第229話:突破(4/4)

 インテレークの一連の動きは、スローモーションを見ているかのようだった。


 俺に向かって伸ばした男の左手を、インテレークがつかむ。

 そのままインテレークの右手が──その手に握られた鋭いナイフが、まるで吸い込まれるように男の喉に突き立てられる。

 まるでそれが、自然なことのように。


 そしてインテレークが軽く手首をひねると、男の首からすさまじい勢いでどす黒い液体が吹き上がる。そのすさまじい噴出は、天井までどす黒く染め上げる。


 彼はそのままナイフを抜くと、今度はナイフを瞬時に持ち替えた。柄を人差し指と中指の間に挟むようにして柄頭を握り込む。

 そのまま目にもとまらぬ速さで、男の両方の目に、ナイフのつば──二つのラグビーボールが刃を挟むような、独特の形のもの──まで深々と突き刺す。


 一見無造作に、だが恐ろしく正確に。

 それぞれ、数度かき回すことも忘れずに。


 ようやく掴みかかろうとした男の腕をかわすと股間を蹴り上げ、悶絶してくずおれる男を置き去りにして、インテレークは音もなく階段を駆け上がっていった。


 男は目や喉をかきむしるようにして何度も体を痙攣させたが、喉を切り裂かれているせいか、ひゅうひゅうと息の漏れる音くらいで、声もない。

 やがて首からまき散らしていた液体も止まり、ほどなくして男は動かなくなった。


 俺の、目の前で、動かなく、なった。


 いったい何があったのか、何が起こったのか。


 一部始終を間近で見ていたはずなのに、まるで脳が拒否しているかのごとく、まったく理解が追いつかなかった。


 こんなにあっけなく、あっさりと、人がひとり、されるなんて!


「まったく、一時はどうなるかと思ったけどな。おっさん、なかなかやるじゃねえか」


 しばらくして、インテレークが階段を下りてきた。


「……なかなか、やる……?」

「こっちを見たときはバレるかと思ってヒヤヒヤしたけどよ。──おっさんに向かって『ケツを向けろ』だぜ、コイツの最期の言葉! 傑作だよな」


 最期──最期の、言葉……。


「それにしても、ド素人にしてはうまく注意をそらしたじゃねえか。おかげでりやすかったぜ。おっさんが見つかった時は、後でぶっ殺してやるって思ったんだけどな。見直したぜ」


 ……で、この男は、死んだ……?


「なんだおっさん、もっと胸張れよ。へたくそでもあんたの芝居のおかげで、こっちは何の苦労もなく処理できたんだからよ。それより、さっさと目的のブツを探そうぜ」


 どす黒い粘液が、ぽたりぽたりと天井から落ちてくる。

 むせるような血の匂い。


 『俺のおかげ』で、『男が死んだ』。

 『俺のおかげ』で、『男は殺された』。

 つまり、この男は、『俺が殺した』。


 その瞬間、どうにもならない衝動――えずきが腹の底から駆け上ってきて、俺は、その場に、嘔吐した。


 吐いても吐いても収まらなかった。

 無理に吐き続けたせいか、吐くものに血まで混じるようになったが、それでも止まらなかった。

 吐くものがなくなっても、胃液を吐き続けた。


 四つん這いになって嘔吐物にまみれていると、血糊の飛び散る階段に座って俺を見下ろしていたインテレークが、呆れた顔を隠そうともせずに言った。


「おっさん、コロシを見るのは初めてだったかのかよ。それでよく志願したな」


 うるさい。現代日本に生きていて、殺人現場に立ち会うことなんかそうあってたまるか! まして自分が、その死に関わるようなことになるなんて!


「まったく、見直したと思ったらこれだからよお。しっかりしろよ」


 インテレークに腕を引っ張られ、かろうじて立ち上がる。

 喉の奥が灼けるように痛む。

 口の中の不快感が強烈だ。

 とりあえず、腰に結わえた革袋の水で、口をすすぎ、吐き出す。


「上には誰もいなかった、ただの見張り台だったみたいだ。ハズレだったが、ひとり見張りを突破したのは、結構デカイぜ。この調子で、目的のブツもオレたちが見つけちまおう」




