第597話:未来を勝ち取るために

 目を開けたら、大粒の涙が丁度降ってきたところだった。


「あなた、あなた……! よかった……急にたおれるから……!」


 金色のもふもふが飛びついてくる。

 泣きじゃくりながら。


「具合の悪いところはございませんか! 痛むところはありませんか!」

「奥さん、大丈夫だって。気絶してただけだから」


 周りにいさめられても、俺にかじりつく勢いでべろんべろんと顔をなめまわしながら、リトリィが俺にしがみついたまま泣きじゃくっている。


「……ごめん。心配かけたな。──俺は、どうなっていた?」


 自分が今、体を床に横たえていて、リトリィが横から体を投げ出さんばかりにして抱き着いていて、でもってリトリィの反対側ではマイセルが、涙を浮かべつつほっとした顔をしていて、そして、そのまわりから後方控えの連中が、俺の顔をのぞき込んでいるのが分かった。


「どうなってたって……なあ。急に体をのけぞらせて、そのままぶっ倒れたって感じだぞ?」


 リファルが戸惑いながら言う。


「急に体を、のけぞらせて……?」

「ええ、見えない何かに殴られたように見えました」


 ウカートがうなずく。

 そして思い出した。


 暗くてよく見えなかった、無表情な男の顔。

 あごに伝わる衝撃。


『壊すなよ? そのケダモノの背後には危険な男がいる。彼にぜひ、こちらにお越し願わなくてはね?』


 背後から聞こえた、ゲシュツァーの無感動な言葉……!

 ──そうだ!


「リノ! リノが捕まった! あの子は今、ゲシュツァーの手元にいる!」

「なんだとぉ⁉」


 周囲が色めき立つ。リトリィが、両手で口元を押さえて悲鳴を上げた。


「おそらく、あごを下から殴られて脳震盪のうしんとうを──ええと、俺と同じように気絶しているはずだ。あの子から何も感覚が送られてきていないから、多分まだ彼女は目を覚ましていない。だけど、ゲシュツァーは言ったんだ、彼女をおとりにして俺をおびき寄せると」


『ムラタァ! やっと起きたのかい! アンタがのんきに寝てる間に、アタシらは大変なんだよォ!』


 アムティの声だった。「遠耳の耳飾り」との相性があまりよくないのか、雑音がひどい。


『雑音? 知らないよォそんなの! こっちの伝令手がやられちまってさァ! まさか屋内で機械弓なんか使ってくるなんて、思わないじゃないのさァ!』


 機械弓……? クロスボウのことか⁉


『いきなり伝令手が肩に矢を食らっちまって、脱落だよォ! 仕方ないからアタシが耳飾り着けてんだけどさァ、アンタ、グースカ寝ちまってただろう⁉ こっちは大変だったんだからねェ!』

