第690話:二年前の痕跡、日本の残滓

「ほーん、どう思い出そうとしてもよく覚えていないってか」

「そうなんだ。だから、いい加減に俺の上からどいてくれないか」

「だめです。わたし、もうあんなこわい思いをしたくありませんから」


 リトリィとフラフィーの二人がかりで押さえつけられている俺は、諦めてため息をついた。

 どうも俺は、突然「置いてきてしまった!」などと叫びながら崖から飛び降りようとしたらしい。かわるがわる正気を失った様子を説明されて、なんとなく思い出してきた。


 俺は誰かを置いてきた、という自責の念に駆られていたようだ。それはいったい、誰なのか。例のヤマシェクラの根元に埋められた人物なのか。粘獣とかいうスライムのようなモンスターに襲われ、俺は、その人を見殺しにして逃げてきたのだろうか。それとも、別の誰かなのか。


 落ち着いてくると、逆に、なぜあれほどまでの焦燥感に駆られていたのかが不思議になってくる。薄情かもしれないが、俺にとって、より大切なひとがたくさんできたからだろうか。


「……もう、大丈夫。落ち着いた。だから……」

「いやです」


 リトリィは、俺の胸に顔を埋めるようにして、俺から離れようとしない。

 そしてやっと気がついた。彼女、ずっと震えている。


 ……ごめん。君が俺のことをどれほど大切に思ってくれているか、分かっているつもりになっているだけだな。いつまでも、俺は。


 そして、俺は気づいてしまった。

 泥で汚れたリトリィの胸に、幾らかの赤い筋が滲んでいるのを。



「……リトリィ、それ……」


 俺が言いかけると、はっとしたように彼女は身を起こし、隠す。

 俺と彼女の仲で、彼女が俺に対して肌を隠すいわれなどない。つまり俺が傷つけてしまったんだ、暴れている間に、無意識に。


「すまない、リトリィ……!」


 俺は急いで腰のポーチを開けると、消毒用アルコールを入れた小瓶を取り出した。ただの引っ掻き傷ならともかく、傷口が泥で汚れているのだ。破傷風などに感染したら大変だ。


 俺は水筒の水で手拭いを濡らし、彼女の胸元の泥汚れを拭く。そして、瓶からアルコールを直接垂らすようにして軽く洗った。


 さすがに傷口を直接アルコールで洗うとなると、かなりの痛みが伴ったはずだが、リトリィは歯を食いしばるようにして身をよじり、耐えていた。


「……本当にすまない」

「いいえ? あなたがわたしにしてくださることですもの」


 リトリィの微笑みが、かえって俺の胸を締め付ける。俺という奴は、彼女を愛しているはずなのに、どうしてこんな時まで傷つけてしまうのだろう。




 思わぬ休憩時間となったが、リトリィが命綱を俺の腰にくくりつけることで、ようやく彼女は納得してくれた。その長さ、およそ三尺。一メートルほどしかない。リトリィの背負う荷物もあるから、ほとんどぴったりと張り付くように歩く。


「あなた?」

「……ここにいるよ」


 確認のためにしっぽをふりふりとさせてくるので、それを触ることで所在確認。全くもって信用なき有様。


 大規模な地滑りの痕跡らしい荒れた斜面を命からがら乗り越え、繁茂する有毒な草木を前に道を迂回し、浮石うきいしを踏んでバランスを崩し、リトリィに「危ないところは、わたしが踏んだところ以外は踏まないでください!」と泣きながら叱られる。


 うん、人の管理を離れた廃道を往くことの危険を、一歩一歩実感させられる事になってくる道事情に、俺は心底、二年前の自分は一体何をやっていたのか気になってくる。


 まあ、谷川に転落したおかげで、俺は命をかけて添い遂げたい女性に巡り会えたわけだから、全てが悪かったとも思えないが……こんな苦労をしてまで歩き続けた俺は、どうやってこの根性を発揮していたのだろう。

 今はフラフィーが道なき道を切り払って前進してくれているが、二年前の俺は間違いなく、こんなブルドーザーみたいな道案内人なんていなかったはずだ。


 思わぬ長い休憩のおかげである程度体力が回復できたものの、もういい加減疲れ果てたころ、斜面が緩やかになってきて、そしていつしか谷側の反対側には森が広がり始めていた。


「ムラタ、おめぇ、森の中にいた、って言ってたよな?」


 フラフィーに問われて、確かに自分の記憶の中では、森から逃げ出そうとするかのような場面があったように思った。というか、リトリィたちと出会う前の記憶といったら、こんな苦労して歩くようなものではなく、森の中を走っているものだった。


「だったら、このあたりの地形に見覚えはねえか?」


 やはりその質問が来た。けれど残念ながら、覚えがない。シチュエーションとしての記憶はあっても、具体的な見覚えを問われても答えられないのだ。


「……そうか。けど、まあ、ちょっと見回ってみようか。幸い、食糧はまだあるからな」


 俺たちは日が暮れるまで、手分けしてこの辺りの様子を調べた。だが、これといった遺留品は見当たらなかった。




 歩き回っているうちに見つけた小さな泉のそばで、俺たちは夕食の準備を進めていた。

 泉というのはありがたい。淀んだ水と違って、常に新鮮な地下水が湧いてきているのだ。川の水は動物の糞尿による汚染──つまりは寄生虫汚染が心配だけれど、湧き出したばかりの水というのはその心配がほとんどない。


