが最後まで食い下がろうとしたけれど、最終的には家長権限を振りかざしてやった。


 ところが、これが甘かった。

 ヒスイがすっかり目を覚ましてしまって、部屋中を徘徊するんだよ、これが。

 シシィもそれで起きてしまって、シシィはハイハイで、ヒスイはあっちこっち伝い歩きで好き放題だ。


 で、ヒスイがベッドの角でドヤ顔していたらその直後に転んで泣き、慌てて抱き上げてあやしてたらシシィがスリッパをかじり始め、慌ててスリッパを取り上げたら泣き、その間にヒスイがいなくなり、慌てて探したらなぜかベッドの下で座り込んで、埃の塊を握って笑っている。


 埃まみれのヒスイをベッドの下から引っ張り出したら今度はシシィがいなくなり、どこに行ったと思ったら椅子の足につかまって立とうとしていて、しかし椅子がシシィを支えきれず、椅子ごと派手に転倒してまた泣くんだこれが!


 ワンオペ子育てがいかに大変か、痛感したよ! 頼むから手当たり次第になんでもかじらないでくれシシィ! お前はたった今から、怪獣カジゴンだ!



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