第254話:幸せとは

「寝室は、できればさわらないでほしいのよ」


 ゴーティアスさんの言葉に、俺は一瞬、耳を疑った。

 さわらないでほしい――彼女は、確かにそう言ったのだ。これまで、一切、手を付けることを許さなかった彼女が。


 しかし、それも致し方ないだろう。その足首に巻かれた包帯を見れば。


 ゆうべ――といっても、俺たちが家に帰る頃の時刻だと思われるが、どうも、階段を上る際に踏み外し、転んだのだという。幸い、上り始めたばかりだったそうなので大事には至らなかったものの、足首をひねってしまったのだそうだ。


「ハッカの香油で湿布をしていますから、いまはましなのですけれど」


 ハッカってミントだよな? ああ、だからミントガムみたいな香りが部屋に漂っていたのか。

 ミントといえばメントール、日本でもよくガムとか歯磨きとかに使われてたし、あの貼るとヒヤッとくる冷湿布にも使われていたっけ。それなら、たしかに鎮痛作用はありそうだ。


「大奥様、歩くのはおつらいでしょうか?」


 リトリィが当たり前のことを聞くが、ゴーティアスさんはべつに気を悪くした様子もなく、まあ、思った通り、歩くのは辛いとの返事だった。


「歩くと、足首がずきりと痛みますの。これでは、家事どころか、移動するだけでも大変でねえ……」


 歩くと足首が痛む、ということは、ねんざだろう。骨折なら、痛いどころの話じゃないだろうからな。


「お義母かあ様は、こういうときくらい休んでくださいな」


 シヴィーさんが、ティーワゴンを押してきた。リトリィが席を立ち、その手伝いを始める。


「足をひねったくらいでお前に任せて隠居するほど、まだまだ耄碌もうろくしてはおりませんよ」


 すまし顔のゴーティアスさんだが、立ちかけて、そして一瞬顔をしかめてまた座り直したところを見ると、なかなか辛そうだ。てきぱきとティーセットを並べてゆくシヴィーさんやリトリィの働きぶりを、歯がゆそうに眺めている。


「本当は、マイセルちゃんも一緒にお茶に来てくれるとよかったのですけどね……」


 さらに残念そうにしてみせる。ああ、なんだかマイセルの事、気に入っていたみたいだからなあ。


 しかし、こればかりは仕方が無いだろう。マイセルは修行中の身、仕事を通して覚えなければならないことが山ほどあるだろうから。


 今日も庭では、テラスの修繕が行われている。

 昨日は寸法を測ったり、木材の傷んだところを削ったり切り落としたりといった作業だったが、今日からは本格的に修繕作業が始まったようだ。


 今日のマイセルは、大工達に交じって一緒に木材加工をしている。腐った材を切り落として短くなった分を新しい材で継ぐ、そのための木組み加工をしているようだ。


 これは彼女にとって、大工として外せない経験になるはずだ。のんびりお茶を飲んでいる場合ではない。


 周りの大工が、ほとんど墨引きもせずに目分量で木を削っていくのに対して、マイセルはきっちりと計って線を引いてから削り始めている。

 そのあたりが経験の差なのだろうけれど、それでも俺にとっては驚愕の一言に尽きる。


 マイセルがマレットさんの元で改めて修行を始めて、ひと月、経つか経たないか。それなのに、もうあんなにできるようになっているなんて。


 もともと手先が器用なのか、それともマレットさんの教え方が上手いのか、あるいはひたすらスパルタ式に叩き込まれてきたのか。


 ……ああ、そういえば凱旋パレードの時も、リトリィの安否確認だけしたらすぐに修行に連れ戻されたんだっけ。スパルタ式に叩き込まれたんだな、きっと。


「少しくらい、休憩していけばよろしいのに」

「はは……。マイセルちゃんは、少しでも早く仕事を覚えて、独立したいそうですから」

「あら、お仕えする旦那様も、こうして決まっているのに? そもそも、女だてらに大工など……妻として家を守るようにしつけるのも、夫のお仕事ですよ?」


 家を守るようにしつけるのが、夫の仕事?

 ……そこは全力で異を唱えたいところだが、そういう価値観で生きてきた人を、真正面から否定しても仕方ない。そんなことをすれば、泥仕合になるだけだ。


「いやあ、自分の夢を追うひとを、私は尊敬しているんですよ。志をもって我が道をゆくひとの姿って、素敵ですよねえ」

「そんな悠長なことを言っているから、あの子がいつまでも大工の真似事などして、遊んでいるのですよ? ひとはいつまでも子供でいるわけではないのです、淑女としての立ち居振る舞いを身につけなくては」


 ……正面から否定をしても、泥仕合に、なるだけだ。


「あ、いえ――その、彼女は遊んでいるわけでは……」

「幸い、シェクラの花が咲くまでにはひと月あまりありますから。これから毎日、ここに通うようにおっしゃってくださいな。私が、花嫁として姿を仕込んで差し上げましょう」


 ……泥仕合に……。


「ゴーティアスさん、マイセルは決して遊びではなく、住むひとを本当に幸せにしたいと願って、大工に……」

「ムラタさん。あの子の、リトリィさんとあなたとおそろいの首鐶くびわ――正式に婚約なさったのでしょう?

