第689話:失われた記憶は
瀧井さんはここで数日過ごしたあと、道があるのなら人もいるはずだと、山を下りたのだという。俺もその道をたどって、これから山を下りていく。何十年も、人間が歩いた様子のない道を。
「だんなさま、足元にお気をつけくださいね。わたしが歩いたところをたどるように歩いていただければ、きっとだいじょうぶですから」
リトリィが俺の耳の下あたりでふんふん鼻を鳴らしながら言う。山登りで汗をかき、しかも風呂に入れない関係で俺も体臭がきつくなってきているだろうに、そんなうっとりした声で言われると、変な気分になるんだが。
うっかり口を滑らせると、リトリィは熱い吐息を吹きかけるようにして、そして首筋に舌を這わせてきた。
「だんなさまのにおい──ずっとこのまま、かいでいたいです。いますぐにだって、かわいがっていただきたいくらいに」
「り、リトリィ……」
いたずらっぽく微笑んだ彼女は、しかし少しだけ身を離して、そして、表情を切り替えた。
「さあ、まいりましょう。だんなさまは、わたしがお守りいたします。どんなことがあっても」
「だんなさま、今、兄が切り倒した木の切り株です。足をおかけにならぬように、気をつけてくださいね」
リトリィの言葉に、俺は、荒々しい切断面の切り株を、意識して大きくまたぎ越した。
この切り株は、先頭を歩くフラフィーが、手に持っている
「これは……想像以上に大変だな」
道と言っても、歩く幅は五十センチメートルほどしかない山道である。そして、その路肩はそのまま切り立った崖で、崖の下はごつごつした岩が露出する谷川だ。万が一にも落ちたくない。
道は、行き以上に困難だった。しばらくは道が残っていたけれど、徐々に荒廃ぶりが洒落にならなくなっていった。これは、フラフィー、アイネ、リトリィがいなければ遭難不可避だっただろう。
さらに、なまじっか道が残っているだけに、余計にたちが悪かった。進めそうに見えてしまうのだ。そして、進めば進むほど、後戻りしたくなくなっていく。こんなに苦労したのだから、いまさら戻りたくないと思わせるのだ。
「俺は……こんな道を、本当に歩いたんだろうか」
「ひとりなら歩けなかっただろうな、なにせオレたちのところに来たばかりのおめぇは、ホントにヒョロガリなモヤシ野郎だったからな」
後ろから、アイネが容赦のない言葉を投げつけてくる。
「それでも歩けちまったんだ、かつてのおめぇはよ。仲間もいたみたいだしな」
「いや、仲間がいたって、こんな道じゃ……」
俺が首をかしげると、リトリィが振り向いて言った。
「声をかけあうだけでも、心がかるくなりますから。みんなでなら行けそう、なんて思い込んでしまうのかもしれません」
「そうして、退くに退けなくなって、結局、戻る手間を惜しんだせいで遭難しちまうのさ」
アイネの言葉はあくまでも厳しいが、それが現実なのだろう。
山で遭難したら、とにかく来た道を戻るのが鉄則だと言われている。だが、遭難に至るまでに費やした労力をゼロに戻すということにためらい、戻りたがらないのだ。遭難者に限って。
川に飛び込む前の俺も、そんな気持ちだったのではなかろうか。戻った方がいいかもしれない、けれど今さら、ここまで苦労して進んできた道を戻るなんて──頭では分かっていても、そうしたくなくなるだけの苦労をして、今、進んでいるのだから。
「だんなさま、
少し道が開けてきたところで、リトリィの弾む声に、思わず見上げる。
……確かにあった。下ばかり見ていたから気づかなかった。
そういえば、彼女は
「そうだな、この辺で休憩にするか? なあ、アイネ」
「なんだよ、兄貴。さっき休んだばっかりじゃねえか」
「いいんだよ。山葡萄、じっくり食いたいじゃねえか」
そんな二人を尻目に、リトリィが山刀で器用に
もふもふの金色のしっぽがふりふりと揺れる。実に楽しげに。彼女の
「だんなさま、どうぞ、めしあがれ」
そう言って、一番大きな房を差し出してくるのだ。うれしそうに。
「ああ、ありがとう」
「ふふ、だんなさま。わたしも好きなんですよ」
「ああ、知ってる。前に教えてくれたね。俺もそれで好きになった」
そう答えると、リトリィはさらにぱたぱたとしっぽを振ってみせた。その愛らしい仕草に、つい顔がほころんでしまう。
「だんなさま、おつかれではありませんか? わたし、お荷物、いくらかお持ちしましょうか?」
ひやりと冷たい風が吹き渡る山道で、それそれ崖を背に腰を下ろす。
けれどもリトリィは腰を下ろすことなく、俺の額の汗を拭いたり、水筒を差し出してきたりと、何かと俺の世話を焼きたがるのだ。いつもならもう少し落ち着いているのに、と思ってしまう。
だが、こんなものだったかもしれないと思い直す。年長者として、第一夫人として、かくあるべしというナリクァン夫人の薫陶を受けた彼女だ。マイセルと共に暮らすようになって、彼女の中で、気を張ってきたものがあるのかもしれない。
「まったく、オレたちなんざ眼中にねえような新婚っぷりだな、おい」
フラフィーが笑う。アイネは実に渋い顔だ。
「まったく、オレたちがいるってのに、ベタベタしやがって」
「いいじゃねえか。普段はアレだ、第一夫人サマを演じなきゃならねえんだから。ホントはやりたかった新婚さんってやつを今、やってんだろ」
いや、それ、リトリィを前に言っちゃうのかフラフィーよ。
でもってそれを聞いたリトリィ、大義名分を得たとばかりに体を寄せてきて胸を顔に押し付けてくるのホントに勘弁してください今すぐ押し倒したくなるじゃありませんか。
「それにしても、本当に思い出せねえのか?」
アイネの言葉に、うなずくしかない。
「本当に、まったく、覚えがない」
「そんなこと、あるのかよ」
そうなのだ、俺は
今、こうして歩いている場所についてもそうだ。まったく、記憶がない。周りの景色も、苦労した記憶も、何もないのだ。
もしかしたら、やっぱり俺はこの世界に転移したとき、そのまま川に落ちて流されただけだったのかもしれない、と思えてくる。
けれど、そうすると、俺が以前見た夢は何だったのか、ということになる。
あの、何かから逃げるように森の中を走る焦燥感。
三つの月に衝撃を受けるあの感覚。
夢なら覚めてくれと、何度繰り返しただろう。
置いてきてしまった──
自分だけ助かってしまった──
……置いてきてしまった?
……自分だけ助かってしまった?
俺は、何を置いてきた?
俺は、誰を置いてきた?
気が付いたら、リトリィに組み伏せられていた。
「あなた、あなたのリトリィはここにいます! あなたの仔も、ここにいます! どうか、どうか落ち着いて……!」
必死にその腕を払いのけようとする俺に、自分で驚愕する。
リトリィを押しのけようとしている俺──俺は、なにを、やっている?
「……リト、リィ……?」
必死にリトリィを押しのけようとしている、自身の腕のコントロールを、必死に奪い返そうとしてもがく。一瞬のことだったのだろうが、それはずいぶんと長い時間に感じられた。力が抜けた俺は、それに気づいたリトリィと目が合って──
その時だった。
「いい加減にしやがれ!」
左の頬に、強烈な一発!
「兄さまっ! わたしのだんなさまに何するんですかっ!」
見事なハイキックを食らったアイネの体が、ぐらりと揺れる。
すまんアイネ。お前はお前で、俺を何とかしようとしたんだよな。
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