第512話:大切なひとの話
「えへへ、だんなさまって、よく泣くんだね」
リノが、ぱたぱたと俺の前を走り回るように歩く。
「だって、前の戦いの時も、ケガしたボク抱きしめて泣いてたもんね」
「……心から大切にしているひとのためになら、何回泣いたっていいんだよ」
からかうようにいたずらっぽく笑ってきたリノに、俺は憮然と返す。
リノがぴたりと止まった。
「こ、心から大切なひとのため……?」
「そうだ。そういうものだと納得しろ」
これ以上は恥ずかしくて歩みを早めようとしたが、リノの足は止まったまま。俺も慌てて足を止める。
どうした、と聞こうとすると、リノは真っ赤になってうつむいていた。
「だ、だんなさまは、ボクのこと、そんなに、大切……?」
「大切だ。……何度も言わせないでくれよ?」
ただでさえリノの服装は、周りと見比べてもとても贅沢に布が使われていて、デザインも可愛らしくて目立つのだ。こんな往来の真ん中で立ち止まられると、余計に目立つ。
「……ぼ、ボクもね? だんなさまのこと、とっても大切なひとって思ってるよ?」
消え入りそうな声で言うリノに、ますますもって恥ずかしくなった俺は、彼女を抱き上げると足早に「恩寵の家」に向かった。
リノは、俺の首にかじりつくようにしていたが、俺の耳元で、蚊の鳴くようなかすれる声でつぶやいた。
「……ボクね? さっきのこと、だんなさまが見てくれてるって分かってても、すごく、すごく怖かった。来てくれて、とってもうれしかったんだよ……?」
「……もう少し早く、割り込めばよかったと思っている。怖い思いをさせて、悪かったな」
ううん、とリノは小さく首を振る。
「ボク、怖かったけど、でも、だんなさまを信じてたから」
そして俺の耳の後ろで鼻をすんすんとやる。
「えへへ、リトリィお姉ちゃんが言ってた通りだ……。だんなさまの、いいにおいがする……。だんなさま、ボクのだんなさま……」
「あら、ずいぶんといい顔になりましたこと」
応接室に戻ると、ナリクァンさんが上機嫌で迎えてくれた。
対して、リファルとダムハイト院長は、疲れ切った表情だ。
コイシュナさんは、なぜかひきつった笑みを浮かべている。
「リノちゃん、こちらにおいでなさいな。お茶菓子もありますよ」
途端に目を輝かせてナリクァンさんの隣に座るリノ。
「……なあ、なにがあった?」
リファルの隣に座りながら聞くと、「一番大変なことが終わってからノコノコ帰ってきやがって!」と小突かれた。
「大変って……。あのクソガキどもの処遇の話は終わったんだろ?」
「そっちじゃねえよ! そっちはとっくに終わってただろが!」
リファルによれば、子供たち、特に赤ん坊の待遇に対する、ナリクァン夫人による笑顔のツッコミの嵐がえげつなかったとのこと。
「ほら、前にお前が夫人に言ってたじゃねえか、赤ん坊の待遇を良くしないとダメだっつって! アレだよアレ!」
「アレか? でもあの話は、とりあえず資材の支援の約束までで終わった気がするんだが……」
「だからそれだよ! おむつが一日何枚必要か、粥はどれだけ与えてるのか、着替えの服、洗濯の回数……とにかくナリクァン夫人がメチャクチャ厳しく突っ込んで、オレ、見てて胃が痛くなったぜ!」
……なるほど、支援する資材に、そういうものも含むのか。
それにしても、リノに菓子を与えながら目を細めているナリクァンさんが、滅茶苦茶厳しいツッコミだって? 想像……つきます、はい。とっても。
絶対に、微笑みながら逃げ場をふさいでいくようにプレッシャーをかけるタイプのお人だからな、間違いなく。
「……よく分かってるじゃねえか。ホント、そんな感じだったぜ? とんでもねえおかただ、お前、すげえよ。よく今まで無事だったな?」
「俺がすごいんじゃなくて、リトリィが好かれてるんだよ。ナリクァンさんが動くのは、俺を何とかすることで、リトリィを幸せにしたいからってだけ。つまり、俺はあくまでもリトリィのおまけ。前にもそう言わなかったか?」
「おまけではありませんよ?」
それまで、リノに菓子を与えながら談笑していたナリクァン夫人が、突然俺たちのひそひそ話に割り込んできた。
「ムラタさんはもう少し、ご自身の価値を高く見積もった方がよろしくてよ?」
