第688話:水竜平の夜
一夜の宿の礼を述べて、俺たちはさらに進んだ。
今回、
瀧井さんは「自分で言うのもなんだが」と自慢げに胸を張るほどには優秀な下士官だったそうで、バーシット山のふもとにあたる
その際に、たまたま
当時の翻訳首輪はきわめて希少なもので、現在でも高価なそれはさらにお高いものだったそうだ。
若くて実績もなかった親方は、当然そんなものなど持っておらず、二人の意思疎通は相当苦労したようである。だが、「今となってはいい思い出だ」とは、教えてくれた瀧井さんの言葉。
そして、俺はこの世界にどうやってたどり着いたのか、たどり着いた直後の記憶がない。ただ、夢で見た曖昧な記憶によれば、俺が何かから必死に逃れようとしていて、そして崖のようなところから転落したのだ。
複雑な地形を山歩きして、という条件とはいえ、俺の脚で二日はかかる道のりを川で意識無く流されて、生きていられるとは思えない。おそらく俺が転落したのは、もっともっと、山の鍛冶屋に近いとは思われる。
まずは、瀧井さんがこの世界にやって来た玄関口たる
フラフィーとアイネが交代しながら、時には山刀を振るって道を作り、時には崩れた斜面に道をつけながら慎重に歩き、時には沢によってえぐられ分断された道の前に立ちすくみ迂回路を探し……かすかな痕跡となってしまっている「道」を切り拓いて進んだ先に、
不思議な感じがする場所だった。
ほぼ円形の池と聞いていたから火口湖かと思っていたが、違った。少なくとも火山ではない。人よりも背の低い木に囲まれて静かに水をたたえたその池は、赤く染まった空を鏡のように映している。
これを見ると、確かに
事実かどうかは知らないが、水竜なる古代の存在が昔ここに棲んでいた、と言われたら、確かに素直に信じたくなるほどの、美しく、そして荘厳な雰囲気だった。
周りはなだらかな山に囲まれ、小さな沢が数本流れ込んでいるが、出て行く川は一本のみ。小さな滝のように流れ出していて、それが、やがて山の鍛冶屋のそばを流れる川の源流となっている。
時間帯によるのだろうが、たどり着いた時には風はほとんどなくおだやかで、これは野営するにはもってこいの場所だろうな、とは思った。
「久しぶりにきたが、変わってねえな、ここは」
フラフィーが汗をぬぐいながら笑った。
「久しぶり? こんなところに何をしに来たんだ?」
「ここにな、山小屋を作ろうって話があってな。親父とアイネの三人で、何度か来たことがあったんだ」
話によると、山小屋づくりの手伝いに、大工道具を持って、何度か来たことがあるそうだ。
「だが、雪の重みなのか雪崩に巻き込まれたか、冬の間に潰れちまってな。せっかく作ったんだからって、次の春にもう一度立て直したんだが、やっぱり冬の間にまた、潰れちまってさ」
結局、ここに、冬を越せる小屋を作るのは難しそうだという話になり、今に至るのだという。
「ほら、あれだ。あそこらへんに、なんか石が積み上がってるような何かがあるだろ? あれが兄貴が言っていた小屋の壁の残骸だ。ムラタ、おまえなら何とかできねえか?」
アイネが指差した場所は、たしかに自然石をモルタルで積み上げたものの残骸のような石の山があった。
「なんとかするって言ってもな……。設計はやってみてもいいが、まず資材をここまで運び上げるのが大変だな。それに、ここに山小屋を作っても、何かいいことがあるのか?」
誰かが住み込んでメンテナンスをしなければ、家というものは長くもたない。
きっと頑丈に造ったのだろうが、冬の間に潰れてしまったというのが、今は穏やかに見えるこの場所の過酷さを物語っている。
そして、冬でなければ問題は無いし、冬にこの山を越える物好きなんていないだろう。雨に降られた時には便利だろうけれど。
「ここは旧道でも新道でも、どっちでも通る場所だからな。天気の悪い時には、あれば助かるってもんだぜ?」
「助かるって言ってもなあ。小屋を押しつぶすくらいの雪が積もる場所ってことだろう? どうしようもないんじゃないか?」
俺はどうにも乗り気になれなかったが、リトリィが「だんなさまなら、きっとできるお仕事ですよ!」と、耳をぱたぱた、しっぽふりふり、おめめきらきらな感じで訴えてくるものだから、「要請が俺なんかのところに来たらね?」と逃げておいた。
