第271話:久々のデート

「……本当に、信じてくださるんですか? 、だと――」


 最初、俺はその意味が理解できなかった。

 リトリィの子供らなら俺の子供――その前提が、当たり前すぎて。


「ほんとうに? わたしは、なんですよ? 奴隷商人に」


 やっと、気づいた。

 気づいてしまったのだ。

 彼女が抱えていた、葛藤に。


「あなたは、信じてくれるんですか? 見てもいない、わたしの潔白を。本当に!? 疑うこともなく!?」


 悲痛な叫びに、俺は手を伸ばし――


『抱けば、言うことを聞くと思っているんですか?』


 あのときの言葉が、胸を貫く。

 そんなつもりはなかった、と言いたくても、無駄だ。抱けば落ち着いてくれるだろう、そう思っていたし、だからあのとき、そうしてしまった。


 ――その結果が、あのザマだったんだ。


 伸ばしかけた手が、しばし、止まる。


「リトリィ、俺は――」

「やっぱり、信じられませんよね」


 彼女は、笑っていた。

 虚ろに。


 あの、山で、さんざん見てしまった、あの、感情の見られない、笑顔。


「待て、俺はリトリィのこと、疑ったりなんて――」

「だったら、どうして今、手を止めたんですか?」

「い、いや、それは――」


 違う。

 俺はリトリィのことを避けようとか、そんなこと、思ったりしていない。

 俺は、君のことが――


「わたしがあんな目にあって、それでもまだ、きよらかだって、本当にそう思ってくださってるんですか!」


 答えに詰まる。


『初物じゃないことだけが惜しいらしいんだが、おかげであのうるさい頭領がするんだとさ。終わったら出発まで、オレたちにも回してくれるらしいぜ?』


 あのとき――砦で聞いた、奴隷商人だか護衛だかの男たちのセリフ。

 が何を意味するかなんて、考えるまでもない。


 全裸で、天井から伸びる鎖につながれていたリトリィ。


 ナニをされたかだって?


 ガルフは言った。

 手を出すなという約束を破ったから、頭領をぶち殺したと。


 糞狼の約束は、破られたのだ。


 ……いや、違う、問題はそんなところにあるんじゃない!

 リトリィは――俺を信じられないのだ。

 俺が、彼女を清らかな身だと思っている、ということを。


 ……リトリィのお腹に宿ったかもしれない子――その子が、俺の子ではない可能性を、疑っていると、そう思っているのだ。


「だから、なん、だい?」


 自分の顔が、無理矢理にひん曲げられている自覚はある。

 でも、こうするしかなかった。

 俺は、彼女のお腹に宿ったかもしれない子が、誰の子かなんて、今この瞬間までまったく疑っていなかった。


 だが、それは今も変わらない。

 絶対に俺の子に違いない。

 そう断言してやれる、何度だって!


 ――でも、彼女は。


 彼女は苦しんでるんだ。

 彼女に非がないことで。


 彼女の心はいま、不安で乱れている。

 そこにぴしゃりと彼女を否定するのは、どうなるんだろう。


 俺は極力声の調子を押さえ、無理に笑顔を作った。


「君も、子供ができることを楽しみにしてただろう? それを喜ぼうよ」

「そうやって今、無理に納得されていたって、どうせあなたは――」


 それ以上、言わせたくなかった。

 彼女は、自分で自分を傷つけているだけなんだ。

 俺がきっと言うだろう赦しを、認めたくないんだろう。


 俺の子ではないかもしれない――渦巻く疑惑を、不安を、優しさという名の仮面で覆い隠し続ける、偽りの愛を。


 身をよじる彼女を捕まえるようにして、抱きしめる。

 力いっぱい。


 ――抱きしめることが、できた。

 彼女の力なら、俺を振りほどくなんて難しいことじゃないはずなのに。


 それがすなわち、彼女のほんとうの心なんだ。

 けれど、自分を呪い続けているのだ、彼女は。


 その原因を作ってしまったことを。

 俺だって悪かったはずなのに。


 彼女は泣き叫び続けた。

 自分は潔白であると。

 でも、あなたは疑い続けるのだろうと。


 リトリィ自身、俺の血を繋ぐ仔を産むことにこだわっている。

 ガルフもあれだけ切望している、「自分の血を繋ぐ我が子」。


 あなたも、そうでないはずがない、と。


 ああ、くそったれめ。

 糞狼の奴、とんでもない呪いを植え付けやがって。




 朝食の支度をするリトリィの目は、なんだか赤く、はれぼったい。

 けれど、昨夜のように取り乱しているわけではない。少なくとも、いつも通りの働き者の娘だ。


 昨夜、結局、シヴィーさんが部屋にやってきて、リトリィを平手打ちした。

 しばらく預かりますね、と別の部屋に引きずっていって、そして一時間ほどしてから、落ち着いた彼女をまた連れてきたのだ。


「……旦那さまを信じない妻でいいのですかって、お叱りを受けました」


 リトリィはそう言って、しばらく、ベッドに入ってこなかった。


「もしあなたに認められなくても、あなたの仔だって、わたしは分かっています。だから、もしできていたなら、授けていただけたことを喜んで、ひとりで、大事に育てよう――そう、思っていたんです」


