第722話:誇れるお仕事、あなたの価値
家に着くころには、午後のお茶の時間になっていた。我が家の前に立つと、焼き菓子の香ばしい香りが漂ってくる。リノと顔を見合わせると、互いに微笑んでドアを開けた。
「だんなさま、リノちゃん、おかえりなさいませ」
「ムラタさん、お疲れ様でした! リノちゃんも頑張ったね!」
家のドアを開けると同時に、リトリィとマイセルが出迎える。
外から近づいてくる俺の足音を察知して、いつもリトリィは俺が玄関を開けるタイミングを見計らって出迎えてくれる。その際には必ずマイセルも一緒だ。リトリィが自分だけ抜け駆けするようなことはない。
どうも俺の足音を聞きつけたら、リトリィがマイセルに声をかけているらしい。
リトリィにしてみれば、マイセルは彼女の妹分であり、幸せを分け合うことは当然のことのようだ。リノも、そんなリトリィの性格が分かっているのだろう。「リトリィお姉ちゃん、ただいま!」と、うれしそうにリトリィに飛びついてみせる。
ああ、こうやって愛する人が家族を大切にしてくれていること、そして愛する人から想われていることが実感できるって、幸せだ。彼女たちのために生きることの意味を、その価値を噛みしめる。
居間に向かうと、ソファーに腰掛けて娘に乳を与えていたフェルミが、妙に訳知り顔でにやーっと笑みを浮かべると、立ち上がってそばに寄ってきた。
……こういう時のフェルミは、絶対にろくでもないことを考えているから、少し身構えてしまう。
「……なんだ、何か言いたいことでもあるのか?」
「ご主人ご主人。リノちゃんにナニしたんスか」
「どういう意味だ。今回の大活躍を労っただけだぞ?」
「なに言ってんスか。すっかりメスの顔させちゃって」
「お前、何言ってんだ。また妙な濡れ衣を着せるな」
「お姉さまの出産までは、我慢しなきゃダメっスよ?」
「あのな、お前はいったい、俺をなんだと思ってるんだ」
「そんなの決まってるっスよ、
「自分の主人をおちょくるのが、そんなに楽しいか?」
「楽しいっス。すごく、とっても、最高に」
「……フェルミ、真顔で言うことか、それは」
「もちろん真顔で言うべきことっスね、これは」
あーはいはい。そうやって道化を演じて俺に色々と警告をくれるような女性がそばにいてくれて、俺は幸せ者だよ。
「道化って、ご主人も言うようになったっスね」
「お前と付き合っていたら、嫌でもそうなるよ」
そんなことを言いながら、フェルミが娘の顔を俺に見せつけるようにしてきた。
「ちょうどいい機会っスから、ヒスイを──」
「……帰ってきた亭主にうんちの世話をさせようって言うんだろ? はいはい、分かってるって」
「……そんなこと、言ってないですよ?」
なぜか傷ついたような顔をするフェルミに、俺はひどく驚いてしまった。
「じゃあ、なんだと……」
「ヒスイがせっかく起きているんですから、抱っこしてあげてくださいって、言いたかったんですよ……?」
ぐっ……! 以前、帰ってくるなりうんちの世話をする羽目になったから、今回もと思ったら、そういうことだったのか……!
「す、すまないフェルミ。そうだな、うん、抱っこさせてくれ」
慌てて笑顔を取り繕って、フェルミからヒスイを受け取る。
「やあヒスイ、お父さんだよーっ」
その顔を覗き込んで、可愛らしい我が子とのスキンシップを──
と思って気づいた。
──やたらとあったかいおしり。
「……フェルミ?」
「おしっこだと思うんスよねー。よろしくお願いするっス」
おしっこをたっぷり含んでいると思われる、重くベッタリと腕に張り付いてくるおむつ。ほのかにおしっこの匂いも漂ってくる。
……やられたっ!
「フェルミ、お前なあ……!」
「……おっちゃん。フェルミねーちゃんのイタズラをいまだに見抜けないおっちゃんの方が、問題なんじゃねえの?」
ヒッグス、お前、胸にぶっ刺さるよーなことを言うようになったな、おい!
しかし、俺が何かを言う前にフェルミは部屋の隅のかごから手拭いとおむつの布を手にすると、そのままキッチンに行って手桶に湯を張って戻ってきた。
「はい、ご主人。可愛い可愛いヒスイちゃんのおしりにいっぱい触れるっスよー」
何が楽しいのか、ニヤニヤしながら。
まったく、ひとを変態オヤジか何かのように。俺は無言でおむつを受け取ると、ヒスイのおむつを取る。濡れたおむつを外し、手ぬぐいをお湯に浸しておしりを拭く。
濡れたおむつを腕に感じた時は文句を言いたくもなったが、そもそも可愛い我が子。おむつ交換も、やり始めてしまえば汚れとかそういったことは感じない。むしろ、ぷるんとしたおしりの愛らしい感触を楽しむくらいだ。
「はーい、キレイキレイにしますよー」
そんな声をかけながら、股の間、肌のしわの奥まできちんと拭いてやる。そうしないと、おむつかぶれを起こすことがあるからだ。たっぷりの湯で濡らした手拭いを、こすらずに押し当てるようにして、綺麗にしてやる。
考えてみれば、おむつの世話は手間ではあるけれど、こうして世話ができるのも数年だけなのだ。考えようによっては、長い子育てのうちの、最初のボーナス期間なのかもしれない。
「ヒスイちゃん、お父さまにキレイキレイしてもらえて、よかったですねえ」
俺がおむつを整え終えたと同時に、フェルミがひょいっとヒスイを抱き上げる。
「お、おい、俺にも抱っこさせろよ」
「おやぁ? 仕事の虫のご主人が、珍しいこと。愛しの鐘塔が、ご主人を待ってますわよ?」
「その仕事は今日で終わったんだよ!」
「だったら、子供たちのためにご主人を家から蹴り出して次の仕事を探させるのも、私たちムラタ家の女の仕事っスね。ほれほれ、次の仕事が待ってるっスよ」
お前なっ!
