第723話:赤ちゃんとお風呂
「ふう……極楽極楽……」
湯船につかると、一日、寒さの中で働いてきた疲れから、じわ~っと解放されるような気分になる。となりではヒッグスも、目を細めて「ふぅ~っ」と大きく息を吐いている。やはり冬の風呂は格別だ。特に今日は、特別に大きな仕事が終わったのだ。いつもに増して、気分がいい。
「ムラタさん、シシィのお風呂、お願いしますね」
「ああ、いいよ」
ドアを開けてマイセルが入ってくると、すっぽんぽんのシシィを差し出してきた。俺は腕を伸ばしてシシィを受け取ると、いっしょに湯船につかりなおす。
きゃっきゃっ、と手足をバタバタさせて笑う娘に、俺も思わず笑顔になってしまう。この世界でここまでお風呂に慣れている赤ん坊って、多分いないだろう。だってこれだけたっぷりと湯を張ってお風呂に入れる庶民なんて、ほぼ存在しないからだ。
ヒッグスが隅に寄るようにしてスペースを開けてくれたため、俺はいつものようにシシィを湯船につける。
まず、シシィの後頭部から首にかけてを左の手のひらで包むようにしながら、親指と中指で耳に水が入らないように、耳をきちんと押さえる。そして仰向けのまま、背泳ぎのような態勢で体を沈める。
顔だけ湯から出すようにして、頭も半分以上沈めてしまうのがコツだ。
へらっ、と笑みを浮かべて、腕や足を小さく振り回すようにしてご機嫌な様子が愛おしい。腕を振る余波で、ばちゃばちゃと湯が俺の顔に飛び散ってくるが、それもまたご愛嬌という奴だ。
ヒッグスの顔にも湯がかかっているはずだが、彼もにこにこして気にしていないようだ。ニューというおてんばな妹がいて、慣れているからだろうか。
左手で包み込むようにして耳を押さえ、後頭部から首にかけてだけを支えるだけで、シシィの体は十分に浮く。赤ちゃんの体は脂肪が多いから、耳に水が入らないように耳を押さえながら後頭部から支えるだけでいい。赤ちゃんも、慣れてしまえば怖がったりしない。むしろ気持ちよさそうに、体を上手に浮かせる。ああ、今日も実にご機嫌だ。
「はーい、体をキレイキレイしますからねー」
頭や汗をかきやすい場所、関節などのしわの部分の奥などを、優しく手でこすって洗う。石鹸も何もいらない。顔は、湯に浸した手ぬぐいで拭うだけ。きちんと汗などを流してやれば十分なのだ。
この入れ方だと、ベビーバスなど不要だ。一緒に風呂に入ってスキンシップをしつつ綺麗にできるから、じつに都合がいい。
すると、ヒッグスが上目遣いで話しかけてきた。
「おっちゃん、おれもシシィを洗ってみたいんだけど、いい?」
「それはいいことだ。将来子供を授かった時の練習にもなるからな、よし、いっしょにやってみよう」
俺は快く、ヒッグスに近くに寄るように言う。
おっかなびっくり手を伸ばしてきたヒッグスに、洗い方のコツを教える。
「どうしても腕や足の関節のしわの奥は、汗が溜まってあせもの原因になりやすいからな。……こうやって関節を伸ばして、指でこする。強くしなくていい、いつもきれいに洗ってもらっているから、かるく指でこするだけで十分だ」
「手ぬぐいでこすらなくていいの?」
「手ぬぐいは、指よりも荒いからね。ちょっと赤ちゃんの肌には合わないんだよ。指でこするだけでも十分だから、大丈夫だよ」
「ムクロジの実は?」
「それもいらない」
本当はガーゼのような柔らかい布があれば、それを使うのも悪くはないのだが、残念ながらこの世界にはそんな柔らかな布はない。タオルはあるけれど、高価だ。まあ、毎日風呂に入れているし、そう強くこする必要なんてない。汗や垢を、指で丁寧にこすって落とす程度で十分。ムクロジの実──石鹸も不要だ。
「おっちゃん。おれ、路地裏で暮らしてたころは、人生であったかい風呂に入れる日が来るなんて、想像もしてなかったよ」
「奇遇だな。俺もこの世界……っと、この街であったかい風呂に入れるなんて、思ってなかったよ」
孤児院の実態を見て、赤ん坊の世話にはたくさんの水が必要だと知った。そしてマイセルの妊娠を知って、赤ん坊のおむつ交換でお尻を拭くのに、冷たい水よりも温かいお湯を使ってやりたいと思った。
それが、太陽熱温水器の自作という発想に至った。
もし孤児院と関わることがなく、そしてマイセルが妊娠しなければ、太陽熱温水器を自作しようなどとは思わなかっただろう。こうして、湯船にたっぷりと湯を張って体を温め、洗うということを懐かしみつつ、しかし今でも井戸の冷水で水浴びをしていたに違いない。
ヒッグスが口元まで湯につかり、シシィもくりくりの目をこちらに向けながらゆったりと湯に浮かぶ──そんな風呂を実現できたのは、孤児院で子供たちの世話の現状を見てきたからだ。こういう言い方は孤児院に失礼だが、「そうではない子育てをしたい」という発想に至った結果だ。
