第727話:露天風呂にて
「ご主人、ご主人。なにやってんスか」
「……怪獣カジゴンと、漂泊怪獣ドリフティーヌに制圧されている」
抱っこしているシシィに、服の裾をしゃぶられながら歩き回る俺。その足に、歓声を上げながら抱きついて回るヒスイ。
特にヒスイはあり余る体力を運動で消費しようとでもいいたげに、全くじっとしていない。とにかく何にでも手を伸ばしてつかまり立ちをしたがるのだ。で、放っておくと何かにつかまっては伝い歩きを試みて転ぶので、もう目を離していられない。
そんなわけで、俺は嫁さんたちが戻ることを首を長くして待ちながら、娘の相手をしていたのだった。世のお母さまがた、本当にお疲れ様です。
そしてたった二人を相手にしているだけなのにこの消耗ぶりなのだから、きっと保育園の先生の体力は化け物か、というレベルに違いない。
「……あれ? リトリィはどうした?」
「お姉さまなら、まだですよ」
マイセルの返事に、俺は納得する。リトリィは全身ふっかふかの女性なのだ。特に今は冬毛で、家の風呂でも一人で手ぬぐいを三枚以上使って体を拭いている。だから時間がかかっているということなのだろう。そういうことなら仕方がない。
ようやく娘たちから解放された俺が、着替えを持って温泉に向かおうとした時だった。
「ご主人、ご主人」
フェルミが、廊下で呼び止める。
「どうした?」
「いえ……子供たちのお世話、お疲れ様でした、ご主人さま」
そう言って、そっと頬に唇を寄せてくる。
「……いや、改めて、いつも子供たちに振り回されながら見守ってくれているんだなあって思い知らされたよ。こちらこそ、ありがとう」
「それ、当たり前のことですから。お礼なんて」
フェルミはそう言って微笑む。風呂上がり、そして浴衣に似たバスローブのようなものを着ているフェルミの、赤く染まったうなじがなんとも色っぽい。
「……でも、そう言ってくれるのが、ご主人さまのいいところだって、思っていますよ」
そう言って、もう一度、今度は唇を重ねるようにしてくる。
思わず抱きしめようとしたら、するりとかわされてしまった。
「……まずは、お姉さまのところに行ってあげてください」
そして、いつものようにからかうような半目で、「そのかわり、今夜は楽しみにしてるっスよ」と笑ったのだった。
着替え部屋を抜けてドアを開けると、そこは薄暗い……というか、暗い石造りの部屋だった。石造りの浴槽があった。そこそこの広さの部屋だが、隣の部屋と隔てる壁は完全には仕切られていなかった。その壁に浴槽がくっついていて、よく見ると湯の中に沈んでいる壁には、等間隔に小さな穴が開いている。
おそらく、隣の部屋と湯と室温を共有しているのだろう。たぶん、女湯と。
しかし、隣からの音はない。向こうの部屋には誰もいないのだろうか。
俺はとりあえず汗を流すように体を洗ってから、湯船に浸かった。長く寒い道のりを、牛の引く幌つき荷車で過ごしてきただけに、湯に浸かるというのは実にいい。思わず声が出てしまう。
男湯には、男性が何人か、ゆったりと浸かっているだけだ。部屋にはいくつかのランプがぶら下げられているだけで、非常に暗い。これはこれで風情があるとも言えるが、単純に利用しづらくもある。漂う湯気がまた、見通しの悪さに拍車をかけている。まだ陽の高いうちに利用する前提なんだろうか。
しばらく浸かっていると、二人の初老の男性が談笑しながら立ち上がった。続いて、何人かが「また、明日の朝にでも」などと笑い合いながら出ていく。
「……今夜もまた、少々積もりそうですねえ」
残った老人が、話しかけてきた。
「今夜も、ですか?」
「はい、この時期はいつもですが……。今も雪がちらついていましたから、おそらくは」
今も、ということは、どういうことだろうか。そういえば、シシィとヒスイの世話で、外を見ている余裕がなかった。
「さっきまで、露天の風呂にいたんですがね。はらはらと雪が舞う中での風呂というのもまた、いいものですよ」
「露天……ですか? 自分は今日、初めてここに来たもので」
そう聞くと、老人は微笑んで壁を指差し、「そこの扉から出られますよ。それほど広いものではありませんが、夜と昼では雰囲気も違いますから、ぜひ楽しんでみてください」と言って、出て行った。
露天風呂か。そう聞くと、興味が湧いてくる。雪がちらつく中での温泉なんて、社畜のように働いていた日本では経験がない。お湯の中にいれば寒くもないだろうし、ちょっと行ってみるとするか。
そう思ってドアを開けると、火照った体に外の冷気がいい感じだった。ごつごつとした岩場をそのまま活かすようなワイルドな感じで、丁寧に磨かれた石で作られたさっきの部屋とは、ずいぶんと趣が違う。
切り立った山々、その山から流れ落ちる滝を背景にした天然の岩風呂、といった趣は、なかなか悪くないと思う。それほど広くはないが、なにせ雄大な山々を背景にした露天風呂だ、開放感が違う。
空は薄曇りといった様子で、月の丸い姿がわずかに透けて見える。細かな雪が、わずかな月明かりのなか、音もなく静かに舞っている。これはこれで味わい深くていい。風呂自体は湯気で見通しが効かないというのも、神秘的な雰囲気を漂わせていて、これまた悪くない。
ぱっと見で誰もいないようだったし、貸切気分で湯に飛び込んだ。食事は最低だったが、この湯だけでも来た甲斐がある。やっぱり日本人は風呂だよ、風呂!
