第511話:君の夢と未来を守れたから

『――それが自己満足で、偽善的……ですって? あなたというひとは、本当に、どうしようもないお人好しですわね』


 俺の考えを聞いたナリクァン夫人の、盛大なため息と苦笑いが思い出される。

 確かに、自分がいずれ妻に娶ると決めた女性をレイプしようとしたクソガキどもにも未来を――そんな発想、頭がおかしくなったのかというレベルのお人好しと言われても仕方ないかもしれない。


 それでも――たとえ偽善と嗤われようとも、俺は、己の復讐の念で汚したくらい手で、我が子を抱きたくないんだ。


 もしかしたら少年たちの中には、本質は何も変わらないまま、うわべだけ取り繕ってやり過ごしてしまう者もいるかもしれない。


 けれども、その瞬間を潜り抜ければ終わってしまう罰と違って、孤児院を出るまで、自分で決めた「節度ある生活」「働く技術の向上」を求められ続けるのだ。それはきっと、少年たちの中に、彼らが独立したあとに生かせるものとして残ってゆくだろう。

 ヒッグスとニューとリノの三人を引き取ったときと、同じ理由だ。

 ナリクァン夫人は俺の言葉に微笑むと、その条件を少年たちに提示することには同意してくれた。そのうえで、こう言った。


『……分かりました。では、わたくしからあと一つだけ、付け加えますね』


 それが、最後の「ナリクァン商会の発展のために努力を続けた者には、達成度に応じて独立時に支度金を贈与する。ただし、先の条件をすべて満たした者に限る」という項目。


『ひとは、終わりの条件と報酬獲得の条件が示されてこそ、努力を続けることができるものですからね。あなたの理想、我が商会が支援して差し上げましょう』


 しかし、それではもともと真面目な子供が不満を募らせるのでは――そう言うと、夫人は笑ったものだった。


『普通の子がわたくしどもの商会に働きに来てくれたのであれば、もちろん普通の日当を支払いますとも』


 なんのことはない、散々働かせた挙句、「支度金」という名で、給料をまとめて支払うというだけだった。しかも、最後を除く四つの条件をすべて満たした者のみに支給するという話なのだ。


 今思えば、なかなかえげつない話だ。さすがナリクァン商会を一代で大きくした、商会きっての立役者。

 貧しい孤児院育ちの連中にしてみれば、魅力的に見えてしまうに違いない。四項目を守ってナリクァン商会で働けば、独立後に支度金がもらえる――まとまった金を自分だけのものにできる、という人参をぶら下げられているのだから。


 しかもそこで仕事を覚えたのだから、少年たちもそのまま就職を希望する可能性がある。つまり、そこそこ仕事を覚えた即戦力をそのまま雇い上げる、なんてことも考えていそうだ。


 ナリクァンさんが話を引き取ってくれたとき、俺はなかば感激すらしていた。

 だが、こうやって改めて考えてみると、ナリクァン夫人は俺をダシにして、しばらく無料で働かせることができる丁稚を手に入れるようなものなのかもしれない。商魂たくましいとはまさにこのことか。


「な、ナリクァンさま! ええと、ほ、本当におかねがもらえるんすか!」

「ええ、もちろんよ? 五つの約束をよく守り、わたくしどもの商会で働けば、真面目に働いたぶんだけ、あなた方の独立の時に、ですけれど。そのための『契約』です」


 いまさら目を丸くしてきょろきょろしはじめたミュールマンと、相変わらず憎々しげに俺を睨んでいるシュラウト以外は、なにやら必死に隣同士で「なにをどうすればいいか」を相談し合っている。


「え、え、えっと……! お、おれはもう、リノさんに近づきません! もし街で見かけたら逃げます! これでいいですか!」

「はい、残念。まるでだめね。わたしくしはね、リノさんだけの話をしているのではないの。他の子は?」

「はいはい! お、女の子に近づきません! 嘘をつきません! どうですか!」

「もう一度、わたくしの示した五つの約束を、よく考えなさい? 認めません」


 頭を抱える少年たちに、ナリクァン夫人は薄く笑ってみせる。


「そこの大工さんは『今決めるように』と言いましたが、わたくしは待ってさしあげましょう。あなた方が今後どのように生きるのか、今夜一晩じっくり考えて、明日、結論を聞かせてくださいな」




「だんなさま! ほら見て見て! 青ナツメだよ青ナツメ!」


 市場で、リノがうれしそうに走って行った先は、小さな青リンゴのような果物を扱う店だった。


 少年たちがぞろぞろと部屋を出て言ったあと、緊張が解けたらしいリノが大きなため息をついた。それを見たナリクァン夫人に、リノを息抜きさせて来いと、部屋を追い出されたのだ。


 しっぽを天に向けて駆け出すものだから、下半身――フリルたっぷりのパンツまで丸見えだ。ああリノ、お前って奴は息を抜きすぎだ! せっかくナリクァンさんが着せてくれたドレスが台無しだよ!