「ご主人ご主人。次はヒスイっスよ」
ドアの向こうから、フェルミの声が聞こえてくる。シシィが体を洗い終えて、ゆったりとしたころを見計らったのだろう。「ああ、分かった」と返事をすると、ドアが開いた。大きな手ぬぐいを手にしたフェルミが入って来て、両手を差し出す。
「ああ、ありがとうフェルミ。シシィ、また明日、お風呂に入ろうね」
俺は立ち上がると、シシィをフェルミの腕に抱かせる。フェルミは素早くシシィの体に手ぬぐいを巻き付けるようにして抱っこすると、「ヒスイ、お風呂ですよ」と声をかけた。
ヒスイはすでにすっぽんぽんで、フェルミの足につかまるようにして立っていた。すでにつかまり立ちができ、なんなら伝い歩きすらできる。さすが獣人の娘、ヒトの娘であるシシィとほぼ同じ時期に生まれたというのに、成長が実に早い。
「寒かったねえ、よーしヒスイ、お父さんとお風呂に入るぞー」
そう言ってヒスイを抱き上げると、彼女は歓声を上げて手足をばたばたさせた。
「じゃあ、ご主人。ヒスイのこと、お任せするっスよ」
「ああ、任せてくれ。シシィのこともよろしく」
俺はヒスイをゆっくり湯に入れる。浮力があるので、湯の中なら何かにつかまらずに立つこともできる。
「シシィとヒスイって、なんか育ち方が違う気がする。ヒスイのほうが、早くおっきくなったよね?」
ヒッグスの疑問に、俺は笑う。
「当然だろう? ヒスイは
そう。みんな違ってみんないい、の精神だ。
ただし、自力で立てるようになった、などと思い込んで放っておくのは非常に危険だ。突然座ろうとしてしゃがみこみ湯の中に沈むとか、歩こうとして水の抵抗に抗しきれずバランスを崩して転倒とか、とにかくとんでもないことを平気でやらかす。
自分で立てるようになって手間がかからなくなった、などという油断は禁物だ。決して目を離してはいけない。
「それにしてもおっちゃん、シシィとかヒスイを風呂に入れるの、上手だよな」
「慣れだよ、慣れ」
はじめはベビーバスがいるんじゃないかと思って、別にたらいを用意してそこに入れていたんだけど、どうにも非効率的に思われて、一緒に風呂に入れる、という方法を行うようになったのだ。
そうしたら実に便利だということに気が付いて、以後、ずっと一緒に風呂に入っている。
ただし、ワンオペ育児でこれをやろうとすると、おそらく大変だ。風呂に入るまではいいとしても、風呂から上がったあと、自分の体を拭きつつ子供の体も拭かなければならない。その上、自分も着替えて子供も着替えさせるのだから。
赤ん坊と一緒にお風呂に入る、というのは楽しいんだけれど、可能な限り、夫婦や祖父母など、二人以上で面倒を見ることができる環境が望ましい。
うちの場合は女性が三人いるから、俺がいるときはともかく、俺が仕事などでいないときは、「風呂で赤ちゃんと一緒に入る役」と「服を脱がせて風呂で渡す/風呂を上がった赤ちゃんの世話をする役」を交代でやってくれているらしい。本当に頭が下がる。
俺がヒスイの体を湯の中で洗っていると、そろそろ顔が真っ赤になってきたヒッグスが、「おっちゃん、もうおれ、上がっていい?」と聞いてきた。
「ああ、いいよ。先に上がりなさい」
「うん……お先に!」
ヒッグスが立ち上がり、湯船を出る。
「あっ……と」
その分の湯の
「あっ……! おっちゃん、ごめん!」
振り返ったヒッグスが、驚き、そして申し訳なさそうな顔をする。
「いいよいいよ、別に気にしなくていい。大丈夫だから」
俺はヒッグスに気を遣わせたくなくてそう言ったが、彼は以後、一緒に風呂に入る時、小さい子が湯の中で立っている間は、不用意に風呂から出ないように気を配ってくれるようになった。さすがヒッグス、「お兄ちゃん」をしっかりやろうとする心構えに、うれしくなってくる。
ヒッグスが上がって少し経ったころ、フェルミが再び顔を出してきた。
「ご主人、ヒスイは綺麗にできたっスか?」
「ああいいよ。……さて、ヒスイ~。お母さんがきてくれたぞ~」
きゃっきゃと手を叩いて喜ぶヒスイを抱き上げると、大きな手ぬぐいを腕にかけて手を差し伸べてきたフェルミに渡す。
「ご主人、ありがとうございます」
フェルミがにっこりと微笑んで、赤ん坊の体に手ぬぐいを巻き付けた。
「じゃあ、すぐお姉さまとマイセルとおチビちゃんたちが入りますから」
「……そうか、今日のお世話係はフェルミか」
「順番っスから。……ご主人さま、次の機会には、またご一緒させていただきますから、そのときは……存分に、可愛がってくださいね?」
「おーい、風呂だぞ。チビたちの前でそんなことできるわけないだろ」
俺のツッコミに、フェルミは微笑を浮かべて、風呂場を出て行った。
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