「そんなことより、今夜はここで野営するんだから、準備をしよう」
東の空は深い紺色になってきて、星が瞬き始めている。それもまた、
その時、ようやくたどり着いたといった様子で、商人らしき一行が
俺たちも挨拶を返すと、彼らは微笑み、俺たちとはやや離れた場所を野営地と定めた。さっそく、慣れた様子で木にロープをかけて布を張り、簡単な天幕を作っていく。
ああいうのを見ると、この道は今も確かに生きていて、人々が行き来する大切な場所になっているのだという実感が湧いてくる。
「ふふ、なんだかだんなさま、うれしそうです」
「そうか?」
「はい。あのかたたちをみてから」
リトリィが、微笑みながらふわりとしっぽを絡めてきた。
こういう辺鄙な場所のインフラが機能しているというのは、妙に胸が熱くなってくる。やはり設計という、土木関係の仕事に就いているっていうのが大きいんだろうな。
「ムラタ! 水、汲んできたぞ……って、おい! おめぇ火を起こすんじゃなかったのかよ!」
アイネに言われて、俺は慌ててリトリィが鍛えてくれたナイフを鞘から引き抜いた。ナイフの中にはメタルマッチが仕込まれていて、そいつで素早く着火ができるんだ。
「すまん、すぐにやる!」
スープの素となる、調味料と片栗粉のようなものを混ぜて練ったものを、沸かした湯の中に放り込むだけのインスタントスープと、リトリィが焼き締めてくれた携帯糧食としてのパン。それが、今日の晩飯。
「明日からは、川に沿って下りながら、俺の記憶にある場所を探すってワケだな」
「兄貴、ムラタが来てからもう二年が経とうとしてるんだぜ? 今さら手がかりなんて残っていないに決まってる」
「だがな、アイネ。やれたはずなのにやらなくて、あとから『やっときゃよかった』と後悔するより、やってみたってコトのほうが大事ってコトもあるんだぜ?」
フラフィーの言葉に、「そうかもしれないけどよ……」と口ごもるアイネ。
「いいんだよ。ムラタにゃ随分と世話になったんだ。これくらいの釣りは返してやらねえとな」
「い、いや、俺の方が世話になったというか……」
慌てて頭を下げると、フラフィーは笑ってみせた。
「なぁに、ウチの自慢の妹に、タネを無事仕込んでくれた礼だ。オレぁ、本当にその一点だけでもムラタ、おめぇに感謝してんだよ」
そう言って、豪快に笑ってみせる。
俺はそんなセクハラ発言に、リトリィが気を悪くしないかとひやりとする。だが彼女にとっては、それは怒るどころか、むしろ誇らしいことのようだった。お腹をなでながら俺に肩を寄せ、微笑みかけてくる。
「ムラタ。オレは自分の本当の親がどんなツラをしてるのか、全く知らねえ。親父に引き取られるまで何をやってたのかも、覚えがねえ。もっとも、いまさら知りてえとも思わねえが……」
「兄貴、オレの家族は今の家族だけだ。オレも別に本当の親とかなんとか、そんなモン、別に知りたいとも思わねえよ」
アイネの言葉に、フラフィーは一転、真面目な顔を作った。
「それはお前の考えだ。ムラタは知りてぇと思っている。大した度胸だぜ?」
そう言って、フラフィーは枯れ枝をへし折り、焚き火にくべた。
「アイネ、覚えてるか? ムラタとほぼ同時に上がった、あの死体の有り様を」
アイネが顔をしかめる。
親方が言っていた、ヤマシェクラの根元に埋めたという、遺体だろう。
彼は、ふっと空を仰ぎ見る。
満天の星空を。
「自分で掘り起こした結果は、自分にとって、嘘じゃなくなる。……たとえそれが、どんなに辛い結果を見ることになってもだ」
フラフィーの言葉に、改めて神妙な思いになる。俺は、知らなくてもよかったことを、ほじくり返そうとしているのかもしれない。
だが、当のフラフィーが、俺の肩をばしばしとぶっ叩いて笑った。
「どうも、こういう場所に来るといけねぇな。柄にもねえことをべらべらしゃべっちまう。忘れてくれ。明日からは探しものをしながらの道だ、今日までより大変になるんだからよ!」
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