『子猫ちゃんは突っ込むのが好きだからね。僕がいなければ、今日だって何回死んでいたと思うんです?』


 アムティの隣から聞こえてくる声は、『矢払いのヴェフタール』か。


「……って、アムティが死にかけるほどの戦いになってるのか⁉」

『いいえ、アムが勝手に矢に吸い込まれるように突っ込むんですよ。本当に好奇心旺盛な、困った子猫ちゃんだ』

『うっさいねェ、アンタの出番が増えてお得だろォ⁉』


 その時、さらに声が割り込んでくる。


『ムラタさんよ、とりあえず目が覚めてなによりだ。陶工の工場こうばのほうだが、本当に何もない。あちこち探っているんだが、あやしいところは見当たらないぞ』


 陶器工場のほうからの報告。印刷工場のほうにいる四四二隊の隊長からも、困惑した声が届いた。


『こっちもだ。印刷工場こうばのほうも、あやしいところは特にない。倉庫も全部見て回ったが、誰もいねえし声も聞こえねえ』


 ……相手のほうが上手だったということか! くそっ、こんなことなら戦力を一極集中したほうがよかったということか。

 だが、後悔先に立たず。今さら自分の作戦ミスを嘆いても仕方がない。

 現状、アムティたちが率いるレース編み工場に向こうの戦力が集中しているなら、すぐに増派するべきだろう。


「本当に、気になることはありませんか?」

『そうだなあ……わしが獣人ベスティリングだからかもしれんが、妙に臭うってのはあるけどな』

「臭う……?」

『ああ。全然体を洗っていないフンまみれの犬の匂いというか、ごみ捨て場の浮浪児の臭いというか……』


 印刷所だからインクのにおいかと思ったら違った。そんな悪臭漂う劣悪な環境で働かされていた人間がいるのだと思うと、改めて憤りがわいてくる。


『ムラタァ! いったん引くよォ! 人死にはでてないけど、このままじゃなんともならないからねェ!』


 もう、迷っていられない。もしアムティたちが交代要員なしに撤退して、連中に逃げる時間を与えてしまったら。


「すみません、だったら──」


 言いかけたとき、マレットさんからの悲鳴にも似た声が飛び込んできた。


『おいムラタさんよ! 見つけちまったぞ、地下室への入り口だ! うまいこと隠されてやがった! ……誰かいる!』


 地下室、そして、誰かがいる⁉

 そういえば、ヴァシィが見つかったという報告もない。もしかしたら……⁉


「マレットさん! 誰かいるっていうのは、一人ですか、複数ですか⁉」

『分からねえ、少なくとも子供の声っぽくはあるけどな。やけにくせぇ、こんなところにいるのか? おおい、助けに来たぞ! ……あん? 声がやんだぞ?』


 声が、やんだ……?

 助けを呼び掛けて、声がやむ……?


「マレットさん、敵だ! そいつが子供たちを黙らせたんだ、すぐに戦える人を!」


 孤児院に地下室があった!

 ということは、工場の下にもおそらく地下室がある!


「今、マレットさんの報告の通りです。隠し部屋がおそらく工場こうばの地下にあるはずです」


 だけど、工場組は、あちこち探しても見つからなかったという話だった。なにか手掛かりはないか、手掛かりは……!


 ……におい! 地下室を発見したとき、マレットさんが言っていたじゃないか!

 四四二隊の隊長も似たようなことを言っていた。


「マレットさん! その地下室って、どんなにおいがしてきますか?」

『ニオイ? ……うへぇ、なんつうの? 裏道のドブくさいニオイってか、生ごみと動物のフンが混ざったようなニオイだな』


 ……おそらく、それだ!

 そのにおい──こんな予想、外れてほしいが、多分当たっているのだろう。


 作業部屋に押し込められて工場から出ることもできず、体を洗うようなこともさせてもらえず、ただひたすら働かされている、子供たち自身のにおいではないか。


 もしそれが本当なら、信じがたい虐待だ。

 だが、かつてのヨーロッパでは、労働者に人権などほとんどなかったという。

 だからこそ、マルクスは人の理性を信じて共産主義という夢想を抱いた。

 ……それは、やがて数千万人の大虐殺につながる思想でもあったのだけれど。


「私の予想が正しければ、いまマレットさんが言ったようなニオイ、それが手掛かりです! 隊長! さっきおっしゃっていたニオイの強い場所を、なんとか探ってみてください! 陶器の工場こうばのほうも、異臭のするあたりを重点的に! よろしくお願いします!」

『あの戦いで、見てもいない状況を見てきたように当てたあんただ、信じよう』

『異臭か。分かった、もう一度探してみよう』


 通信が切れるか切れないうちに、アムティの金切り声が耳に突き刺さる。


『ムラタァ! アタシんトコはどうすんのさァ!』

『大丈夫ですよ。まだ持ちます。まあ、薄情なヘタレ男くんが、孤軍奮闘する哀れな冒険者を見捨てなければ、ですけれどね?』


 相変わらず毒舌家のヴェフタールだが、彼がそんな皮肉を言うということは、それだけ状況が悪いということなのだろう。冒険者でありながら飛び道具で抑えられてしまっていてうまくいかないという状況に甘んじているのだ、気持ちは分かる。


 ──やはり、俺が出るしかない。

 アムティたちに犠牲が出る前に!