──そう思って飛び込んだが、「きゃっ……」という小さな悲鳴を聞いて驚いた。
しまった。先客がいたのか。
声のした方を見て、さらに驚く。
建物の壁には、内壁の延長線を考えればあるべきはずのもの──間仕切りがない。そうか、ここ、混浴なんだ! 屋内は男女で分けられているのに、一歩外に出たら混浴だなんて!
「す、すみません! 誰もいないと思ったもので……!」
湯気の向こうに霞む誰かに声をかける。向こう側、つまり女性がいるのだ。声をかけるにはかけたが、気まずくてしょうがない。せっかく開放的な気分に浸れたと思ったのだが、仕方がない。
そう思ったら、聞き覚えのある、柔らかな声が返ってきた。
「……あなた?」
さらに驚いて振り返る。
そこにいたのは、リトリィだった。
薄暗いランプの下、湯気に霞む温泉を取り囲む岩べりに腰掛けて、こちらを見ていた。
「リトリィ……こんなところにいたのか」
「ここにいたら、おふろ好きなあなたですから、きっと会えるかな……って」
大きなお腹を撫でながら微笑む彼女に、俺は改めて見入ってしまった。
「……そっちに行っても、いいかな?」
「ふふ、どうぞ。いらして?」
誘いを受けて、そっと、なるべく音を立てないように、彼女のそばに行く。
薄暗いランプの灯りが、たゆたう湯気の中に浮かび上がる彼女を、いっそう神秘的なものに感じさせる。
透き通るような大きな青紫の瞳はあくまでも柔らかに俺を見つめ、口元の微笑みはどこまでも優しい。
二人で手を取り合い、そっと湯の中に身を沈める。
しばらくは繋いだ手の感触に浸りながら、二人で肩を並べて、朧月を見上げていた。
音もなくちらつく雪は、少しずつ、量を増しているように感じる。
そのせいか、湯気も濃くなってきたように感じる。
そっと耳を澄ますと、湯に溶ける雪のはらはらという音が聞こえてくるような、そんな静寂に包まれた湯の中で、いつしか、唇を重ね合わせていた。
「……リトリィ、今回もいろいろ助けてくれて、ありがとう」
「いいえ? わたしはあなたをたすけてなんて……それよりも、わたしのしたいようにさせてくださって、ありがとうございました」
少しだけ視線を落とすリトリィ。けれど、微笑みを浮かべて俺に体を向けた彼女は、腕を伸ばして俺の背に回すと、今度は彼女から、思い切ったように唇を重ね、情熱的に舌を絡めてくる。
「……ギルドの鍛冶場でも、じつはこのお腹ですから。みなさんに、鉄を打つことに反対されていたんですけれど……。夫の許しがありますからって、押し切ってしまったんです」
頬を染めているのは、湯で温まったせいか、それとも口づけで気持ちが昂ってきたせいなのか。それがまた、俺の中で、彼女を愛おしく思う気持ちに火をつける。彼女を抱きしめる腕の力に気付いたのか、彼女は微笑んで、再びキスを求めた。
「……でも、わたし、どうしてもあなたのお役に立ちたかったんです。マイセルちゃんもフェルミさんも、大工として、直接、あなたのおちからになれますけど、わたしは鉄を打つよりほかに、なにもできませんし……」
「何もできないって、そんなはずがないだろう」
俺は、思わず彼女の言葉を遮った。
「美味しい食事を作ってくれて、みんなを笑顔で包み込んでくれて、仕事場の面々を支えてくれて……君がいてくれてこそ、ってことばっかりじゃないか」
しかし、俺の言葉に、リトリィは、真剣な眼差しで返してきた。
「わたしは、あなたの第一夫人です。あなたのお役に立つこと……それが、わたしが一番、したいことなんです」
「リトリィ、そんな、役に立つとかどうとかは……」
「わたしがそうしたいんです、あなた」
そういって、彼女はまたしても、俺の口の中に舌を差し込んできた。貪るように、舌を絡めてくる。
ずっと彼女は、俺の役に立ちたい、と言ってきた。最近はリノがそれをよく口にしているが、リトリィも、山の家にいる頃から、ずっとそう言ってきた。
「わたしは、あなたのリトリィです。……いつまでも、おそばに」
そう言って微笑み、また、唇を重ねてくる。
その彼女の背中に、俺も腕を回す。
熱い吐息、悦びのため息。
ああ。
俺も、君のムラタだ。いつまでも、君と共に。
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