 けれども、夕食の準備をしようにも、森の中というのは、意外に燃やせるものがない。正確には、簡単に火が付くほど乾いたものが少ない。なるべく乾いた木切れや落ち葉をかき集め、そしてナイフの付属品であるメタルマッチで火をつける。


 何度やっても、この盛大な火花を発生させるこの仕組みを、ナイフに組み込んでくれたリトリィには感謝だ。アイネ曰く「一つの道具にいくつも機能を盛り込むのは美しくない」そうだが、俺は大変重宝している。


 しかし、いくらメタルマッチが優秀でも、炎を持続させるには燃料が必要だ。そして、今夜の分を維持するには、この木切れの量では十分とは言い難い。


 水竜すいりゅうだいらは、標高が高く開けた場所で、獣もいない場所だったから問題なかった。だが、標高が下がったこの森には、様々な獣がいるだろう。それらから身を守るためにも、十分な火はあったほうがいい。


 だからアイネもフラフィーも、燃やすための木切れを探しに行っている。火の前にいるのは、俺たち二人きりだった。


「リトリィ」


 焚火のせいで、かえって周りが暗がりに沈んでしまったかのような、森の夕暮れ時。夕食として、刻んだ干し肉と細かく砕いた乾燥野菜を入れただけの簡素なスープを作っているリトリィに、俺は話しかけた。



「はい?」

「……その、昼間はすまなかった」


 もちろん、訳も分からず狂乱状態になったことだ。彼女の左胸には、ひっかいたような赤い筋が何本も走っている。どうやって傷つけたかの記憶はないが、俺が暴れたときにつけたものだ。


 お腹は白、それ以外は金色の、ふかふかの毛で覆われている彼女は、多少のことでは傷つかない。だが胸だけは、その白い肌が露わになっている。その美しい肌を、俺は傷つけてしまった。

 よりにもよって、最愛のひとを。


「ふふ、どうしたんですか? わたしは、べつに怒ったりなんて、していないのに」


 鍋を掻き回しながら、彼女は微笑む。


「いや、怒っているかどうかじゃないよ……。君のことを傷つけたなんて、許されることじゃ……」

「あなた」


 彼女は、ちいさく横に首を振った。


「わざとでないのですし、あなたも苦しんでいらっしゃったことです。それくらい分かります。あなたを許す、許さないというお話ではありません」


 そう言って、リトリィはこちらに向き直ると、そっと両腕を差し伸べてきた。


「あなた。──わたしは、あなたのリトリィです。こまったことがあったら、みんなわたしにきかせてください」


 彼女に抱き寄せられるままに、その胸に顔をうずめる。

 その、ふんわりとやわらかく、あたたかな胸に。


「お役に立てることは少ないかもしれません。でも、少しでもあなたのこころが楽になれば、わたしは、うれしいです」


 そう言って彼女は、幼子にするように、俺の頭をなでる。


「からだがおつかれのときは、こころもひっぱられます。……しばらくいたしていませんし、今は二人きりですし……その、おなぐさめいたしましょうか? おんなで英気を養うのも、殿方にはたいせつなことでしょう?」


 そう言って彼女が、手を伸ばしてくる。


「……あ、いや、その……」

「ふふ、あなたのおやんちゃさま・・・・・・・は正直で、かわいらしいですよ?」


 そりゃ、愛するひとに迫られて男が立たぬはずもなし。

 一瞬のうちに主導権を握られた俺は、そのまま彼女に押し倒される。


「あなた……いいにおい。あなたのにおい……! あなた、あなた……!」


 そう言ってすがりついてきて、俺の耳の後ろや首筋などに鼻面を押し付けては、ふんふん鼻を鳴らして舐めてくる。ここ数日、水浴びもろくにしていないせいで体臭がきつくなっていたのが、彼女にとってはかえって興奮材料になっているらしかった。


「り、リトリィ。嬉しいけど、じきにアイネたちが戻ってくるから……」

「わたしたちは夫婦めおとなのですから、愛し合っているところを見せてさしあげればいいんです。夫婦めおとなのですから、なにもふしぎなことはありません」


 そう言って、彼女はうっとりと目を細め、片手で器用に俺の上着の外しつつ、もう片方の手を俺のズボンの中に挿し込み、情熱的に刺激してくる。

 ま、待てって。義兄二人を前に公開子作り──子供はすでに彼女のはらの中にいるけれど──なんて、さすがにそこまで俺のメンタルは強くない!

 なんとか彼女の気をそらそうとして、あちこちを眺めまわしたときだった。


 ──そばの木の、幹に近い枝に、何かがぶら下がっていることに気づいた。

 黒い、デイパックのような、なにか。


 さっきは下ばかり見ていたから気づかなかったのか。それとも、焚火で下から照らし出されている今だから気づけたのか。


 俺は、思わず叫んでしまっていた。


「──俺の、リュック!」


 そう。

 俺が日本で最後に持っていた、リュックだったのだ!



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