「オレたちが出る⁉ ムラタ、お前正気か?」


 リファルに頭をはたかれる。ずれた保護帽を直しながら、俺はうなずいてみせた。


「お前みたいなヒョロガリが助けに行って、なんになるってんだ? お人好しもここに極まれりだ、うぬぼれてんじゃねえよ」


 お前には腹に子のいるカミさんがいるだろうが──そう言ってもう一度、今度は握り拳で俺の頭をぶっ叩こうとしたリファルだったが、その手は振り下ろされなかった。


「……でしたら、わたしもごいっしょさせてください。だんなさまは、わたしが守ります」


 リトリィの手によって、リファルの拳は空中に縫い付けられていた。


「だんなさま、リノちゃんのことですね?」


 リトリィが微笑んでみせる。


「……ああ。ゲシュツァーの奴は言っていた。リノの背後にいる人間に来させると。リノの背後にいる人間なんて、俺しかいない。あの子はまだ起きていないみたいだが、あの子が囮にされるのは確実なんだ。だったら──」

「リノちゃんがひどい目にあわされるまえに、こちらから出向く……そういうことですね?」


 我ながら頭の悪い大将ぶりだとは思う。だけど、俺はリノを見殺しになんてできない。リノの尊厳が破壊されるほど、ぎりぎりまで粘るようなこともしたくない。彼女は、俺の大切な大切な家族なんだ。


「お前な……。お前が出て行ったら、だれが指示するんだ。もう少し冷静に──」

「だったら、わしらが全員一緒に行けばいいのさ」


 瀧井さんが、壁に立てかけていた九九式短小銃を肩に提げると、弾が五発まとめられたクリップを手に取り、弾倉に押し込んでいく。


「わしらは予備人員だ。だからといって、働けないわけじゃない。それに、向こうがムラタさんをお望みだというのなら、結構じゃないか。大将同士の一騎打ちで、話が一気に片付くだろう。わしらはそれまでの、いわば大将を守る近衛このえよ。何か問題があるかね?」


 絶句するリファル。マイセルに、「お前、旦那さんを止めねえと、訳の分からねえことになっちまうぞ!」とつつくが、マイセルは一瞬だけ唇を噛みしめ、少しだけ視線を下げたあと、まっすぐに俺を見た。


「ムラタさんのことは、お姉さまが一番詳しいですから。お姉さまもお強いですし、大丈夫です。私は、みなさんが活躍されたあとの温かいお夜食を準備して、お待ちしてます!」


 強い目だった。

 もろく、触ったら今にも崩れそうな、俺に寄りかかりたいと願う内心を、悲痛な叫びを押し殺さんとして、しかしできていない目だった。


 どんな言葉を掛けても、きっと彼女は辛い思いをいだくのだ。

 けれど、俺は、行かなきゃならない。

 マイセルと同じだけ、リノも大切なのだから。


 肩が、腕が、そのきゅっと握られた拳が震えているのが分かる。

 それでも彼女は、気丈に振舞おうとしているのだ。


「マイセル──」


 俺は彼女の前に立つと、目じりに光るものを浮かべるマイセルを抱きしめる。


「……俺、腹いっぱい食うから」


 それ以外の言葉が浮かばなかった自分が情けない。

 でも、いまさらどんなに言葉を飾っても、彼女にとっては空虚な響きだったに違いないんだ。

 ──だからこそ。


「だから、美味い夜食、期待してるから」

「……はい……!」


 俺は――俺たちは、子供たちの、街の未来を勝ち取るために行く。

 そして必ず、愛する人の元に帰るのだ。

 愛する家族を連れて!

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