第724話:温泉へGo!
「えへへ、だんなさま、あったかーい」
歓声を上げて懐に潜り込んできたリノの頭を、そっとなでてやる。
暖炉の前である程度乾かしてきたはずだが、風呂上がりのしっとりとした髪がやけに艶やかに見える。まあ、ふかふかの羽毛布団にくるまって寝るから、風邪はひかないだろうけれど。
しかし、昨夜から色々とありすぎた。またしてもリノの目を借りて、戦いに参加することになってしまった。
こんな小さな子供を戦いに利用する──門外街防衛戦にて侯爵軍と戦ったとき、屋根の上を走るリノの目を借りて情報収集しながら作戦を立てた俺を、第四四二戦闘隊のメンバーに、「子供遣い」という極めて不名誉なあだ名をつけられてしまったことを思い出す。
もちろん、リノのおかげで生き延びることができたし、今回も彼女の視点はフェクトールにとって実に心強い力になったはずだ。
だが、またしても彼女に負担をかけてしまった。こんな子供に。
あらためてねぎらいの思いをこめて、彼女の頭をなでてやる。
「今日も本当に頑張ってくれたな。あの寒い中で」
「ううん、ボク、だんなさまのお役に立ちたかったもん!」
くすぐったそうにしながら、それでも可愛いことを言ってくれる。ぴこぴこと耳を揺らしながら、顔を胸にこすりつけてくる彼女がまた、愛らしい。
「ふふ、ではリノちゃん。おやすみなさい」
「うん、リトリィお姉ちゃん、マイセルお姉ちゃん、フェルミお姉ちゃん、おやすみなさい!」
リトリィの言葉にリノは元気に返事をしてから、「シシィとヒスイも! おやすみなさい!」と、小さな妹たちのほっぺをつつく。
「えへへ、だんなさまと一緒に寝るの、ひさしぶりーっ!」
「……そうだな、いつもきょうだいで寝ているもんな」
「うん! でもそれだけじゃなくてね!」
リノは、にこにこしながら続けた。
「だんなさまがね、やさしい顔でいてくれるの、ひさしぶりだなーって。最近、ずっと、ずーっと、なんだか難しい顔してたから!」
「い、いや、そんなことないだろう?」
「えへへ、今夜のだんなさまのお顔、だーいすき!」
そう言って、リノは胸に顔を埋めてくると、すんすんと鼻を鳴らした。
「だんなさま、いいにおい……ボク、だんなさまのにおい、大好き……。ふへへ、だんなさま、だんなさま……」
しばらく、うわごとのように俺を呼び続けていたリノだが、やがて、可愛らしい寝息に変わる。
「……リノちゃんも、だんなさまのことがほんとうに好きなんですね」
リトリィが微笑みながら、リノの寝顔を見つめる。
「だってムラタさん、優しいから」
マイセルも、リノの頬をつつきながら笑う。
「ただ、もう少し『黙って俺についてこい』っていう強引さがあると、ムラタさん、もっとかっこいいんですけどね」
「そんなのご主人じゃないっスよ。こんなだからいいんじゃないスか」
おいフェルミ、それは褒めてるのかけなしているのか。
「それよりムラタさん! 大きなお仕事も終わりましたし、お風呂行きませんか、お風呂!」
マイセルの言葉に、俺は首をかしげる。
「風呂……? いつも入っているだろう?」
そう。太陽熱温水器を作ってから、我が家では庶民とは思えない湯の使い方ができるようになった。温かいお湯を、使い放題とまではいわないが、いつでも、燃料無しに利用できるようになったんだ。
ところがマイセルはぶんぶんと首を振り、人差し指を俺に突きつけてきた。
「そうじゃなくて、温泉に行きましょうよ! 乗合馬車で行けるところがあるんです!」
「乗合馬車? それって高くないか?」
「少し山の中になりますから、仕方ないです。でもでも、お姉さまが赤ちゃんを産んだら、しばらくお出かけもできませんから! せっかく、ずっと抱えていた大きなお仕事が終わったんですから、行きましょうよ!」
マイセルが力説すると、フェルミもそれに乗っかってくる。
「いいっスね。マイセルがいうのは、ハクォーネ峠の温泉宿でしょ? お姉さまも今回、お腹に赤ちゃんがいるのに鉄を打って頑張ったんスから、ご主人、ここはお姉さまへのご褒美ってことで」
「だ、だんなさま。わたしはべつに、そんなつもりでやったのでは……」
リトリィが苦笑いしながら答えると、マイセルは、がばっと身を起こしてリトリィに訴えかけた。
「いーえ! お姉さまはご自身の働きを軽く扱いすぎです! そういうところはムラタさんとそっくりですけど、ダメです! ちゃんとご褒美は要求しなきゃ!」
「私もマイセルに賛成っスね。お姉さまも今回のお仕事でお疲れが溜まってるはずっスから、お産に向けて疲れを取って、体をほぐしておかないと」