いつまでも俺が、言われっぱなしと思うなよ?
俺は素早く翻訳首輪を外すと、ニヤニヤしているフェルミの耳元に、そっと耳打ちをする。
「……次、仕事、今日、夜、お前、抱く」
翻訳首輪をしていると、周囲数メートルの人間に、無条件に自分の言葉を届けてしまう。それゆえに、片言ではあるけれど、翻訳首輪を外しての不意打ちを決めてやったのだ。ついでに頬に、口づけのおまけつき。
「ごしゅ、じん……⁉」
途端に顔が真っ赤になるフェルミが可愛い。
呆然としているその腕からひょいと貰い受け、あらためて我が子を抱っこする。
「はは、ずいぶんと重くなったなあ、ヒスイ」
母親譲りの、まだはさみを入れたことのない青い髪は、繊細でふわふわだ。フェルミの髪は艶やかでしっとりとしたストレートだから、少し違和感がある。でもマイセルが産んだシシィも、わたあめのようにふわふわな髪だ。もしかしたら、赤ん坊特有のことなのかもしれない。
「だんなさま、お茶にいたしましょう。ヒッグスくん、ニューちゃん、リノちゃん、お手伝い、おねがいできますか?」
子供たちが歓声を上げてキッチンに向かった。マイセルがちょうどオーブンを開けたところで、甘く香ばしい香りが一気に部屋を満たす。
皿に山盛りとなった焼き菓子を、ニューとリノが二人がかりで運んでくる。リトリィがティーポットを、マイセルがカップを運ぶ。フェルミは、ソファーでシシィとヒスイの二人を抱っこ中。ヒスイはお腹いっぱいのようだが、シシィはまだおっぱいの時間のようだ。
フェルミが妊娠したころ、彼女に授乳ができるのか心配だった。けれど、ヒスイはもちろん、シシィのほうもすぐに慣れたようで、上手にフェルミのおっぱいを吸っている。
「ほんとうに、あの塔については、いろいろなことがありましたね」
「……そうだな。あれに関わっている間、本当にいろんなことがあった」
「ふふ、おつかれさまでした。しばらくは、三番街の広場の近くのおうちをなおすことに集中なされるんですか?」
リトリィがカップにお茶を注ぎながら微笑んだ。
いや、いろいろなんて言葉で済まないよ。本当に、本当にたくさんのことがあった。ありすぎた。いろいろなことを同時に進めながら、よくもまあ、やれたと思う。
……いや、違うな。俺「が」やれたんじゃない。
そもそも俺は塔のリノベーションのデザインを担当しただけなのに、なぜか監督をやることになり、けれどその監督業務のほとんどを、経験豊富なクオーク親方が肩代わりしてくれた。いろいろな作業の調整にはたくさんの職人が関わってくれたし、交渉事にはマレットさんがいろいろと水面下で動いてくれたこともある。
なによりも様々な問題が起こるたびに、ナリクァン夫人をはじめ、多くの力ある人が力を貸してくれた。問題の中には、私的なこと──職場とは関係ない、家族内の問題もいろいろあったけれど、そのたびに本当に多くの人に助けてもらえた。
今回の鐘塔の工事は、俺が成し得たことじゃない。本当にたくさんのひとびとの力が寄り集まって、共に成し得たことなのだ。
「ご主人、謙虚なのは悪いことじゃないスけど、あんまり自分を小さく見積もるのも良くないスよ?」
「そんなことは……」
フェルミの言葉を否定しようとして、すぐにやめた。いつも言われていることだ。
「……そうだな。謙虚に過ぎると、お前たちを、くだらない男に惚れている、ことにしてしまうもんな」
「わたしは、だんなさまがどんなお考えでも、ずっとずっと、おそばでお仕えしますから」
リトリィがそう言えば、マイセルも「わ、私もお姉さまと同じです!」と訴える。
「……こんなにも、俺を大事に想ってくれているひとたちのためにも、必要以上に謙遜するのは良くないって言いたいんだな、フェルミ」
「そうっスよ、ご主人。ご主人がいたから、鐘塔も鐘が鳴るようになって、孤児院は綺麗になって、三番街に学校もできて、街の屋根も早く綺麗に直って、産褥熱も抑えられるようになったんスから」
「そうですよ! 全部全部、ムラタさんのお仕事なんですよ! 私たちの、自慢の夫です!」
微笑みながら指折り数えるフェルミと、我が事のように胸を張ってみせるマイセルに、俺は苦笑いを返す。
そうだ。
俺は、この大切なひとたちに支えられて生きていくんだ。
彼女たちが選んでくれた俺という価値を、もっと誇らないとな。
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