それはどういう意味かと思わず聞いてしまったんだが、夫人は微笑んでみせるばかりで、それ以上は何も言わなかった。
「なあ、ムラタ」
孤児院からの帰り道、リファルがリノを見ながら言った。
「オレにはさ、大して問題だとは思えなかったんだけどさ。なんでお前は、赤ん坊の待遇を改善したいって思ったんだ?」
「は? いや、普通、思うだろ?」
「いや、だからお前の考える『普通』ってなんだよ」
「普通は普通だろう? おっぱいを腹いっぱい飲ませて、おむつが濡れたらすぐに替えて、泣いたら抱っこしてあやす。それだけじゃないか」
「……お前な」
リファルが、額に手のひらを当てた。
「これだから赤ん坊の世話をしたことがねえやつは! お前、そこに座れ!」
そう言ってベンチを指差すと、リファルはいかに子育てが大変かを力説し始めた。
「お前、コイシュナさんの指、見たか? あのかさかさに荒れた指を! いや、手荒れなんて女ならみんな患うもんだけどよ、彼女、今一人であの孤児院を回してるようなもんだぜ? いや、そりゃ院長も頑張ってるけどよ、あの人、畑で食いモン作るとか、街の有力者のところまで行って寄付を募るとかで手一杯なんだぜ?」
「……そうなのか?」
「そうなんだよ!」
リファルは、苛立ちを隠しきれないといった様子で、靴のつま先を何度も石畳に打ち付けるようにした。
「だから赤ん坊の世話は、コイシュナさんが全部ひとりでやってんだぜ? あの数の赤ん坊をよ! お前がいまあっさり言ってのけたこと、一人ひとりの赤ん坊全部に同じこと、できるわけねえだろ!」
「それにしたって、おむつくらい――」
「おむつくらい――今、おむつ
リファルが、つかみかからんばかりの勢いで怒鳴る。
リノがおびえて俺にくっついてくるのを抱き寄せながら、「そ、そりゃ、交換するたびにだろ?」というと、リファルは頭を掻きむしるようにのけぞった。
「あーっ! これだから子育て未経験の馬鹿野郎は!」
「み、未経験で悪かったな! これでも親戚の姪っ子の面倒くらいは――」
「たまにしか顔を見ねえチビの話なんかしてねぇよ! 目の前、四六時中面倒を見なきゃならねえ赤ん坊の話だッ!」
リファルが、俺と額をぶつけそうな位置で怒鳴る。
「いいか、現実が見えてねえてめぇに、大切な話をするからな!」
「お、おう……」
勢いに押されて思わずうなずいた俺に唾を飛ばしながら、リファルは続けた。
「てめぇ、今、
「……そ、それは……」
「でもっておむつを洗うだけがコイシュナさんの仕事じゃねえぞ! 粥を炊いて、ひとりひとり食わせんのもそう! 粥ができたからって、皿に盛って勝手に食え、なんてコトは赤ん坊相手にはできねえんだぞ! でもって、それが一通り終わるころにはおむつだよ!」
俺の胸倉をつかみ上げたリファルは、俺を乱暴にベンチに突き飛ばし、指を突きつけて苛立ちを吐き出すように言い放った。
「コイシュナさんはな、すんげえ頑張ってんだよ! あの子の頑張りにも気づかずにケチばっかつけて、偉そうに孤児院のやりかたに文句付ける前に、てめぇの理想が実現できるかどうか、大工なら算段して――」
その瞬間だった。
「ボクのだんなさまに、なにすんだっ!」
リノが飛びついて、リファルの指にかみついたのである。
リファルの情けない悲鳴と、今の今までおびえた様子を見せていたリノが思わぬ攻撃に出たのを見て、俺は一瞬、固まってしまった。
「い、いてえってコラ! おいムラタ! このクソガキ、なんとかしやがれっ!」
「ボクを大切にしてくれるだんなさまは、ボクの大切なひとだもん! だんなさまを傷つけるやつ、ボク、ゆるさない!」
俺が慌ててリノにやめるように言うと、リノはけろっとした顔で俺に飛びつき、「ボク、がんばったよ!」とばかりに顔をこすりつけてくる。俺が苦笑いしながら頭を撫でてやると、リノは嬉しそうに喉を鳴らした。
「ムラタっ……てめぇ、チビの躾くらい、きちんとしとけっ!」
泣き言を言うリファルに対してフウッ! とリノが威嚇するのをとりあえず止めると、俺は考えの甘さを反省しつつ、リファルにもベンチに座るように促した。
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