第270話:「こない」意味

 抜糸ばっしというものは痛いものだ――そう思い込んでいたが、意外とスルスル抜けるものだと知って、拍子抜けしたものだった。

 ――日本ではな。


「いだだだっ! もう少し、もう少し優しく!」

「情けないことをおっしゃいますな。男は黙って耐えるものです」


 シヴィーさんの、容赦のない抜糸。

 日本で縫うような怪我をしたとき、抜糸は全然痛いものではなかったので、完全に油断していた。


 痛いって肉に食い込んでるよ引っ張られてるよほんと痛いんだってぎゃあああ!


 くそう、きっと糸のせいだな。きっと日本じゃ釣り糸みたいなテグスだから、スルスル抜けたんだ。


 俺の腹を縫い合わせたのはただの縫い糸だから、きっとかさぶたとかが絡まって痛みを引き起こすんだろう。


 ビバ現代文明! やはり科学技術は偉大だ、みんな理科の勉強しとけよぉおおッ!?


「訳のわからないうんちくを絶叫しながら糸を抜かれるなんて、ムラタさん、すごいんだか情けないんだか、分からなくなってきました」


 現実逃避しながらでなきゃ、痛みで泣きそうだったんだよマイセル! それくらい許してくれたっていいだろ!




「抜糸も無事済みましたけど、何かあってはいけませんから。今日は様子を見てもらって、明日、お立ちになってはいかがですか?」


 ゴーティアスさんが、名残惜しそうに言う。

 いや、十日間以上も世話になっていながら、さらに滞在するのはと気が引けた。

 だが、二人からどうしてもと言われて、結局もう一晩、甘えさせていただくことになってしまった。


 まだ力のいる作業は傷にさわる恐れがあるから、できることは少ない。だが、世話になったぶん、何かしたくて、俺は手の届く範囲で掃除などの手伝いをした。


 久しぶりに動かす体は重く、たった十日ほどの寝たきり生活であっても、身体はなまってしまうものなんだと実感した。

 だが、かえってリハビリをしなければと、無理をしない程度で働かせてもらった。


 リトリィもマイセルも、はじめはそばでやたらと気遣ってくれたが、それではリハビリにならない。

 何度も大丈夫だから、もし何かあったらすぐにお願いするからと何度も頼んで、やっと一人で作業させてもらえるようになった。

 だが、物陰から見られてるのは、俺、ちゃんと気づいているからな?




「……あの、ムラタさん。おうちに、ものをとりに行きたいんです。ついでに、とってきてほしいものはありますか」


 以前にリトリィに問われて、俺は製図用の鉛筆やら定規やら、製図板やらをお願いしたことがあった。


 その時、俺はリトリィが何を取りに帰ったのか、深く考えもしなかった。


 その報いは、すぐにやってきた。




「そういえば、もうこの家に世話になって、何日目だっけ?」

「そうですね……もう十四、五日になりますね」

「そうか、もうそんなになるんだな」


 抜糸を済ませてから三日目の夜。

 ゴーティアスさんもシヴィーさんも、なんだかんだ理由をつけて、俺たちを引き止めていた。


 二人暮らしのところに、突然孫のような年頃の娘たちがやってきて、しかもどうにも素直でよく働く姿に、可愛くて手放したくないような感じらしいのだ。


 特にマイセルは少々子供っぽいところがまた、ゴーティアスさんのお気に召したらしい。花嫁修業自体は厳しいようだが、マイセルもよくなついているようだ。


 そんなわけで、ずるずると世話になってしまっていたのだが。


「十四、五日か……さすがに世話になりすぎだな。明日、やっぱり帰ろうか」

「そう、ですね。とても気安くしていただけますけれど、やっぱり色々、遠慮することもありますし」


 ふふ、と笑って、そっと唇を重ねてくるリトリィ。


「……遠慮か」


 いろいろ、たしかに、そうだ。

 そっと彼女の髪を撫でる。

 いま、こうしてベッドを共にしていても、やっぱり気兼ねして、互いに体を重ねるのはためらわれてしまうのだ。互いの体にふれあい、その感触を確かめ合う――それ以上は、なかなか勇気が出ない。


 だってここは、ゴーティアスさんの夫婦の寝室だったのだから。さすがに色々、考えてしまう。


「二週間、ごぶさたか……」


 冗談めかしてつぶやいて、そして、気づいたのだ。

 十四、五日の意味を。


「そういえば、その……体調はどうなんだ?」

「体調、ですか?」

「ええと、その……」


 男からは言い出しづらい、女性の周期の、アレだ。

 獣人は月の運行に大きく影響されていて、『藍月らんげつ』の夜以降の十五、六日かそこらで周期がやってくる、とペリシャさんが言っていたはずだ。


 藍月の夜から、十五日なんてもう、すでに過ぎている。


 俺は、純粋に、心配して聞いたのだ。


 果たしてリトリィは、色を失った。

 ひどく怯えるように身を起こし、俺から目をそらす。


「……どうした?」


 リトリィは、しばらく黙っていたが、観念したように、重い口を開いた。


「きて、ないんです……」


 きて、ない。

 なにが。


 ……聞くまでも、ないことだ。


「……ええと、失礼なことを聞くけど、いいか? ……その、いままで、遅れたことは?」

「……ない、です……」


 ……これは、つまり、ええと。

 ……うん、落ち着け、俺。


 リトリィは、俺に対しては、嘘をつかないと言った。

 よほどの時以外は冗談すら言わないのだから、その想いは筋金入りだ。


 藍月の夜は、ええ、その、頑張りましたとも。


 ……つまり、うん、いわゆる、


 とある検査薬「おめでとうございます線でましたよ」

 とある科の先生「おめでとうございます〇カ月です」


 ……というやつだよな!


 つまり、俺は、いわゆる、リア充クライマックスの証を、ついに、ついに……!


 よし! よっし!! よォし!!

 

「そ、そう、か! そうか! できた、んだな!」


 思わず声がうわずってしまう。

 俺にもついに子供ができた――そう考えるだけで、さざ波のように繰り返し襲ってくる感激に打ち震える。


 そう、俺はリトリィの抱える葛藤など、この時、全く気付いてやれていなかった。ただただ、自分の感動に酔っていたのだ。

 どうして俺は、このとき、こんなにも単純に喜ぶことができたのだろう。


 彼女は、ある確信を抱いていたようだった。ただ、それを|信じてくれるかどうか、それが、彼女には不安でたまらなかったらしい。


 だから、続くリトリィの言葉に俺は、すぐには返事ができなかった。


「……本当に、信じてくださるんですか? 、だと――」

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