「わ、わたしはその、つかれてなんて……」
困ったように笑って首を振るリトリィに、さらに畳みかける二人。
「お姉さまの『疲れてない』は疲れてます! お疲れです! ムラタさんもお疲れに決まってますから、二人まとめて疲れを取りましょう!」
「ま、マイセルちゃん、わたしはほんとうに、だいじょうぶで……」
「お姉さま、遠慮しなくていいんスよ! それに温泉に入れば毛艶もツヤツヤ、ふっくらふわふわになって、ご主人にさらに可愛がってもらえるようになること間違いなしっスよ!」
「だんなさま、行きましょう、温泉!」
おいフェルミ。一瞬でリトリィをその気にさせやがって。
俺は今、ひどい詐欺を目の当たりにした気分だぞ。
見ろよ、マイセルまで「今のアリ?」って感じで目が座ってるじゃないか。
「えへへ、お出かけ、お出かけ! ねえ、おじさま! あとどれくらいでハクォーネ峠のお宿に着くの? ボク、行ったことないから楽しみなの!」
リノは、ずっと大はしゃぎだ。朝一番に出た乗り合い牛車のなかで、じっとしていられない様子である。乗り合い牛車とはいえ、上品な老夫婦が一組、一緒に乗っているだけで、実質、貸し切りに近い状態でのスタートだ。
「そうさな……一刻ほど経ったから、何もなければあと八刻ほど……午後のお茶の時間頃には着くじゃろうて」
「おじさま、ありがとう!」
朝から何度目かの礼を言うリノに、面倒くさがらず礼を返してくれる御者に、俺は少し、申し訳ない気分になる。
もちろん彼女だけでなく、ヒッグスもニューも、ゆったりと進む牛車の
「ねえねえ、鳥に乗ってるおひげのおじさま! 鳥さんに乗るのって、楽しい?」
ちょっ……! リノ! 護衛にまで話しかけるんじゃない!
そう思って引き寄せようとしたのだが、護衛の男はからからと笑って、リノの質問に答えてくれた。
「
「脚、速いの?」
「おうともさ。特にコイツの脚に敵うヤツなんざ、そう滅多にいねえよ」
そう言って、自分の乗る
頬に大きな傷跡のある髭面の護衛の男は、朝からずっと、少し近寄りがたい雰囲気を出していたのだが、リノのたわいないおしゃべりにこうして付き合ってくれているということは、子供好きなのだろうか。
牛車はゆらりゆらりと道を行く。途中で昼食の休憩をはさみ、リノが自分の割り当ての焼き菓子を半分持って行ったときは何事かと思った。
「はい! おじさま、疲れたでしょ? あのね、これ、マイセルお姉ちゃんが焼いてくれたの! とっても美味しいんだよ、ボク、これ大好きなの!」
そう言って、焼き菓子を男に差し出す。
「……おじさんはいい。好きなモンなら、自分で食いな」
「だって、おじさん、ずっと休まずにいるもん。あと、その鳥さんも食べれる? 食べれるなら、その子にもあげて!」
これを聞いて、リノの優しい心根に比べて「あまり近寄らないでおこう」と考えていた自分が、本当に情けなくなる。彼女にとっては、護衛の男も旅の仲間のようなものなのかもしれない。
「……お嬢ちゃん、すまねえな。そんなに言うなら、いただくとしよう」
苦笑いを浮かべながら、男は焼き菓子を受け取った。
しげしげとそれを見つめ、ひと口で一枚を口に放り込み、しばらくもぐもぐやったあと、「……うまいな」とつぶやく。
「だが、口の中がぱさぱさになる。水はないか?」
「うん、あるよ!」
そう言ってリノが、自分の水筒を差し出した。
「……ありがとうよ」
男は、水筒の栓を開けると、口をつけぬようにうまいこと口に水を注ぎ込む。
「おじさま、まだハクォーネ峠まで遠いんでしょ? もっとお話、きかせて!」
さすがにマイセルがたしなめたが、しかし男は「いい、どうせ暇な道中だ。対して面白い話はできんが、つきあってやる」と、微笑んだ。
出発してから一時間ほど経つ頃には、うっそうとした森の中に入っていた。
牛車の床も勾配を感じる。これから山に向かうのだろう。この峠道が、南に出る唯一の道となる。この道の先に、山を越えるハクォーネ峠があり、そこが温泉地としてそこそこ有名なのだそうだ。
薄暗い森の中、雪がところどころ残っている。街では雪がちらつく程度だが、やはり山ではそれなりに降るらしい。日陰になって寒くもなったが、それだけ温泉の温かい湯が楽しみになるということでもある。
「……暗くなってきたね」
「なあに、なにかあってもおじさんが守ってやるからな、お嬢ちゃん」
「なにかって?」
「狼、冬ごもりしそこねた熊、あとは……まあ、いろいろだ」
護衛の男は、不敵に笑って、背中に背負う槍を指差した。
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