 慌てて追いかけると、リノが屋台に並べられた果物の前で立ち止まり、ぴょんこぴょんこと跳ねている。


「青ナツメ?」

「うん! さくさくして、甘酸っぱくて、おいしいの!」

「……食べたこと、あるのか?」

「うん! おかあさんがね、家にいたとき……」


 言いかけたリノの顔がどんどん顔が暗くなっていくのを見て、俺は慌ててリノを抱き上げた。母親によって、ゲスな男たちに売られたリノだ。嫌なことを思い出させてしまった!


「そうか。リノが美味いと言うなら絶対に美味いだろう。よし、ちょっと食べてみるか」


 最初、別の客に応対していた店のおばさんは、振り返りながらぞんざいに返事をしたが、リノの服を見るなりたちまち揉み手をしながらすりよってきた。……ああ、たしかにフリルとレースとリボンたっぷりの高級そうなこの服を見れば、金持ちっぽく見えるよな。


 二つ買って、ベンチに並んで一緒にかぶりつく。りんごのような、なしのような食感。なしほど果汁はないが、りんごよりは幾分みずみずしい食感に、さわやかでほんのり甘酸っぱい味が、なんとなくりんごを思わせる。

 子供の握りこぶしほどもない大きさで、あっという間になくなってしまったのが、少々名残惜しい。だが、リノの言う通り、確かに美味かった。


「……おっと」


 リノがこぼした果汁を、慌てて手のひらで受け止める。こんな上等な服を、果汁で汚すわけにはいかない。万が一クリーニングなんてことになったら、いったいいくらかかるのだろうか。危なかった。


 手のひらにこぼれた果汁を舐め取ってみると、爽やかな香りと共に、やはりほんのり甘酸っぱい味が口の中に広がる。日本で食べていた果物のような強い甘みはないが、この素朴な美味しさもまた、それはそれで味わい深い。


 すると、リノがぽかんとこちらを見ていた。また果汁が垂れそうになったので、慌ててそれを受け止める。


「リノ、服はあとで返さなきゃいけないんだから、一人前のレディらしく、汚さないようにな?」


 俺がそう言って微笑んでみせると、リノは恥ずかしそうにうつむきながらも微笑んでくれた。




 青ナツメを食べ終わったあと、手ぬぐいで手をふき取ってやったのだが、リノが妙にそわそわしている。もう一つ食べたいのだろうかと思って聞いてみたら、違った。


「……だって、だんなさま、ボクの青ナツメの汁、なめてくれたから……」


 そう言って、もともと赤くしていた顔をますます赤くしてうつむいてしまった。

 ……ああ、うん、そういうことか。

 もう驚かないぞ。結婚の三儀式のひとつ、夫婦となる男女が、一つのものを分け合って口にする「いもみ」――俺がやったのは、そういうことだと気づいたからだ。


「うん。……だからボク、やっぱり、だんなさまのお嫁さんにされちゃうんだ、って思って、それで……」


 もう赤ちゃんも産めるし、ボク、いつお嫁さんにされちゃうのかなあ――とんでもないことを口走りながら、顔を覆って首を振っている。


 こういう時、リトリィだとしっぽがぶんぶんと荒ぶるんだけど、リノのしっぽは天めがけてまっすぐに立つ。顔と反対のほうに向くようにしながらぷるぷるとゆれるくらいで、あまり激しい動きはしないようだ。


 ……だがそのせいで、ベンチに座っているとはいえ、ベンチには背もたれもなく、スカートもペチコートも派手にまくれ上がり、フリルたっぷりの可愛らしいパンツに覆われたおしりが丸見えだよ。まあ、珍しくパンツをはいている――はかされているだけ、マシだけどさ。


 だがパンツ丸見えはともかく、今さら結婚三儀式を意識されて恥じらわれても。なにせ毎日、俺は彼女の頭を撫でているんだから。

 本来なら、未婚の女性の髪を撫でるのは「くしながし」という結婚の儀式の一つだから、本来はやっちゃいけないことなんだ。だけど、もう癖というか習慣というか、それが当たり前になってしまっているし。


 それを今さらこんな少女が、耳をぴこぴこさせ、くねくねしながら恥じらってみせるのだ。ああ、なんて可愛いんだよこの子は!

 初対面で金的キックを食らった挙句にあごもカチ割られんばかりに蹴られた俺だけど、それすらも実は恥じらいの表れだったんじゃないかと、都合よく解釈したくなるくらいに可愛らしい!


 リトリィ相手にかきたてられる思いとは全く違った感情。誰の嫁になるとか、もうそんなことすらどうでもいい。とにかく彼女が幸せな未来をつかめるようにしてやりたい、そんな願いが狂おしいほどに湧き起こってくる。


「……だ、だんなさま?」


 戸惑う彼女を、人目も気にせず力いっぱい抱きしめる。

 かろうじてだが、この夢見る少女を守ることができた。

 それが、今はとにかく、嬉しい。


「だ、だんなさま、くるしいの? お腹痛かったり、する? ボク、なでなでしてあげよっか……?」


 こんな人通りの多い市場のすみで、人目もはばからずに少女にすがりついて嗚咽おえつを漏らす二十八歳の男。自分でも、なんてみっともない姿だとは思う。


 でも……でも、守ることができたんだ。

 この子を。

 疑いもなく、俺と添い遂げることを夢見てくれている少女を、その未来を、俺は。

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