 再び一階に戻った俺たちは、暗い通路を進み、やがて壁の破れた部屋に入った。

 その出入口の正面の壁は、火砲の攻撃でも受けた跡なのか、大きく崩れていた。壁の破れ目からは、やわらかな月の光が差し込んでいて、がれきの向こうに外の防壁が見える。


 部屋を見まわすと、横長の部屋だった。部屋に入るのに使った出入り口から、それぞれ左右の壁まで、それぞれ左手側には二、三メートルほど、右手側には二十メートル超、といったところか。奥行きは五、六メートル程度と思われた。


 いざとなったらここから脱出できそうかと思ったが、崩れた壁の周りの床は腐ってボロボロ、壁の穴よりもはるかに大きな穴になっていて、とても近寄れそうにない。


 床の下は地下室になっているようだが、どうやら使われてはいないようだ。床の穴からのぞいた感じでは、下の床まで三メートルほどだろうか。

 奥――外壁のほうからこちらの出入り口近くまで腐朽が進んでいて、板がもう、スカスカだ。踏むと、ギシギシと不快な音がする。


 とりあえず手近な左側の出入り口に向かうことにし、壁に貼り付いて出入口を調べようとしていたインテレークが、突然、左手を俺に向けて、こぶしを肩の高さに挙げた。


 『動くな』のサインだ。

 慌てて、インテレークの後ろになるように、壁に貼り付く。


 ひた、ひた、ひた……


 ――足音!!

 また敵か!?


 心臓が飛び出しそうになりながら、体を縮める。


 ひた、ひた、ひた……。


 部屋の出入り口から、こちらに近づいてくる足音。

 ナイフを構えるインテレーク。

 俺も、腰に差した、リトリィが鍛えてくれたナイフに手を伸ばす。


 ひた……。


 ――立ち止まった!?

 気づかれたのか!?

 そう思った瞬間だった。


 「だれ……?」


 インテレークが飛び出すのと、出入口の向こうから声が聞こえたのが同時だった。




「あぶねえ、うっかり殺しちまうところだったよ」


 出入口の向こうにいたのは、獣人族ベスティリングの女性だった。


 俺より少し年下くらいか? 耳の形とふさふさの尻尾から、おそらく犬属人ドーグリングだろう。

 ただ、それ以外のパーツは、基本的には人間と変わらない顔立ちだ。腕や脚も、リトリィのように毛深いこともない。


 女性はおびえた様子を見せていたが、無理もない。つい今しがた、突然現れた男に、無言で、ナイフを喉元に突き立てられたのだから。内股に隠すように丸まったままの尻尾からも、その怯えが見て取れる。


 ただ、その怯えは、インテレークに襲われたことだけが原因ではないように思われた。


 シミだらけの汚れたワンピース以外は身に付けておらず、やせ細った姿から、過酷な状況に置かれていたことが分かる。


 裂けた服が左の肩からずり落ちていて、小ぶりな乳房が露になっているが、特に羞恥心のようなものは見せていない。

 そのうえ彼女からは、つんと鼻を突く、嗅ぎなれた、海産物の干物のようなニオイが感じられる。


 さらに、その左頬は青黒く腫れていた。何か粗相をして、殴られたのだろう。

 まったくもって、その気の毒な境遇が推察された。


 インテレークはナイフをしまいながら手を上げ、そっと耳打ちした。


「オレたちはあんたらを助けに来た。もうすぐオレたちの仲間が来る。跳ね橋を降ろす仕掛けの部屋を知らねえか?」


 その瞬間、虚ろだった彼女の目が大きく見開かれた。後ずさりをしようとして、しかし背にした壁にぶつかる。


「わ、ワタシたちを、どうスるつもり……?」

「安心しろ。オレたちはあんたらを助けに来た。そのために、跳ね橋を降ろしたい。仕掛けのある部屋を知らねえか」


 彼女は、動揺した様子で目をしばたたかせ、俺とインテレークを何度も見比べる。


 本当に助けてもらえるのか、信じていいのか、計算しているのかもしれない。とりあえず安心してもらえるように、俺は笑顔を浮かべてみせた。


 ……びくりとされて、ちょっとへこむ。そんなに俺、不自然な笑みを浮かべたのだろうか。日本で鍛えられた営業スマイルが通じないなんて。


 女性は、しばらくためらっていたようだったが、やがて、意を決したように、上目遣いに俺たちを見た。


「じゃ、……じゃあ、ふたりとも、コッチにキて……? タスけてくれる、おレイもしたい、から……」


 ワンピースの裾を、ちらりと持ち上げる。

 女性は、自分がやってきた出入口と反対方向──部屋の右端にある出口に向かって歩き始めた。


 ――尻尾を丸めたまま。

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