 糞狼に向かって『自分はムラタさんのものです』と啖呵を切ってみせた彼女が、裏でそんなことを考えていただなんて。

 馬鹿みたいに感激していた俺は、本物の馬鹿だった。

 彼女の葛藤に、なにも気づいてやれていなかった。


 だから、俺は、彼女をベッドに呼んだ。

 ぎゅっと抱きしめて、一緒に名前を考えよう、と言った。


 彼女は泣いた。

 ずっと泣いていた。

 ごめんなさいと、泣き続けた。


 だから、今朝も、はれぼったい目をしている。

 でも、昨夜のようなそぶりは見せていない。


 ただ、俺はこれまでの彼女の葛藤に、何も気づいていなかった。

 彼女が今、心にどんな闇を抱えているのか、彼女の外見からは全く想像がつかない。


 でも、彼女はそれを、見せていないのだ。

 ――見られまいとしているのだ。


 だったら、それを蒸し返すことに、きっと意味など無いのだろう。

 俺は、今の彼女のあるがままを、真正面から受け止めるだけだ。




「気晴らしに、いちでも散歩してきたらどうですか」


 例の狼藉者たちはさんがやっつけてくださったんですし――シヴィーさんに言われても、城内街で散歩などしたところで、気晴らしになるわけがない。

 彼女を蔑視する街の住人たちの心無い視線で、面白くもないものになるに決まっている。


 やんわりと断ると、門外街にきまっているでしょう、と返された。


「逢引のつもりで、二人きりで行ってらっしゃい」


 つまりデートして来いと。

 ……今の彼女にとって、俺と二人きりで行動することが気晴らしになるのか、正直疑問だったのだが、そう考えていた俺がいかに大馬鹿だったかは、現在実証中だ。


「ムラタさん、あれ、食べませんか?」


 久々の二人きりの外出、彼女はひどくはしゃいでいた。

 にぎやかな雑踏の中で、精一杯のおしゃれをして、金の尻尾をぶんぶん振り回すように俺の手を引く彼女は、あまりにも輝いていた。


 パフォーマーのジャグリングに感嘆の声を漏らし、串焼き屋のおやじと値引き合戦を勝ち抜き、小さな子に尻尾を掴まれて困惑しつつも触らせてやる。


 常に俺の名を呼び、左の腕にぶら下がるようにして身を寄せ、一つのものを分け合って食べては、嬉しそうに口を寄せる。


 仕立て屋に寄り、なにやらふんふん頷きながら最新流行の服をまじまじとみて、なにか納得したと思ったら今度は布屋へ。


 上等そうな布をいくつも見繕い、俺にあてがい、別の布と重ね合わせてうなりつづけ、そして購入した、暗褐色の、上等そうな毛織の布。


 合わせて、細工物屋で、螺鈿らでん細工ざいくのようにキラキラ輝くスタッドボタン、木目が美しいシックなトグルボタンや四つ穴ボタン、縁取りのためだろうか様々な飾り布など、山のように買っていた。


 仕立て屋に頼んだ方が手間でないだろうと思ったが、彼女がやりたがっているのだ。それを否定する必要はない。


 ベンチで休憩がてら、薄く香りづけされた水を飲む。

 柔らかな日差しに、春の訪れを感じる。


 あんなことがなければ、このデートも、心の底から楽しめただろう。

 このささやかなデートで、本当に嬉しそうにはしゃぐリトリィを、痛々しいものとして見ることなど、なかったはずだ。


 肩を寄せ、嬉しそうに見上げて、そっと目を閉じる彼女に、軽く、唇を重ねる。


「ムラタさん、大好きです」


 そう言って微笑み、そっと肩に身を寄せてくる。

 幸せだ。

 誰がなんと言おうと。


 幸せの、はずなんだ……。


 しばしの間、目を閉じて、肩に乗せた彼女のぬくもりを味わう。


 そっと目を開け、リトリィに目を移し、そして、背筋が凍りつく。


 遠くを見つめる彼女は、笑っていなかった。

 虚ろな目で、どこともしれぬ彼方を、見つめていた。


 すぐ俺に気づいて、取り繕うように笑ってみせたけれど、それがかえって彼女のいまの心の有り様を示しているようで、胸が痛かった。


 気づかなかったふりをして笑ってみせたけど、こんな関係が、健全なわけがない。

 じゃあ、どうすればよかったんだろう。




「ムラタさん、一度、お家に帰りませんか?」


 リトリィが、そう言って微笑んでみせた。


 ――家か。

 そうだな。この山のような買い物、いや持っているのはリトリィで、俺はほとんど何も持たせてもらえないんだけど、それでデートを続けるのも大変だ。


 それに、久しぶりの家だ。ゴーティアスさんの屋敷に戻る前に、少し、のぞいていくのも悪くないだろう。




 ――と思っていた。


 家に入った瞬間、全ての買い物を放り出したリトリィに飛びつかれ、そして、泣かれた。


 すごくしあわせなんです、と。

 あなたとこうしているだけで、すごくしあわせなんです、と。


「本当なんです、本当にわたし、幸せなんですよ?

 ――どうしてそんな、つらそうな目で、わたしを見るんですか? そんなにわたしといるのが、おつらいんですか……?」


 ああ。

 まただ。

 また、彼女を泣かせた。

 彼女が虚ろな目をしていたのは、それだったのか。


 俺が、彼女を、腫れ物を触るような目で見ていたことを、見抜いていたんだ。

 それが、辛かったんだな。


 ――ごめん。本当に、ごめん……!


 思わず抱きしめると、髪を撫で、背中をさすりながら、俺も、しばらく、泣いた。




 ノックの音で我に返り、俺が近いからと、足元の買い物の袋を拾い上げてからドアを開けて、後悔する間もなく突き飛ばされた。


「ムラタさん――!?」

「死ね! キサマとそこのメスのせいで、全てが台無しだ!!」


 腹に来る、尖ったモノの、衝撃。


 フード付きローブの男の憎々しげな言葉に、俺は、押し倒されながら一瞬で理解する。


「奴隷商人の、残党――!」

「残党――だと? キサマのせいだろうが! あの裏切り者の男も、キサマのメスのせいで狂った! せっかく鉄血党に入党できて、俺サマもこれからだったというのに!」

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