 であれば、は今日を限りとして、きちんとした礼法を身に付けさせなければいけませんよ。あの子のを考えればこそです」


 ……だめだ、いい加減キレそうだ……!


「いいですか? 女の幸せというものは――」

「大奥様!」


 俺が思わず立ち上がりそうになった、その瞬間だった。


「失礼を承知で申し上げます。お遊びという言葉、それだけは撤回していただけませんか」


 リトリィ、だった。

 驚いて振り返った俺の背後で、彼女は、毅然として、立っていた。

 そしてその左手は、俺の背中に、そっと添えられていた。

 まるで俺に、動かないでと言わんばかりに。


 彼女は、あっけにとられているゴーティアスさんをまっすぐ見つめたまま、少しも揺るがぬ口調で続ける。


「あの子は――マイセルちゃんは、自分の意志で、大工を――ジンメルマンの技を継ぐために、いまお勉強中なのです。真剣なんです。あの子の名誉のためにも、お遊びという言葉だけは、使わないでいただけませんでしょうか?」


 言い終えると、両手を腹に当てるようにして腰を落とし、頭を下げた。

 ……ああ、の、命令を受ける姿勢だ。


「……ムラタさん、がなっていませんね。人の話を遮るなど……」


 ゴーティアスさんが、少々気まずそうに、ティーカップを手に取る。


「……申し訳、ありません。よく、言って聞かせておきます……」


 俺は形ばかりに頭を下げつつ、しかしリトリィに対して、心底、申し訳ない思いになる。


 彼女は、俺の代弁をしたのだ。

 俺が、マイセルをかばおうとしたから。

 俺の様子を見て、俺が動く、その寸前に。

 俺が、ゴーティアスさんの不興を買うことのないように。


 従者の待機姿勢で、ひざまずくようにしているリトリィ。

 ……ああ、俺が、のだ。

 俺の、至らなさゆえに。


 ぎり――奥歯がきしむ。


 大切な人を、屈辱的な立場に追い込んでしまった。

 自分のせいで、リトリィに頭を下げさせてしまっている――だが、自分の不甲斐なさを今さら悔いても、もう遅い。

 ここで俺が取り乱してぶち壊すようなことをすれば、せっかく俺をかばってくれたリトリィの献身を、無駄にすることになる。

 ――ああ、ちくしょう! なんで、俺は!


「……私も言い過ぎたかしら。あの子は、真剣なのですね」


 カップを傾け、小さくため息をついたゴーティアスさんは、誰にともなくつぶやいた。


 さらに頭を下げるリトリィ。


「お義母さま。そのあたりにしておきましょう? ひと様のお嫁さんをひざまずかせておくなど、それこそ淑女の振る舞いではございませんわ」


 シヴィーさんのとりなしに、「そうでしたわね」と、ゴーティアスさんも頷く。


「リトリィさん、お立ちになって、お座りになって。私の方こそ、あなたたちの都合も聞かずに、一方的でしたわね」

「申し訳ありません、大奥様。差し出がましい真似をいたしましたこと、お許しください」


 そう言って立ち上がると、リトリィはそっと、席に戻る。

 俺が何も言えぬままにそっと目を向けると、リトリィは小さく微笑んだ。

 心配しないで、と言うかのように。


「リトリィさん。あなたがマイセルちゃんをかばうなんて、正直、驚きましたわ」


 再びカップに口を付けるゴーティアスさん。小さく肩をすくめると、薄く微笑んだ。


「ムラタさん。嫁の躾がなっていないなど、失礼なことを申しましたわね。考えてみれば、正しくは、嫁の躾がなっていないのではなく、あなた流儀の躾をせずとも、それぞれのお嫁さんに、家を盛り立てるための素養が備わっている、というべきなのかしらね?」

「……そう言っていただけますと……」


 ゴーティアスさんの、皮肉にも取れる言葉に、乾いた笑いしか浮かべられない。俺は何もしていない。リトリィに助けられているばかりだ。


「あなたたちがそれでよしとされていることに、横からくちばしを挟むなど、それこそ淑女の振る舞いではありませんわね。失礼を、お許しになって?」




 結局、お茶会はそのままお開きになってしまった。

 マイセルも誘って帰ろうと思ったが、作業中であったこと、そしてなにより本人が今日の作業を最後まで続けたいと望んだこともあって、先に帰ることにした。


 リトリィは帰り道、ずっと恐縮して頭を下げっぱなしだった。

 なんの。俺があそこで怒りに任せて立ち上がってしまってしまえば、話がぶっ壊れてしまうところだったかもしれないのだ。


『主人のためにわが身を捨てる覚悟がある――いいお嫁さんを見つけましたね』


 玄関での別れ際に、ゴーティアスさんが言った言葉。


『わが身を捨てても守るに惜しくない主人と巡り合う――これも、女の幸せですわね』


 ゴーティアスさんの言葉に、はにかんでみせたリトリィ。

 ああ、本当にそう思う。

 俺には、もったいないくらいの女性だ。

 なのにいつも助けられてばかりで、借りを全然返すことができていない。

 それが、本当にもどかしい。

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